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第十一夜 監視と管理(上)
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気恥ずかしくて、まともに顔をあげられない。
のどの奥にこびりついた戒の味が、先ほどの情事を思い出させる。晶が来ることなく、あのまま続けられていたら、二人の男の匂いに溶けて染まる未来が待っていただろう。
その証拠に、独占欲の強い涼に注ぎ込まれた液体が、内部に収まりきらないほどの自己を主張し、白濁の液となって足を伝い、ポタポタと床に小さな染みを作っていた。
「……あ…の」
遠慮がちに優羽は床を見たまま口を開く。
狼の姿をした晶に、涼と戒の部屋から連れ出された優羽は、まさに今、晶の歯の隙間でうつ伏せに揺られていた。
晶は、何も答えてくれない。
何をそんなに怒っているのかはわからないが、全身から不機嫌な雰囲気があふれでている。いつもの笑顔の方がまだいい。晶に始終無言でいられると、どう対応していいか判断に迷う。
「え、晶さん?」
薄暗い廊下。てっきり、すぐ前の部屋に入るかと思ったのに、晶はどこかへ歩いていく。
いつも優羽が寝起きしている部屋を通りすぎ、咥えられた状態で運ばれること数秒、当たり前のように広間へと連行されていた。
「ふゃっ!?」
吐き出す素振りで床に落とされた優羽は、変な声をあげて転がる。
それをさして気にもとめずに、晶は床に転がる優羽を見下ろした。
「優羽」
「は、はい」
顔が近い。巨大な狼の鼻先で匂いをかがれ、汚れた認識を鼻息で諭されると、自ずと顔も赤く染まる。
「また、俺の知らないところで勝手に汚されて」
「……すみません」
「まあ、二人の様子を見に行かせた俺にも責任があるから、仕方がないと思うことにするよ」
これ見よがしに「はぁ」と吐き出される鼻息がつらい。
あれは不可抗力であって、自ら望んだ状況ではないという言い訳は、この狼に聞き入れてもらえないだろう。晶の不機嫌を緩和できる方法がわからない。わからないからこそ、優羽は小さく身を丸めて謝ることしかできなかった。
「身体をみせて」
「ぅ……やっ」
鼻先で体を転がされる。左右はもちろん、脇や足の間、果ては指と指のあいだまで、晶の目は観察力を総動員させて眺めてくる。
「ケガはしていないようだね」
「は、はい……だいじょうぶ、で、す」
むしろ、ごろごろ転がされたせいで、変な酔いが不快さを与えている。それでも、先ほどよりは晶の空気が柔らかい。優羽は、それで晶の機嫌がおさまるならと、黙って好きなように転がされていた。
「優羽は無防備すぎるよ。もう少し危機感をもたないと」
「ききかん、ですか?」
「そう。俺の仕事が全然終わらないのは、危機感が足りないせいだってことを自覚してほしいよ、まったく。世話が焼ける」
全裸で正座をうながされ、最終的に説教される羽目になる心境を考えてみてほしい。言わずにおいた文句のひとつでも出そうになると、優羽は不満な表情で下を向いた。
「その顔はなにかな?」
「いえ、なんでもありません」
狼の顔のまま迫ってくる圧力は、息をのむ凄みがある。
優羽は慌てて顔をあげて、音が出るほど勢いよく両手で降参の意図を示していた。
「………本当に、以後、気を付けます」
じっと無言で見下ろしてくる晶の眼力に負けて、片言の反省も追加した。それにようやく満足したのか、晶の空気がいつもの様子を取り戻していく。ホッと肩の力が抜けたのはいうまでもない。
意外と厄介な性格を持っていそうな晶を相手にするときは、小さな反骨精神を持つと仇となることがよくわかる時間だった。
「どうかした?」
それにしても、無駄にきれいだなと眺めていたせいで、また晶の鼻先が近くに寄ってくる。白く煌めく銀色の毛は、ふわふわと感触がよさそうになびいていた。
触れてもいいだろうか。
伸ばしかけた指先に迷いを見せた瞬間、晶に頬を舐められた。
「ひゃっ」
「俺は。今から見回りの当番だから、竜にキレイにしてもらっておいで」
脈絡も何もない指示を口にして、視線を流した晶の仕草に、優羽も頬に手を添えながら顔をむける。
