12 / 31
《第3章》九年前の記憶
第1話:二人きりのお出かけ
しおりを挟む
《第3章》九年前の記憶
第1話:二人きりのお出かけ
グレイス伯爵家に引き取られて五年。十三歳になったリズはその日、薄い桃色のドレスを着て出かけていた。
晴れた初夏の陽射しは地面に馬車の影を描き、回る車輪の音を響かせて小道を走っている。林のなかを抜けるには数時間かかる退屈な距離でも、景色は美しい風と音を届けてくれるのだから心配はいらない。
馬車が走る窓の外は雄大な自然。
年中雪が積もる神台メテオの山岳を望みながら進む先は、隣国アルヴィドとシュゼンハイド王国の国境付近に存在する小さな村。
「今向かっているマーリア村はメテオ山脈の谷間にあるとても美しい場所でね。毎年初夏にはコイベリーの収穫祭が行われる」
「コイベリー?」
「リズは食べたことがない?」
馬車に同席するのは薄紅の髪を静かに揺らした十七歳のリヒド・マキナ。まだ薄茶色の優しい瞳をした両眼は健在で、じっとリズを見つめていた。
「それなら楽しみにしているといい。もとは野生していたものを品種改良した野イチゴで、収穫祭では採れたてが味わえるよ」
リヒドと初めて会ったのは、五年前。八歳のリズがグレイス伯爵の家に引き取られてから間もなくして。雪が降るほど寒い日。それはグレイス家と懇意にしているマキナ公爵が、被害を受けたフォンフェンの森への支援の際に屋敷に立ち寄った日のこと。
「こちらがフィオ・マキナ公爵とメアリ夫人だよ」
モーガンに呼ばれて顔を出した部屋には、初めてみるマキナ公爵夫妻の姿。絵本の挿絵に出てくる王子様とお姫様みたいに美しく、並んで笑顔を向けられるとまぶしくて直視できそうにない。生まれながらの貴族というのは、リャシュカの町で見てきた大人たちとは違う匂いがした。世界が交わるはずのない人種。そんな人たちに紹介される意味がわからないと、リズは警戒するようにモーガンの後ろに隠れながらその顔を盗みみていた。
「その子が例の娘かい?」
「まぁまぁまぁまぁ、女の子はやっぱり可愛いわ。わたくしも娘が欲しかったのよ」
今は三匹の兎もいない。頼れるのはモーガンだけだと、リズは二人に覗き込まれる視線に委縮する。それを初めからわかっていたのか、何も答えないリズを確認した公爵夫妻は顔を見合わせてからモーガンにひとつ頷いた。
モーガンが無言で「助かる」と息を吐いたのがわかる。
その息は何を意味するのか、リズは好奇心に負けてその顔を見上げた瞬間、マキナ公爵夫人の後ろに小さな子どもがいることを知った。
「・・・おんなのこ?」
薄紅の髪に薄茶色の瞳。唇の左下にあるほくろが印象的。線の細い儚さはメアリ婦人譲りだが、表情はどこかフィオ公爵に似ている。
「ふふ、可愛いでしょう。でも違うの、この子はリヒド。十二歳よ。どうか仲良くしてちょうだいね」
「リヒド・マキナです。初めまして」
四歳離れた年上の男の子は、令嬢と間違えるほど愛らしかったのだから無理もない。この時見たマキナ公爵家の次男、リヒド・マキナの笑顔はリズの警戒心を一瞬にして吹き飛ばすほどの破壊力を持っていた。
「やはり子どもは子ども同士がいいらしい」
ようやく自分の後ろから出てきたリズに安堵したのか、モーガンがフィオに目配せする。メアリもそれを察したのか、リヒドにリズを頼んで、大人たちは早々に部屋に引きこもってしまった。つまり、自分の屋敷でありながら他人に手を引かれてリズは屋敷を追い出されたことになる。
「ここでいいかな」
二人で手を繋いで訪れたのは屋敷内の温室。雪がちらつく冬の寒さをしのぐには十分な遊び場だった。
「えっと、改めて自己紹介をしよう。マキシオ領を統治するフィオ・マキナ公爵家の次男で、僕の名前はリヒド・マキナ」
そう言って手の甲に口付ける仕草にリズは困惑する。まだ読むことも、書くこともできない絵本の中に出てくる王子様のようだと、知らずと顔も赤く染まる。
