淫の陰陽師—式神と夜の契り—

よしの

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第二話 雨の中の誓約

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 振り返った瞬間、すでに「それ」は晴人の背後にいた。さっきまで大人しく頭を撫でられていた猫が、毛を逆立てて威嚇するような鳴き声を上げる。晴人は思わず傘を投げ出し、猫を守るように両手を広げて立ち上がった。

 「それ」は、熊のように巨大な狐だった。雨に濡れた白い毛並みが、まるで発光しているように艶めいて見える。七つに分かれた尾。両目の上、ちょうど眉間の部分に、もう一つの「赤い眼」があり、それがぎろりと晴人に焦点を合わせた。

「いたいた。これはかなりの上玉だ」

 狐は口を動かさず、「赤い眼」で喋った。金属質で耳障りな、もののけ特有の声だ。

「ここ数日に会った中で、最も見目麗しい若者ではないか。そなた、名は何という?」

 ——もののけに名を名乗ってはならない。その瞬間、人間は魂を奪われる。

 陰陽師が最初に教わる基本中の基本だ。熱心な修業を行っていない晴人でも、それくらいは知っている。いくら「異端児」だといっても、いろはだけは少年時代に嫌というほど父親に叩き込まれた。

「あいにくだけど、あんたに名乗る名前は持ち合わせてないね」

 平静を装いながら、晴人は答えた。打ちつける雨が、半袖の白いシャツを濡らす。徐々に透けていく晴人の皮膚を見て、「赤い眼」が舌なめずりをするのが分かる気がした。

「へえ、お前は私と喋れるのか。大抵の人間は声を発することもできないのに。なかなか勇ましい。ますます気に入ったぞ」

 狐は、七つの尾を優雅になびかせながら、音も立てずにこちらに近づいてくる。後ろで、三毛猫が「ふーっ」と鳴き声を上げる。

 ——どうしよう、こいつだけでも守らないと。

 晴人は、狐から目を離さないように、ジリジリと後退りながら、三毛猫を足で押し、逃げるよう合図を送った。しかし、猫は恐怖に固まっているのか、それとも闘争本能を刺激されているのか、全く動こうとしない。

 ——くそ、まさか本当にもののけと遭遇するなんて。こんなことなら、陰陽術の基本ぐらい真面目に覚えておけば良かった。

 しかし、今更後悔しても遅い。狐のもののけは、「赤い眼」を光らせながら、確実に晴人との距離を詰めてくる。どうしよう、どうすれば。冷や汗が、雨粒と一緒になってぽたりぽたりと額から垂れてくる。

「凜とした若者を食べるのもまた一興。お前一匹で数年分の精がつきそうだ」

 そう言いながら、狐が初めて耳まで裂けた巨大な口を開けた。

 ——やばい。このままじゃマジで食われちまう

 晴人がそう思った瞬間だった。これまで狐を威嚇して鳴き声を上げていた猫が、不意にジャンプして、晴人の左肩に飛び乗ってきた。まるで風のように素早いその動きに、思わず晴人は「えっ?」と声を上げた。

「こいつ、割とやばいやつだぜ」

 猫が——喋った。

「お前、このままじゃ本当に喰われるぞ」

 ——何だこいつ。まさかこいつももののけか?

 混乱する晴人をよそに、猫は彼の耳元でこう囁いた。

「どうだ人間。見たところお前には素質があるようだ。俺の力を与えてやろう。ただし、お前の肉体を代償に——」

「…ど、どういうことだ?」

 そう尋ねる晴人に向かって、猫は悪びれもせず、こう答えた。

「こいつを殺ってやるから、代わりにヤらせろってことだよ」

「…っ、何言って…⁉︎」

「迷ってる場合か?自分の命がかかってるんだぞ。ほら、うなずけよ。匂いで分かる。お前、陰陽師の血を引いてるな。でも式神は連れてない。俺がお前の『童貞』を奪ってやるよ」

 そんな問答をしている間に、狐はもうすぐ目の前まで来ていた。「赤い眼」が晴人をしっかりと捉えているせいか、どうしても体が動かない。

「さあ、どうする?お前、かなりピンチだぜ?俺と誓約を交わすか?」

 目の前にはもののけ、左肩には猫の姿をした得体の知れない「何か」。晴人の頭の中はぐちゃぐちゃだったが、自分に選択肢が与えられていないことだけは分かった。

 ——…っくそ、仕方ない。どうやら生き延びるためにはこいつの言うことを聞くしかなさそうだ。

 晴人は、甘い息を吹きかけてくる猫に向かって言った。

「分かった。お前の言う通りにしよう。俺の式神になってくれ」

 その瞬間、猫はニヤリと笑みを浮かべ、晴人の肩から降りて、狐と晴人の間に立ちふさがった。徐々にその姿が変化していく。数秒の後、猫は——いや、猫だったものは、浅黒い肌をした逞しい青年へと姿を変えていた——
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