いつもと違う場所。広間を挟んで横に長いイヌガミ様の住処の全貌は、どこまで続いているか検討も付かない。竜を無事に見つけられればいいが、視界はすでに仄暗い。
「わかった?」
「あ……はい」
「帰ってきたら、キレイになったか、ちゃんと確認するからね」
そう言い残して、晶は狼の姿のまま真っ暗な森へと続く入り口に向かって歩き始める。
妙に薄暗いと思ったら、すっかり夜だった。しかも、外は雨が降っているようで、空気がしとしとと寂しげな音色を奏でている。
月も星もないせいか、森は闇に溶け込み、外はポッカリとあいた深い穴のように見えた。
「もし帰ってきたときに、ちゃんと出来ていなかったら」
「キレイにしています!」
「いい返事だね。優羽、いい子にしてるんだよ」
外の様子を眺めていた顔を慌てて戻した瞬間、晶はニコリと微笑んで、雨の中に飛び込んでいってしまった。
「あ、っ」
何か言葉をかけるべきだったかと、優羽は一瞬ためらったが、もう行ってしまったのだからどうにもならない。たとえ、晶を引き留めたとして、何を言えばよかったのか。すぐに答えが出ない以上、いまの現状が一番正しいあり方なのだろう。
「……はぁ」
諦めにも似た息を吐きながら立ち上がった優羽は、先ほど晶にうながされた場所へと足を向ける。ぼんやりと光る場所を目指して歩いてきたが、どうやら正解だったらしい。
「なっ、ちゃんと来たやろ?」
「ちッ、つまんねぇな」
暗くてよく見えなかっただけで、二人はずっとそこにいたのだろう。
部屋を探すまでもなく、足を運んだその場所で、優羽が声をかけるよりも早くに、竜が口を開いた。竜と輝に人間の姿で並ばれると、背の高さも相まって、存在感が足を止めさせる。けれど、壁にもたれ掛かるようにして背を預けていた輝は、優羽が来るや否(イナ)や、つまらなさそうにどこかへ行ってしまった。
「輝やったら気にせんでええ。ほら、優羽。こっち行くで」
「……はい」
立ち去る輝に視線をおくっていた優羽は、竜に手招きされて振り返る。
差し出された手は、何のためだろう。少し首を傾げた優羽に、竜はわざと気付かないふりをして、繋がれなかった手をそっと下ろした。それから、そのまま先立って歩き始める。
竜の後ろ姿をみて、優羽は初めて、その手を取らなかったことを少しだけ後悔した。
「優羽、抱っこしよか?」
「だ、大丈夫です」
足を止めて振り返り、両手を広げてくれるその腕に、何の疑問もなく飛び込めたら、どれほど幸せか知らない。ただ、心で望むことと、実際に起こす行動は異なる。
身を守るように拒絶を示してしまった優羽からしてみれば、すぐに腕を降ろしてくれた竜の反応がありがたい。
「暗いから足元、気ぃつけてな」
「……はい」
「灯りつけたらええんやろうけど、しばらく必要なかったから火種切らしとって。ごめんやで」
「いえ…っ…気にしないでください」
本当に気にしないでほしいと思う。
一寸先は闇。伸ばした自分の指先も見えない奥へと進んでいるのに、竜の背中だけはハッキリとわかる。
素直についていけば、迷うことはないだろう。
「ちゃんと、ついていきます」
そう応える声が、絞り出したように掠れている。先ほどから眺めている竜の姿のせいかもしれない。ぼやけた銀色の光をまとう美しさに、やはり「同じ世界に生きるものではない」と告げられているようで、胸が苦しくなる。
「キレイにしたってて、晶からなんやようわからん細かい説明うけたけど。面倒やし、適当にやったらええやろ」
どこまで行くのかはよくわからないが、優羽は目の前を歩く竜の言葉にギョッと顔をひきつらせた。
先ほどの晶との約束がある限り、適当では許されない。
「だっ、だだダメです」
「えっ?」
「ちゃ、ちゃんと、キレイにしてもらわないと困りますッ!」
すがるように竜を引き止めた優羽は、「適当なんてとんでもない」と言わんばかりにまくしたてた。せっかく機嫌が戻った晶をまた、不機嫌にさせる原因を作りたくはない。
「せやかて」
「適当にしたら、晶さんに何をされるか」