「私はリズ・・・リズ・グレイス」
手の甲に触れた唇の柔らかさを思い出しながら、リズは自分の名前を小さく告げる。
静かな冬の温室はどこか白く、透明の窓の向こうには樹齢千年を軽く超える木々が茂ったフォンフェンの森が見えている。こんな場所で次に何を口にすればいいのかと戸惑っているうちに、リズは再び手を引いて歩き出したリヒドにつられて足を踏み出した。
「僕は十二歳になって、今日が初めての視察同行なんだ。だけど、ここにはお父様に連れられて何度も遊びに来ているから、屋敷のことはリズよりもちょっとだけ知っているかな。ああ。フォンフェンの森はすごいね、リズは行ったことある?」
「ない、です」
「そっか。いつか一緒に行けたらいいな」
手を繋いだまま散策していても、リズの視線はずっと森を眺めている。
温室に珍しい植物や花はたくさんあるのに、リズの興味をひくものが外にあると知って、リヒドも話題を森に変えたようだった。
「フォンフェンの森には群青兎っていう獣亜人が住んでいるのは知ってる?」
「・・・うん」
外を見つめたまま小さく首を縦に振ったリズは、そこでようやくリヒドに顔を向ける。
群青兎と聞いて思い浮かぶ顔は決まっている。フォンフェンの森に行ってきたというリヒドなら知っていることがあるかもしれないと、リズは期待を込めた瞳でリヒドに問いかけていた。
「シシオラとゼオラとルオラに会った?」
「それは誰、リズのともだち?」
少し困ったリヒドの顔に、リズの表情も少し曇る。
「だれ」と聞かれても「シシオラはシシオラ」「ゼオラはゼオラ」「ルオラはルオラ」としか答えようがない。
「あ、つがいっていうのなの」
「つがいって、婚約者ってこと?」
「こんやくしゃ?」
「結婚を約束しているってこと。でもそれならどうして傍にいないの?」
「えっと、カイオスが修行だって、太陽が出ている時間は森に連れていっちゃうの。でも、リズはまだ子どもだから、お屋敷にいなきゃいけないの」
なんとか言葉を選び出したリズに、リヒドは「ん-」としばらく考え込んだあとで「寂しいね」と頭を撫でてくる。
「・・・さみしい?」
「心許せる人と離れるのは寂しいと思うよ。だからこれからは太陽が出ている時間は僕が一緒にいてあげる」
よしよしと頭頂部を撫でられる感覚は知っている。
三匹の兎が傍にいるときの温かさと同じ。不思議と心が落ち着く魔法の手。
「ありがとう、リヒドさま」
その手の下からリヒドを見上げたリズは、ようやく年相応の女の子の顔をした。
「・・・リヒドさま?」
なぜか頭を撫でるのをやめてしまったリヒドにリズは首をかしげる。
もっと撫でていてほしいのに、どうしてやめてしまうのか。歩き出したリヒドを追いかけながら、リズはその手を今度は自分から握りしめていた。
「ねぇ、リヒドさまはリズの音がわかる?」
「音?」
「シシオラたちは、リズの音が好きだっていうの。体のなかから音が聞こえるんですって、リヒドさまはリズの音をどう思う?」
「聞くってどうやっ・・・て」
言葉よりも態度で示した方が早い話もある。リズは振り返ったリヒドの心臓に耳をあてて、じっと目を閉じてその音を聞いた。
「リヒドさまは少し早い音がするのね。踊っているみたい」
想像よりも力強い音がしている。可愛い顔をしているからといって、体の中まで可愛い音がするわけではないらしい。シシオラやゼオラ、ルオラに個人差があるように、リヒドの音も今まで聞いたことがない鼓動を奏でている気がした。
「群青兎は傍にいるだけで聞こえる耳を持っているけど、私はこうしないと聞こえないの。リヒドさまもリズの音を聞いてみて」
今度はリヒドの順番だと、リズはじっと動かないリヒドの顔を自分の胸に押し当てる。
「ねぇ、他の人と違う音がする?」
「そう・・・なのか、な」