考えただけでも恐ろしい。ただでさえ「綺麗にした確認」という名目で、息も絶え絶えにさせられるのに、その上、適当に済ませたことが明るみになれば、相当酷い仕置きが待っているに違いない。
舌をねじ込み、指で掻き出し、変な体勢で拘束し、穴を広げ、崩しもしない笑顔で覗き込んでくる美形に、すみずみまで確認されるなんてまっぴらごめんだ。
「そういうことか」
「……えっ?」
優羽の熱弁に、困惑して立ち止まっていた竜は何かに思い至ったのか、一人納得して歩き始める。どことなく、竜の背中が楽しそうな気がしないでもない。優羽は一瞬、竜がニヤリと笑った気がして、焦った声で追いかけた。
「なっ、なんですか?」
「いーや、なんでも」
「なにが、そういうことなんですか?」
「晶も、おもろいことしてるなぁって思ただけや」
前を向く竜の顔はわからない。が、上機嫌な声が返ってくる。その声調を不可解な顔で聞いていた優羽は、ひとつの部屋の前で立ち止まった竜にぶつかった。
「おお、すまんすまん」
「だいじょ、ぶ、です」
「すまんついでに、ここでひとつ残念なお知らせがあるんやわ」
鼻をさすりながら、優羽は身体の向きを変えてきた竜を見上げる。
「なんですか?」
無意識に、身体が後方に足を引いたことは意味がないと思いたい。
ぶつかった鼻先の痛みが、距離を開けようとしただけだと思いたい。そう思いたい。それなのに、どうしてだろう。ものすごく、嫌な予感がする。
「優羽のお願い聞いたりたいんやけどな。俺、ちゃんと晶の説明聞いてへんかったから、正しいやり方わからへんねん。優羽は適当は嫌やねんな?」
「えっ!?」
「優羽は、いつもしてもろてるからわかってるやろ?」
「えっと、はい。一人でするときのことも教えて……っ」
そこまで言ってから、優羽は言葉につまった。
アレ、を自分でしなければならないのか。
たしかに、やり方云々を晶は口にしていた気がする。竜ほどではないが、記憶半分に聞いていたから、詳細までは覚えていない。とはいえ、奥まで注がれたものを掻き出す行為に違いはないだろう。
自分で出来るのか。正直、自信はない。
ためらいが顔に出ているとも気づかずに、優羽は竜から視線をそらし、うつむいて、頭を悩ませる。
それを見下ろす竜の口角が、今度こそ確実にあがった。
「ほな、よかったわ。これで、ちゃんと出来るな」
「で…でき……」
出来るなんて、言い切れそうにないと、優羽はますます言葉につまる。
「できひんのやったら、俺が適当に」
「自分で出来ます!!」
「したら、よー見せてもらうわな」
「えっ?」
してやったりな竜の言葉に驚いて、優羽は真っ直ぐ竜を見上げた。
大きく見開いた目は丸く、潤みを帯びて懇願を滲ませる。優羽は無意識だろうが、竜の瞳には確実に何かが写っている。
「当たり前やん。俺かてちゃんとキレイになったか、知らなアカンしやな。晶にいつもどないしてもろてんのか、優羽に詳しく教えてもらうわ」
それは見事な笑顔に後押しされて、優羽は部屋にまねかれる。
騙された。
優羽が、そう思うのも無理はなかった。
誰の部屋かはわからないが、晶が準備したであろう布や水をはった器が中央に鎮座している。
間違いなく、きちんと説明を受けているようだった。いや、よく考えてみれば、あの晶が適当に教えるわけもなく、この竜がへらへらとそれを受け流すわけもない。
「布くらいしぼったんで?」
「ッ!?」
平然と言ってのけた竜に、優羽は真っ赤な顔をむける。口はパクパクと言葉にならない声をだそうと必死だった。
声が出るなら「騙された」と叫びたい。いや、不可抗力とはいえ、自分で宣言した以上、竜だけを責められない。
「自分でヤるんやろ?」
ポンポンと頭を軽くたたいて横を通りすぎていく竜が信じられない。
このまま逃げ出してしまおうか。
チラリと後ろの入り口に目をやった優羽は、直後に漂った殺気に気づいて、おそるおそる視線を戻した。
「……うっ……」
竜がジッと見ている。
薄笑いを浮かべながら、優羽がどういう行動に出るのかを待っている。
「やりま……す」
苦虫をかみつぶすような顔で、優羽はがっくりと肩を落とした。
こんな状況で逃げ出せば、より悲惨なことになるだろう。
一瞬の判断。銀色の瞳には逆らえない。
狩りを楽しむ余裕があるだけの相手を前に、非力な獲物は従うしかない。そもそもエサとしての立場や役割を利用しようと決めたのは、つい先ほど。舌の根も乾かぬうちに逃げ出すくらいなら、いまの優羽はここにいない。
「自分で、できます」
そうして、ゆっくりと近づいてきた優羽の肩に腕をまわしながら、竜はニコッと笑う。
「ちゃんと出来ひんかったら、晶に何されるかわからへんのやろ?」
「………」
「何か俺にも手伝えることあったら遠慮なく言ってな」
耳もとで、わざとらしく囁いてくる竜に、優羽の全身は赤く染まった。わなわなと震えるのは、怒りだけでなく、不甲斐なさや情けなさでも沸き立つのだということを初めて感じた。
「……ふぅ」
一球入魂。覚悟を決める、決めない以前に、やるべきことをやるしかない。道は一つなのだと息を吸って、吐いて、優羽は火照る身体を落ち着かせるために、片手で小さく顔をあおぐ。
竜の顔なんて、もうまともには見れなかった。
今から自分がすることを考えるだけで、心拍が異常に早くなっていく。
「こっち座り」
真っ赤な状態で立ち尽くす優羽をうながすように、竜はポンポンと簡素な敷物の上を叩く。
無言のまま、優羽は大人しく竜の元に腰をおろした。
「はい」
そう言って手渡されたのは、実に手際のいい早さで用意された布だった。適度に濡れているし、きちんと四つ折りになっている。
どこが、説明されてなかったのだろうか。震える手で"ちゃんと聞いてた証拠"を受け取った優羽は、目の前で対面して座る竜の瞳を見ないように身体を拭き始めた。
「なんで緊張してんの?」
意地悪な笑みで眺めてくる竜に、優羽は何も答えられない。
「晶にキレイにされるん。そないに恥ずかしいことされるん?」
「ッ!?」
「へぇ。どんなんか楽しみやわぁ」
知ってるくせにと叫びたくても、優羽はギュッと目を閉じるだけで精一杯だった。
身体を拭く時間を無駄に長くしてみる。が、それでもたかがしれてる。
時間の問題なのは、すぐに見て取れた。
「いつも誰かに食われたあとに、晶にいじめられてるんちゃう?」
確信的な物言いに、優羽はついに竜の視線を受け止めた。
のどの奥にこびりついた戒の味が、先ほどの情事を思い出させる。晶が来ることなく、あのまま続けられていたら、二人の男の匂いに溶けて染まる未来が待っていただろう。
その証拠に、独占欲の強い涼に注ぎ込まれた液体が、内部に収まりきらないほどの自己を主張し、白濁の液となって足を伝い、ポタポタと床に小さな染みを作っていた。
「……あ…の」
遠慮がちに優羽は床を見たまま口を開く。
狼の姿をした晶に、涼と戒の部屋から連れ出された優羽は、まさに今、晶の歯の隙間でうつ伏せに揺られていた。
晶は、何も答えてくれない。
何をそんなに怒っているのかはわからないが、全身から不機嫌な雰囲気があふれでている。いつもの笑顔の方がまだいい。晶に始終無言でいられると、どう対応していいか判断に迷う。
「え、晶さん?」
薄暗い廊下。てっきり、すぐ前の部屋に入るかと思ったのに、晶はどこかへ歩いていく。
いつも優羽が寝起きしている部屋を通りすぎ、咥えられた状態で運ばれること数秒、当たり前のように広間へと連行されていた。
「ふゃっ!?」
吐き出す素振りで床に落とされた優羽は、変な声をあげて転がる。
それをさして気にもとめずに、晶は床に転がる優羽を見下ろした。
「優羽」
「は、はい」
顔が近い。巨大な狼の鼻先で匂いをかがれ、汚れた認識を鼻息で諭されると、自ずと顔も赤く染まる。
「また、俺の知らないところで勝手に汚されて」
「……すみません」
「まあ、二人の様子を見に行かせた俺にも責任があるから、仕方がないと思うことにするよ」
これ見よがしに「はぁ」と吐き出される鼻息がつらい。
あれは不可抗力であって、自ら望んだ状況ではないという言い訳は、この狼に聞き入れてもらえないだろう。晶の不機嫌を緩和できる方法がわからない。わからないからこそ、優羽は小さく身を丸めて謝ることしかできなかった。
「身体をみせて」
「ぅ……やっ」
鼻先で体を転がされる。左右はもちろん、脇や足の間、果ては指と指のあいだまで、晶の目は観察力を総動員させて眺めてくる。