自分よりも少しだけ背の高いリヒドの頭は、群青兎のように耳が長くないぶん顔の距離が近く感じる。自分で自分の音が聞けない以上、リヒドがいまどういう音を聞いているのかはわからないが、息の音さえ馴染む静寂な温室の端で二人。じっと耳を澄ませて溶けあう体温が心地よく混ざっていく。
「ふふ、リヒドさまの髪がくすぐった・・・っ」
ようやく手を離したリズに解放されたはずのリヒドの顔が、予想に反して胸から離れていかない。むしろ顔をその場に残したまま抱きしめてきたリヒドにリズは固まっていた。
いったい、どう反応するのが正解だろう。
心臓が変な音を出している気がするが、やはり自分ではよくわからない。急激に熱くなってきた気もするが、原因は考えなくてもリヒド以外にはないだろう。
「ごめん。音はわからないけど、リズの声は好き、だと思う」
そう言って胸元から赤い顔で紡がれた告白に、リズも赤い顔で息をのむ。
「私もリヒドさまの、声、好き」
片言になった言葉はうまく伝わっただろうか。リヒドは言葉の代わりに頭を撫でて額にキスをくれた。
その温かさは全身に広がって、恥ずかしさと照れくささを連れてくる。無言で目を合わせて小さく軽く笑った二人は、大人たちが心配するまでもなく数時間でその距離を縮めていた。
そんなわけで、リズの時間はシシオラたちと同じくらいリヒドにも占領されているといっても過言ではない。
出会いから五年。
十七歳のリヒドと十三歳になったリズが、二人で馬車に揺られて出かけるのも珍しいことではなかった。いや、訂正しよう。二人きりというのは、これが初めてと言える。
「わたしと二人では心もとないだろうが、今日は同席してくれて助かるよ」
「いえ。まさか誘っていただけると思っていませんでした」
「どうして?」
「だって今日は大事な仕事として足を運ばれるんでしょう。遊びに行くのではないのに、私も一緒でよかったんですか?」
「遊びではないから、一緒にいく意味があるんだよ」
リズは意味を含んだ笑みを浮かべるリヒドの真意がわからずに首をかしげる。
そもそも窓の外を流れる景色ではなく、じっと見つめられたまま過ぎていく時間が異常に長い。思わず出会いの回想をしてしまうほど、リズはその瞳に自分の顔を映していた。
「まあ、わたしは嫡子ではないからそこまで深刻にとらえなくて大丈夫だよ。マーリア村はマキシオ領ではなく大臣のコカック・ジェイン侯爵が治めるジェイナス領にあるからね。隣接している領と友好的であると村の人々にわかってもらう程度の意味しかない」
「でしたら、大臣もお見えになるのですか?」
「いや、代役が顔を出すと思うよ。国境付近にしては治安がましとはいえ、利便も悪いし、地元名産品の収穫を祈るだけの祭に色々とお忙しいコカック大臣はこないだろう」
その言葉に少しだけホッと肩の荷が下りる。
まだ伯爵令嬢として引き取られて五年。生まれながらの伯爵令嬢であれば、リズが引き取られた年齢にはある程度の教養が身についているというものだが、リズはようやくそれに追いついた程度でしかない。八年間の育ちはそう簡単に埋まるものではなく、人前で失敗せずに振る舞えるかと問われても自信はない。
「ところで、リズ。堅苦しい喋り方をいつまで続けるつもりかな?」
マーリア村の言葉はアルヴィド語が混ざると言われていたことを思い出して、挨拶の言葉は何だったかと呟いていたリズは、リヒドに名前を呼ばれて顔をあげる。
美しい顔に見つめられて、心臓が跳ねた気がした。
「そっ、外では令嬢らしくあれと、お義父様が」
「ここにモーガン様はいないし、わたしが許そう」
圧力のある気配に熱が上ってくる。馬車の揺れのせいにしてリヒドに触れたい。そう願ってしまった自分の意図を知りたい。
「リズ」
「はっ、はい」
その指が差した窓の外。リズは見慣れた長い耳がそこにあるのを見つけた。
第1話:二人きりのお出かけ
グレイス伯爵家に引き取られて五年。十三歳になったリズはその日、薄い桃色のドレスを着て出かけていた。