「ケガはしていないようだね」
「は、はい……だいじょうぶ、で、す」
むしろ、ごろごろ転がされたせいで、変な酔いが不快さを与えている。それでも、先ほどよりは晶の空気が柔らかい。優羽は、それで晶の機嫌がおさまるならと、黙って好きなように転がされていた。
「優羽は無防備すぎるよ。もう少し危機感をもたないと」
「ききかん、ですか?」
「そう。俺の仕事が全然終わらないのは、危機感が足りないせいだってことを自覚してほしいよ、まったく。世話が焼ける」
全裸で正座をうながされ、最終的に説教される羽目になる心境を考えてみてほしい。言わずにおいた文句のひとつでも出そうになると、優羽は不満な表情で下を向いた。
「その顔はなにかな?」
「いえ、なんでもありません」
狼の顔のまま迫ってくる圧力は、息をのむ凄みがある。
優羽は慌てて顔をあげて、音が出るほど勢いよく両手で降参の意図を示していた。
「………本当に、以後、気を付けます」
じっと無言で見下ろしてくる晶の眼力に負けて、片言の反省も追加した。それにようやく満足したのか、晶の空気がいつもの様子を取り戻していく。ホッと肩の力が抜けたのはいうまでもない。
意外と厄介な性格を持っていそうな晶を相手にするときは、小さな反骨精神を持つと仇となることがよくわかる時間だった。
「どうかした?」
それにしても、無駄にきれいだなと眺めていたせいで、また晶の鼻先が近くに寄ってくる。白く煌めく銀色の毛は、ふわふわと感触がよさそうになびいていた。
触れてもいいだろうか。
伸ばしかけた指先に迷いを見せた瞬間、晶に頬を舐められた。
「ひゃっ」
「俺は。今から見回りの当番だから、竜にキレイにしてもらっておいで」
脈絡も何もない指示を口にして、視線を流した晶の仕草に、優羽も頬に手を添えながら顔をむける。
いつもと違う場所。広間を挟んで横に長いイヌガミ様の住処の全貌は、どこまで続いているか検討も付かない。竜を無事に見つけられればいいが、視界はすでに仄暗い。
「わかった?」
「あ……はい」
「帰ってきたら、キレイになったか、ちゃんと確認するからね」
そう言い残して、晶は狼の姿のまま真っ暗な森へと続く入り口に向かって歩き始める。
妙に薄暗いと思ったら、すっかり夜だった。しかも、外は雨が降っているようで、空気がしとしとと寂しげな音色を奏でている。
月も星もないせいか、森は闇に溶け込み、外はポッカリとあいた深い穴のように見えた。
「もし帰ってきたときに、ちゃんと出来ていなかったら」
「キレイにしています!」
「いい返事だね。優羽、いい子にしてるんだよ」
外の様子を眺めていた顔を慌てて戻した瞬間、晶はニコリと微笑んで、雨の中に飛び込んでいってしまった。
「あ、っ」
何か言葉をかけるべきだったかと、優羽は一瞬ためらったが、もう行ってしまったのだからどうにもならない。たとえ、晶を引き留めたとして、何を言えばよかったのか。すぐに答えが出ない以上、いまの現状が一番正しいあり方なのだろう。
「……はぁ」
諦めにも似た息を吐きながら立ち上がった優羽は、先ほど晶にうながされた場所へと足を向ける。ぼんやりと光る場所を目指して歩いてきたが、どうやら正解だったらしい。
「なっ、ちゃんと来たやろ?」
「ちッ、つまんねぇな」
暗くてよく見えなかっただけで、二人はずっとそこにいたのだろう。
部屋を探すまでもなく、足を運んだその場所で、優羽が声をかけるよりも早くに、竜が口を開いた。竜と輝に人間の姿で並ばれると、背の高さも相まって、存在感が足を止めさせる。けれど、壁にもたれ掛かるようにして背を預けていた輝は、優羽が来るや否(イナ)や、つまらなさそうにどこかへ行ってしまった。
「輝やったら気にせんでええ。ほら、優羽。こっち行くで」
「……はい」
立ち去る輝に視線をおくっていた優羽は、竜に手招きされて振り返る。
差し出された手は、何のためだろう。少し首を傾げた優羽に、竜はわざと気付かないふりをして、繋がれなかった手をそっと下ろした。それから、そのまま先立って歩き始める。
竜の後ろ姿をみて、優羽は初めて、その手を取らなかったことを少しだけ後悔した。