晴れた初夏の陽射しは地面に馬車の影を描き、回る車輪の音を響かせて小道を走っている。林のなかを抜けるには数時間かかる退屈な距離でも、景色は美しい風と音を届けてくれるのだから心配はいらない。
馬車が走る窓の外は雄大な自然。
年中雪が積もる神台メテオの山岳を望みながら進む先は、隣国アルヴィドとシュゼンハイド王国の国境付近に存在する小さな村。
「今向かっているマーリア村はメテオ山脈の谷間にあるとても美しい場所でね。毎年初夏にはコイベリーの収穫祭が行われる」
「コイベリー?」
「リズは食べたことがない?」
馬車に同席するのは薄紅の髪を静かに揺らした十七歳のリヒド・マキナ。まだ薄茶色の優しい瞳をした両眼は健在で、じっとリズを見つめていた。
「それなら楽しみにしているといい。もとは野生していたものを品種改良した野イチゴで、収穫祭では採れたてが味わえるよ」
リヒドと初めて会ったのは、五年前。八歳のリズがグレイス伯爵の家に引き取られてから間もなくして。雪が降るほど寒い日。それはグレイス家と懇意にしているマキナ公爵が、被害を受けたフォンフェンの森への支援の際に屋敷に立ち寄った日のこと。
「こちらがフィオ・マキナ公爵とメアリ夫人だよ」
モーガンに呼ばれて顔を出した部屋には、初めてみるマキナ公爵夫妻の姿。絵本の挿絵に出てくる王子様とお姫様みたいに美しく、並んで笑顔を向けられるとまぶしくて直視できそうにない。生まれながらの貴族というのは、リャシュカの町で見てきた大人たちとは違う匂いがした。世界が交わるはずのない人種。そんな人たちに紹介される意味がわからないと、リズは警戒するようにモーガンの後ろに隠れながらその顔を盗みみていた。
「その子が例の娘かい?」
「まぁまぁまぁまぁ、女の子はやっぱり可愛いわ。わたくしも娘が欲しかったのよ」
今は三匹の兎もいない。頼れるのはモーガンだけだと、リズは二人に覗き込まれる視線に委縮する。それを初めからわかっていたのか、何も答えないリズを確認した公爵夫妻は顔を見合わせてからモーガンにひとつ頷いた。
モーガンが無言で「助かる」と息を吐いたのがわかる。
その息は何を意味するのか、リズは好奇心に負けてその顔を見上げた瞬間、マキナ公爵夫人の後ろに小さな子どもがいることを知った。
「・・・おんなのこ?」
薄紅の髪に薄茶色の瞳。唇の左下にあるほくろが印象的。線の細い儚さはメアリ婦人譲りだが、表情はどこかフィオ公爵に似ている。
「ふふ、可愛いでしょう。でも違うの、この子はリヒド。十二歳よ。どうか仲良くしてちょうだいね」
「リヒド・マキナです。初めまして」
四歳離れた年上の男の子は、令嬢と間違えるほど愛らしかったのだから無理もない。この時見たマキナ公爵家の次男、リヒド・マキナの笑顔はリズの警戒心を一瞬にして吹き飛ばすほどの破壊力を持っていた。
「やはり子どもは子ども同士がいいらしい」
ようやく自分の後ろから出てきたリズに安堵したのか、モーガンがフィオに目配せする。メアリもそれを察したのか、リヒドにリズを頼んで、大人たちは早々に部屋に引きこもってしまった。つまり、自分の屋敷でありながら他人に手を引かれてリズは屋敷を追い出されたことになる。
「ここでいいかな」
二人で手を繋いで訪れたのは屋敷内の温室。雪がちらつく冬の寒さをしのぐには十分な遊び場だった。
「えっと、改めて自己紹介をしよう。マキシオ領を統治するフィオ・マキナ公爵家の次男で、僕の名前はリヒド・マキナ」
そう言って手の甲に口付ける仕草にリズは困惑する。まだ読むことも、書くこともできない絵本の中に出てくる王子様のようだと、知らずと顔も赤く染まる。
「私はリズ・・・リズ・グレイス」
手の甲に触れた唇の柔らかさを思い出しながら、リズは自分の名前を小さく告げる。
静かな冬の温室はどこか白く、透明の窓の向こうには樹齢千年を軽く超える木々が茂ったフォンフェンの森が見えている。こんな場所で次に何を口にすればいいのかと戸惑っているうちに、リズは再び手を引いて歩き出したリヒドにつられて足を踏み出した。
「僕は十二歳になって、今日が初めての視察同行なんだ。だけど、ここにはお父様に連れられて何度も遊びに来ているから、屋敷のことはリズよりもちょっとだけ知っているかな。ああ。フォンフェンの森はすごいね、リズは行ったことある?」
「ない、です」
「そっか。いつか一緒に行けたらいいな」
手を繋いだまま散策していても、リズの視線はずっと森を眺めている。
温室に珍しい植物や花はたくさんあるのに、リズの興味をひくものが外にあると知って、リヒドも話題を森に変えたようだった。
「フォンフェンの森には群青兎っていう獣亜人が住んでいるのは知ってる?」
「・・・うん」
外を見つめたまま小さく首を縦に振ったリズは、そこでようやくリヒドに顔を向ける。
群青兎と聞いて思い浮かぶ顔は決まっている。フォンフェンの森に行ってきたというリヒドなら知っていることがあるかもしれないと、リズは期待を込めた瞳でリヒドに問いかけていた。
「シシオラとゼオラとルオラに会った?」
「それは誰、リズのともだち?」
少し困ったリヒドの顔に、リズの表情も少し曇る。
「だれ」と聞かれても「シシオラはシシオラ」「ゼオラはゼオラ」「ルオラはルオラ」としか答えようがない。
「あ、つがいっていうのなの」
「つがいって、婚約者ってこと?」
「こんやくしゃ?」
「結婚を約束しているってこと。でもそれならどうして傍にいないの?」
「えっと、カイオスが修行だって、太陽が出ている時間は森に連れていっちゃうの。でも、リズはまだ子どもだから、お屋敷にいなきゃいけないの」
なんとか言葉を選び出したリズに、リヒドは「ん-」としばらく考え込んだあとで「寂しいね」と頭を撫でてくる。
「・・・さみしい?」
「心許せる人と離れるのは寂しいと思うよ。だからこれからは太陽が出ている時間は僕が一緒にいてあげる」
よしよしと頭頂部を撫でられる感覚は知っている。
三匹の兎が傍にいるときの温かさと同じ。不思議と心が落ち着く魔法の手。
「ありがとう、リヒドさま」
その手の下からリヒドを見上げたリズは、ようやく年相応の女の子の顔をした。
「・・・リヒドさま?」
なぜか頭を撫でるのをやめてしまったリヒドにリズは首をかしげる。
もっと撫でていてほしいのに、どうしてやめてしまうのか。歩き出したリヒドを追いかけながら、リズはその手を今度は自分から握りしめていた。
「ねぇ、リヒドさまはリズの音がわかる?」
「音?」
「シシオラたちは、リズの音が好きだっていうの。体のなかから音が聞こえるんですって、リヒドさまはリズの音をどう思う?」
「聞くってどうやっ・・・て」
言葉よりも態度で示した方が早い話もある。リズは振り返ったリヒドの心臓に耳をあてて、じっと目を閉じてその音を聞いた。
「リヒドさまは少し早い音がするのね。踊っているみたい」
想像よりも力強い音がしている。可愛い顔をしているからといって、体の中まで可愛い音がするわけではないらしい。シシオラやゼオラ、ルオラに個人差があるように、リヒドの音も今まで聞いたことがない鼓動を奏でている気がした。
「群青兎は傍にいるだけで聞こえる耳を持っているけど、私はこうしないと聞こえないの。リヒドさまもリズの音を聞いてみて」
今度はリヒドの順番だと、リズはじっと動かないリヒドの顔を自分の胸に押し当てる。
「ねぇ、他の人と違う音がする?」
「そう・・・なのか、な」
自分よりも少しだけ背の高いリヒドの頭は、群青兎のように耳が長くないぶん顔の距離が近く感じる。自分で自分の音が聞けない以上、リヒドがいまどういう音を聞いているのかはわからないが、息の音さえ馴染む静寂な温室の端で二人。じっと耳を澄ませて溶けあう体温が心地よく混ざっていく。