「優羽、抱っこしよか?」
「だ、大丈夫です」
足を止めて振り返り、両手を広げてくれるその腕に、何の疑問もなく飛び込めたら、どれほど幸せか知らない。ただ、心で望むことと、実際に起こす行動は異なる。
身を守るように拒絶を示してしまった優羽からしてみれば、すぐに腕を降ろしてくれた竜の反応がありがたい。
「暗いから足元、気ぃつけてな」
「……はい」
「灯りつけたらええんやろうけど、しばらく必要なかったから火種切らしとって。ごめんやで」
「いえ…っ…気にしないでください」
本当に気にしないでほしいと思う。
一寸先は闇。伸ばした自分の指先も見えない奥へと進んでいるのに、竜の背中だけはハッキリとわかる。
素直についていけば、迷うことはないだろう。
「ちゃんと、ついていきます」
そう応える声が、絞り出したように掠れている。先ほどから眺めている竜の姿のせいかもしれない。ぼやけた銀色の光をまとう美しさに、やはり「同じ世界に生きるものではない」と告げられているようで、胸が苦しくなる。
「キレイにしたってて、晶からなんやようわからん細かい説明うけたけど。面倒やし、適当にやったらええやろ」
どこまで行くのかはよくわからないが、優羽は目の前を歩く竜の言葉にギョッと顔をひきつらせた。
先ほどの晶との約束がある限り、適当では許されない。
「だっ、だだダメです」
「えっ?」
「ちゃ、ちゃんと、キレイにしてもらわないと困りますッ!」
すがるように竜を引き止めた優羽は、「適当なんてとんでもない」と言わんばかりにまくしたてた。せっかく機嫌が戻った晶をまた、不機嫌にさせる原因を作りたくはない。
「せやかて」
「適当にしたら、晶さんに何をされるか」
考えただけでも恐ろしい。ただでさえ「綺麗にした確認」という名目で、息も絶え絶えにさせられるのに、その上、適当に済ませたことが明るみになれば、相当酷い仕置きが待っているに違いない。
舌をねじ込み、指で掻き出し、変な体勢で拘束し、穴を広げ、崩しもしない笑顔で覗き込んでくる美形に、すみずみまで確認されるなんてまっぴらごめんだ。
「そういうことか」
「……えっ?」
優羽の熱弁に、困惑して立ち止まっていた竜は何かに思い至ったのか、一人納得して歩き始める。どことなく、竜の背中が楽しそうな気がしないでもない。優羽は一瞬、竜がニヤリと笑った気がして、焦った声で追いかけた。
「なっ、なんですか?」
「いーや、なんでも」
「なにが、そういうことなんですか?」
「晶も、おもろいことしてるなぁって思ただけや」
前を向く竜の顔はわからない。が、上機嫌な声が返ってくる。その声調を不可解な顔で聞いていた優羽は、ひとつの部屋の前で立ち止まった竜にぶつかった。
「おお、すまんすまん」
「だいじょ、ぶ、です」
「すまんついでに、ここでひとつ残念なお知らせがあるんやわ」
鼻をさすりながら、優羽は身体の向きを変えてきた竜を見上げる。
「なんですか?」
無意識に、身体が後方に足を引いたことは意味がないと思いたい。
ぶつかった鼻先の痛みが、距離を開けようとしただけだと思いたい。そう思いたい。それなのに、どうしてだろう。ものすごく、嫌な予感がする。
「優羽のお願い聞いたりたいんやけどな。俺、ちゃんと晶の説明聞いてへんかったから、正しいやり方わからへんねん。優羽は適当は嫌やねんな?」
「えっ!?」
「優羽は、いつもしてもろてるからわかってるやろ?」
「えっと、はい。一人でするときのことも教えて……っ」
そこまで言ってから、優羽は言葉につまった。
アレ、を自分でしなければならないのか。
たしかに、やり方云々を晶は口にしていた気がする。竜ほどではないが、記憶半分に聞いていたから、詳細までは覚えていない。とはいえ、奥まで注がれたものを掻き出す行為に違いはないだろう。
自分で出来るのか。正直、自信はない。
ためらいが顔に出ているとも気づかずに、優羽は竜から視線をそらし、うつむいて、頭を悩ませる。
それを見下ろす竜の口角が、今度こそ確実にあがった。
「ほな、よかったわ。これで、ちゃんと出来るな」
「で…でき……」