「ふふ、リヒドさまの髪がくすぐった・・・っ」
ようやく手を離したリズに解放されたはずのリヒドの顔が、予想に反して胸から離れていかない。むしろ顔をその場に残したまま抱きしめてきたリヒドにリズは固まっていた。
いったい、どう反応するのが正解だろう。
心臓が変な音を出している気がするが、やはり自分ではよくわからない。急激に熱くなってきた気もするが、原因は考えなくてもリヒド以外にはないだろう。
「ごめん。音はわからないけど、リズの声は好き、だと思う」
そう言って胸元から赤い顔で紡がれた告白に、リズも赤い顔で息をのむ。
「私もリヒドさまの、声、好き」
片言になった言葉はうまく伝わっただろうか。リヒドは言葉の代わりに頭を撫でて額にキスをくれた。
その温かさは全身に広がって、恥ずかしさと照れくささを連れてくる。無言で目を合わせて小さく軽く笑った二人は、大人たちが心配するまでもなく数時間でその距離を縮めていた。
そんなわけで、リズの時間はシシオラたちと同じくらいリヒドにも占領されているといっても過言ではない。
出会いから五年。
十七歳のリヒドと十三歳になったリズが、二人で馬車に揺られて出かけるのも珍しいことではなかった。いや、訂正しよう。二人きりというのは、これが初めてと言える。
「わたしと二人では心もとないだろうが、今日は同席してくれて助かるよ」
「いえ。まさか誘っていただけると思っていませんでした」
「どうして?」
「だって今日は大事な仕事として足を運ばれるんでしょう。遊びに行くのではないのに、私も一緒でよかったんですか?」
「遊びではないから、一緒にいく意味があるんだよ」
リズは意味を含んだ笑みを浮かべるリヒドの真意がわからずに首をかしげる。
そもそも窓の外を流れる景色ではなく、じっと見つめられたまま過ぎていく時間が異常に長い。思わず出会いの回想をしてしまうほど、リズはその瞳に自分の顔を映していた。
「まあ、わたしは嫡子ではないからそこまで深刻にとらえなくて大丈夫だよ。マーリア村はマキシオ領ではなく大臣のコカック・ジェイン侯爵が治めるジェイナス領にあるからね。隣接している領と友好的であると村の人々にわかってもらう程度の意味しかない」
「でしたら、大臣もお見えになるのですか?」
「いや、代役が顔を出すと思うよ。国境付近にしては治安がましとはいえ、利便も悪いし、地元名産品の収穫を祈るだけの祭に色々とお忙しいコカック大臣はこないだろう」
その言葉に少しだけホッと肩の荷が下りる。
まだ伯爵令嬢として引き取られて五年。生まれながらの伯爵令嬢であれば、リズが引き取られた年齢にはある程度の教養が身についているというものだが、リズはようやくそれに追いついた程度でしかない。八年間の育ちはそう簡単に埋まるものではなく、人前で失敗せずに振る舞えるかと問われても自信はない。
「ところで、リズ。堅苦しい喋り方をいつまで続けるつもりかな?」
マーリア村の言葉はアルヴィド語が混ざると言われていたことを思い出して、挨拶の言葉は何だったかと呟いていたリズは、リヒドに名前を呼ばれて顔をあげる。
美しい顔に見つめられて、心臓が跳ねた気がした。
「そっ、外では令嬢らしくあれと、お義父様が」
「ここにモーガン様はいないし、わたしが許そう」
圧力のある気配に熱が上ってくる。馬車の揺れのせいにしてリヒドに触れたい。そう願ってしまった自分の意図を知りたい。
「リズ」
「はっ、はい」
その指が差した窓の外。リズは見慣れた長い耳がそこにあるのを見つけた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
162
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
婚約者の貴方が「結婚して下さい!」とプロポーズしているのは私の妹ですが、大丈夫ですか?
初瀬 叶
恋愛
私の名前はエリン・ストーン。良くいる伯爵令嬢だ。婚約者であるハロルド・パトリック伯爵令息との結婚を約一年後に控えたある日、父が病に倒れてしまった。
今、頼れるのは婚約者であるハロルドの筈なのに、彼は優雅に微笑むだけ。
優しい彼が大好きだけど、何だか……徐々に雲行きが怪しくなって……。
※ 私の頭の中の異世界のお話です
※ 相変わらずのゆるふわ設定です。R15は保険です
※ 史実等には則っておりません。ご了承下さい
※レナードの兄の名をハリソンへと変更いたしました。既に読んで下さった皆様、申し訳ありません
妹に婚約者を結婚間近に奪われ(寝取られ)ました。でも奪ってくれたおかげで私はいま幸せです。
千紫万紅
恋愛
「マリアベル、君とは結婚出来なくなった。君に悪いとは思うが私は本当に愛するリリアンと……君の妹と結婚する」
それは結婚式間近の出来事。
婚約者オズワルドにマリアベルは突然そう言い放たれた。
そんなオズワルドの隣には妹リリアンの姿。
そして妹は勝ち誇ったように、絶望する姉の姿を見て笑っていたのだった。
カクヨム様でも公開を始めました。
この度、仮面夫婦の妊婦妻になりまして。
天織 みお
恋愛
「おめでとうございます。奥様はご懐妊されています」
目が覚めたらいきなり知らない老人に言われた私。どうやら私、妊娠していたらしい。
「だが!彼女と子供が出来るような心当たりは一度しかないんだぞ!!」
そして、子供を作ったイケメン王太子様との仲はあまり良くないようで――?
そこに私の元婚約者らしい隣国の王太子様とそのお妃様まで新婚旅行でやって来た!
っていうか、私ただの女子高生なんですけど、いつの間に結婚していたの?!ファーストキスすらまだなんだけど!!
っていうか、ここどこ?!
※完結まで毎日2話更新予定でしたが、3話に変更しました
※他サイトにも掲載中
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
婚約者が私以外の人と勝手に結婚したので黙って逃げてやりました〜某国の王子と珍獣ミミルキーを愛でます〜
平川
恋愛
侯爵家の莫大な借金を黒字に塗り替え事業を成功させ続ける才女コリーン。
だが愛する婚約者の為にと寝る間を惜しむほど侯爵家を支えてきたのにも関わらず知らぬ間に裏切られた彼女は一人、誰にも何も告げずに屋敷を飛び出した。
流れ流れて辿り着いたのは獣人が治めるバムダ王国。珍獣ミミルキーが生息するマサラヤマン島でこの国の第一王子ウィンダムに偶然出会い、強引に王宮に連れ去られミミルキーの生態調査に参加する事に!?
魔法使いのウィンロードである王子に溺愛され珍獣に癒されたコリーンは少しずつ自分を取り戻していく。
そして追い掛けて来た元婚約者に対して少女であった彼女が最後に出した答えとは…?