出来るなんて、言い切れそうにないと、優羽はますます言葉につまる。
「できひんのやったら、俺が適当に」
「自分で出来ます!!」
「したら、よー見せてもらうわな」
「えっ?」
してやったりな竜の言葉に驚いて、優羽は真っ直ぐ竜を見上げた。
大きく見開いた目は丸く、潤みを帯びて懇願を滲ませる。優羽は無意識だろうが、竜の瞳には確実に何かが写っている。
「当たり前やん。俺かてちゃんとキレイになったか、知らなアカンしやな。晶にいつもどないしてもろてんのか、優羽に詳しく教えてもらうわ」
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騙された。
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間違いなく、きちんと説明を受けているようだった。いや、よく考えてみれば、あの晶が適当に教えるわけもなく、この竜がへらへらとそれを受け流すわけもない。
「布くらいしぼったんで?」
「ッ!?」
平然と言ってのけた竜に、優羽は真っ赤な顔をむける。口はパクパクと言葉にならない声をだそうと必死だった。
声が出るなら「騙された」と叫びたい。いや、不可抗力とはいえ、自分で宣言した以上、竜だけを責められない。
「自分でヤるんやろ?」
ポンポンと頭を軽くたたいて横を通りすぎていく竜が信じられない。
このまま逃げ出してしまおうか。
チラリと後ろの入り口に目をやった優羽は、直後に漂った殺気に気づいて、おそるおそる視線を戻した。
「……うっ……」
竜がジッと見ている。
薄笑いを浮かべながら、優羽がどういう行動に出るのかを待っている。
「やりま……す」
苦虫をかみつぶすような顔で、優羽はがっくりと肩を落とした。
こんな状況で逃げ出せば、より悲惨なことになるだろう。
一瞬の判断。銀色の瞳には逆らえない。
狩りを楽しむ余裕があるだけの相手を前に、非力な獲物は従うしかない。そもそもエサとしての立場や役割を利用しようと決めたのは、つい先ほど。舌の根も乾かぬうちに逃げ出すくらいなら、いまの優羽はここにいない。
「自分で、できます」
そうして、ゆっくりと近づいてきた優羽の肩に腕をまわしながら、竜はニコッと笑う。
「ちゃんと出来ひんかったら、晶に何されるかわからへんのやろ?」
「………」
「何か俺にも手伝えることあったら遠慮なく言ってな」
耳もとで、わざとらしく囁いてくる竜に、優羽の全身は赤く染まった。わなわなと震えるのは、怒りだけでなく、不甲斐なさや情けなさでも沸き立つのだということを初めて感じた。
「……ふぅ」
一球入魂。覚悟を決める、決めない以前に、やるべきことをやるしかない。道は一つなのだと息を吸って、吐いて、優羽は火照る身体を落ち着かせるために、片手で小さく顔をあおぐ。
竜の顔なんて、もうまともには見れなかった。
今から自分がすることを考えるだけで、心拍が異常に早くなっていく。
「こっち座り」
真っ赤な状態で立ち尽くす優羽をうながすように、竜はポンポンと簡素な敷物の上を叩く。
無言のまま、優羽は大人しく竜の元に腰をおろした。
「はい」
そう言って手渡されたのは、実に手際のいい早さで用意された布だった。適度に濡れているし、きちんと四つ折りになっている。
どこが、説明されてなかったのだろうか。震える手で"ちゃんと聞いてた証拠"を受け取った優羽は、目の前で対面して座る竜の瞳を見ないように身体を拭き始めた。
「なんで緊張してんの?」
意地悪な笑みで眺めてくる竜に、優羽は何も答えられない。
「晶にキレイにされるん。そないに恥ずかしいことされるん?」
「ッ!?」
「へぇ。どんなんか楽しみやわぁ」
知ってるくせにと叫びたくても、優羽はギュッと目を閉じるだけで精一杯だった。
身体を拭く時間を無駄に長くしてみる。が、それでもたかがしれてる。
時間の問題なのは、すぐに見て取れた。
「いつも誰かに食われたあとに、晶にいじめられてるんちゃう?」
確信的な物言いに、優羽はついに竜の視線を受け止めた。
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