完結済全6話
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
【本編完結】【R18】体から始まる恋、始めました
四葉るり猫
恋愛
離婚した母親に育児放棄され、胸が大きいせいで痴漢や変質者に遭いやすく、男性不信で人付き合いが苦手だった花耶。
会社でも高卒のせいで会社も居心地が悪く、極力目立たないように過ごしていた。
ある時花耶は、社内のプロジェクトのメンバーに選ばれる。だが、そのリーダーの奥野はイケメンではあるが目つきが鋭く威圧感満載で、花耶は苦手意識から引き気味だった。
ある日電車の運休で帰宅難民になった。途方に暮れる花耶に声をかけたのは、苦手意識が抜けない奥野で…
仕事が出来るのに自己評価が低く恋愛偏差値ゼロの花耶と、そんな彼女に惚れて可愛がりたくて仕方がない奥野。
無理やりから始まったせいで拗らせまくった二人の、グダグダしまくりの恋愛話。
主人公は後ろ向きです、ご注意ください。
アルファポリス初投稿です。どうぞよろしくお願いします。
他サイトにも投稿しています。
かなり目が悪いので、誤字脱字が多数あると思われます。予めご了承ください。
展開はありがちな上、遅めです。タグ追加可能性あります。
7/8、第一章を終えました。
7/15、第二章開始しました。
10/2 第二章完結しました。残り番外編?を書いて終わる予定です。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
異世界で大切なモノを見つけました【完結】
Toys
BL
突然異世界へ召喚されてしまった少年ソウ
お世話係として来たのは同じ身長くらいの中性的な少年だった
だがこの少年少しどころか物凄く規格外の人物で!?
召喚されてしまった俺、望月爽は耳に尻尾のある奴らに監禁されてしまった!
なんでも、もうすぐ復活する魔王的な奴を退治して欲しいらしい。
しかしだ…一緒に退治するメンバーの力量じゃ退治できる見込みがないらしい。
………逃げよう。
そうしよう。死にたくねぇもん。
爽が召喚された事によって運命の歯車が動き出す
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
上司と雨宿りしたら恋人になりました
藍沢真啓/庚あき
恋愛
私──月宮真唯(つきみやまい)は他社で派遣社員として働いてる恋人から、突然デートのキャンセルをされ、仕方なくやけ食いとやけ酒をして駅まであるいてたんだけど……何回か利用した事のあるラブホテルに私の知らない女性と入っていくのは恋人!?
お前の会社はラブホテルにあるんかい、とツッコミつつSNSでお別れのメッセージを送りつけ、本格的にやけ酒だ、と歩き出した所で出会ったのは、私の会社の専務、千賀蓮也(ちがれんや)だった。
ああだこうだとイケメン専務とやり取りしてたら、今度は雨が降ってきてしまい、何故か上司と一緒に元恋人が入っていったラブホテルへと雨宿りで連れて行かれ……。
ええ?私どうなってしまうのでしょうか。
ちょっとヤンデレなイケメン上司と気の強い失恋したばかりのアラサー女子とのラブコメディ。
予告なくRシーンが入りますので、ご注意ください。
第十四回恋愛大賞で奨励賞をいただきました。投票くださった皆様に感謝いたします。
他サイトでも掲載中
お嫁さんの俺、オジサンと新婚いちゃハメ幸せ性活
掌
BL
名前のついた新婚なオジ俺のふたりが、休日前に濃厚ラブイチャドスケベを繰り広げ、改めて愛を誓い合う1日の話。
過去作はタグから是非!→オジ俺
攻めのオジサン:一場二郎(いちばじろう)/ メス堕ちさせた男子にまんまと恋堕ち
受けの俺くん:十塚千歳(とつかちとせ)/ メス堕ちさせられたオジサンに恋堕ち
Twitterのリクエスト企画でいただいたリクエスト第6弾です。ありがとうございました!
なにかありましたら(web拍手)
http://bit.ly/38kXFb0
Twitter垢・拍手返信はこちらにて
https://twitter.com/show1write
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる