オルギスの盾と片恋の王

皐月うしこ

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Story-06:ニルティギスの惨劇

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何も見えない。目を開いているのか閉じているのかもわからない。
認識できるのは真っ黒な闇。
強烈なまでの光の明滅を見たと思った瞬間、リゲイドの瞳は世界をうつすことをピタリとやめた。


「か…っ…かあ、さま?」


ひゅーひゅーと風が体を通り抜けていくのがわかる。


「どこ、へ…っ…なに、が?」


時折、パタパタとどこかの家に干されていた洗濯物が風に吹かれて揺れているのか、リゲイドが前に進むたびに、静寂に包まれた風の音だけが聞こえてくる。
一切の静寂。誰も何も答えてはくれない。


「母様?」


リゲイドは恐怖を感じながらも両手を前に出して先ほどまで見えていた存在の行方を捜していた。


「母様?」


聞こえてくるのは風の音だけ。いや。
ぴちゃ、ピチャッ。
いつの間に雨が降ったのか、リゲイドの足がよろよろと歩くたびに靴底が水たまりに沈んでいく。


「うわっ!?」


どさっと何かにつまづいて、リゲイドは水たまりの中に盛大に顔から突っ込んだ。


「ってぇな」


自分は何もない道を歩いていたはずだった。
物心つく頃から住み慣れた土地。たとえ視界を奪われるようなことになったとしても、小さな村の地図など幼いころから頭の中に入っている。それこそ、家の軒先に置かれた樽の位置から、野良猫が昼寝する位置まで、視界に頼らなくても思い描けるほどに住み慣れた村だった。
だからこそ、躓いて転ぶなんてありえない。


「誰がこんなところに棒なんか」


そこまで言って、リゲイドは何かの違和感に気がついた。


「え?」


身体を起こす前に、わずかに指先に触れた感触が脳に違和感の正体を伝えてくる。


「ま…っ…さか…そ…っ…な」


声が震えるのは警戒心か、それとも正常心なのか。リゲイドは記憶をたどる中で、自分の目が見えないことを呪う。
雨なんか降っていない。
今日は、雲一つない晴天だった。
それに気づいたリゲイドは、ある可能性にたどりついて、焦燥にかられたまま両手でその場を必死に探った。


「ッ!?」


顔から突っ込んだせいで全身にかかるドロリとした生臭い水たまり。
昼過ぎだというのに、人の声はおろかネコや鳥の声さえも聞こえない村。
風の音だけがやけに冷たく聞こえてくるせいで、それは紛れもない真実だということをリゲイドに伝えてくる。


「か…っ…あ…さ、ま?」


自分の目が見えないことが恨めしい。
リゲイドはガタガタと震えそうになる緊張感の中、自分がつまづく原因となったものに両手を這わせていた。
柔らかい木の棒。少し重たいような自然界のモノではない肉の塊。
それを滑るように探った先で、五本に分かれた枝のような形状に、リゲイドの胃袋から嗚咽がこみあげてくる。


「っ…ぁ~~~~っぅあ」


目が見えていればきっと気が狂っていたに違いない。すでに狂いかけた脳の回路は焼けこげるような熱さでリゲイドの両目を責め立ててくる。
あの時、両目に走った閃光。
それが人の腕の切れ端だということに気が付いた瞬間、リゲイドは恐怖に支配されるように叫び続けていた。


「うっぁああぁあっぁああ」


誰のモノかもわからない。願ったのはそれが母親ではないことだけ。
けれど、その保証はどこにもなかった。なぜならリゲイドの耳には先ほどから風の音しか聞こえない。
人も鳥も猫も子供の声も馬車を引く音も聞こえない。まるで世界の中にリゲイドがたった一人で存在していたかのような絶対の孤独が襲ってくる。


「嘘だ、ウソだ、うそだうそだうそだうそだ」


壊れた玩具のようにリゲイドの叫び声だけが狂気に支配されて繰り返される。
信じたくない。
誰が信じられるだろうか。
何の前触れもなく、自分だけを残して、全てが死に絶えた現実世界を一体だれが受け入れられるだろうか。


「リゲイド、リゲイドっ!!」


あれはまだ記憶に新しい昨日のこと、リゲイドはいつものように母親に顔を叩かれていたはずだった。
元は気性の穏やかな女性だったが、いつの頃からか手を上げるようになり、年を重ねるごとにその激しさは増していった。


「何度言えばわかるのだろうね、このクズ!役に立たないのなら、産むんじゃなかったよ」


そして左頬に走る激痛。


「なんだい、その目は。悔しかったら、あたしらをこの村に追いやった王族を恨むんだね」


そのまま殴られ、けられ続けるのはもう日常茶飯事だった。
たしかに死んでほしい、いなくなってほしいと願っていたことは否定しない。
他の家庭が当たり前のようにもっている穏やかな日常など、リゲイドは生まれてから一度も体感したことはなかった。


「お前が生まれて三年間。それまで、あたしは王宮にいたんだ」


また母の独り言のような回想劇がはじまる。


「なのに、ゴル陛下ときたらアドリナとの政略結婚にあたしらを追い出したんだよ」


そして泣き始めるのもいつものこと。


「ああ、リゲイド。お前だけは、お前だけはこの母を見捨てないでおくれ」


泣いたついでに、叩いたこと、殴ったこと、蹴ったことをリゲイドに詫びていた。
リゲイドにとってはそれが日常。毎朝のお決まりの光景。
実のところ母の戯言が真実かどうかなどどうでもよかった。現実はさびれた村に住み、雨漏りどころか薄い木の板を張り付けたような掘立小屋に住んでいる。王宮も政略結婚も関係ないし、どうでもいい。
母の精神が病に侵されていると思ったこともない。
物心つく頃からリゲイドの心に渦巻いているのは「なぜ?」という感情だけ。


「さっさと水を汲んでおいで」

「はい、母様」


従うことしか知らず、またそうすることでしか自分を守れない幼いリゲイドは、ボロボロの服のまま家を出ると、大人には陰でこそこそと好奇な目でささやかれ、同年代の子供からはいじめられる。村の端に備え付けられた共同の水くみ場にたどり着くまでに、リゲイドの身体は家を出た時以上にひどい状態になっていた。


「俺が何したってんだよ」


これもいつもの日常。繰り返される人生の一端。
ポツリとつぶやいた視界が滲んでいくのもいつものこと。


「くそっ、くそぉ、みんな大嫌いだ」


ただ、ただ、わけがわからなかった。
そして悔しかった。理不尽な世界、無力な自分、冷酷な人間、無表情の自然。心を温かくしてくれるものなど何もない。


「っ…~~~~っ」


何度、ひとりで声を殺して泣いたことだろう。
泣きはらした目で家に帰るとまた殴られることはわかっているので、リゲイドは水を汲む間に小さく鼻をすすると、あまり時間をかけないように注意しながら元来た道を戻っていった。


「遅いじゃないか」


開口一番、自分の体より一回り小さいバケツにいっぱいの水を持って帰ってきたリゲイドに、母親の叱咤がとんでくる。ねぎらいやお礼の言葉をかけてもらったことは一度もない。
むしろ今日は、その文句だけで済んだことの方がありがたかった。


「ごめんなさい」


リゲイドは、いつも帰り道ですら邪魔をしてくる村の子供たちが、今日は襲ってこなかったことに、人知れずホッと胸をなでおろす。
母親はそんなリゲイドには気づきもせずに、鏡を見ながら自分の髪をとかすことに専念していた。


「リゲイド」

「はっはい」


比較的静かな呼び声だったにも関わらず、反射的にリゲイドは緊迫した返事でふりかえる。


「どう?」

「はい?」


リゲイドは自分の前で、ただ佇むだけの母に何を聞かれているのかわからずに、正直な感想を口にした。ところがどうやらそれがいけなかったらしい、母親の顔が醜く歪んでつりあがっていく。


「ごっごめんなさい。あのっ、その」


またぶたれると思ったのか、リゲイドは無意識に両手で頭をかばっていた。事実、いつもであればここで力任せに一発撃たれるところなのだが、意外にもリゲイドの体は痛みを知らずに済んだ。


「ゴルジョバトフ皇帝陛下のおなーりぃぃぃ」

「ッ!?」


薄い木の板の玄関と呼ぶにはあまりにも質素な扉が力任せに開かれ、青い空を遮るように巨大な男が立っている。その瞬間、母親が女に変わるのをリゲイドは見た。
何が何だかさっぱりと理解が追い付いてこない。


「ゴル陛下!!」

「エレーナ。息災であったか」

「はい、ずっとお待ちしておりましたわ」


抱き合う母親とそれを黙って受け止める皇帝陛下。
自分の目は一体何をうつしているのだろうかと、リゲイドは茫然とその成り行きを見守っていた。
ただ、リゲイドが驚いたのは無理もない。この国の皇帝を名乗る最強の戦士が、帝国の中でも最貧困層ともいえるさびれた村のあばら家同然の家を訪れていたのだから。


「ほら、リゲイドもご挨拶なさい。お父様よ」

「え?」


聞いたことのない母親の声。見たことのない母親の顔。
先ほどまでの醜い顔や声が嘘のように、魔法にかけられた老婆がどこかの国のお姫様に変身したのかと思えるほどの変貌を遂げた目の前の女性に、リゲイドは言葉にできないほどの嫌悪感がこみあげてくるのを感じていた。
叶うことなら聞いてみたい「お前は誰だ」と。


「なっ何をいっているの。ほら、いつも話しているじゃない」


母親の形をした知らない女性が、聞いたことのない声と、赤らめるほど上気した顔で説明を口にする。


「お前の父親、ゴルジョバトフ・ギルフレア様。世界最強の矛と言われる、このギルフレア帝国の皇帝陛下よ」


頑張って平静を取り繕っているように見えるが、それは無駄なあがきだった。
虐待されることで育ってきたリゲイドにとって、今の母親の言葉は理解できる許容範囲を超えている。
ゴルジョバトフ・ギルフレアといえば、この国を統治する最高権力者の名前であり、生きる伝説ともいえる「最強の矛」という肩書きをもっている戦士の名前。そんな人物と接点があったような暮らしをしていないだけに、リゲイドはぽかんと口を開けたまま黙って直立していた。


「五年も前に別れているのだ、物心つく前では覚えていないのも無理はなかろう」


わははと豪快に笑う目の前の人物が悪い人のようには思えない。
それでも次に吐き出された言葉に、リゲイドは人間の恐ろしさを思い知らされた。


「エレーナ、そしてリゲイド。そなたら二人を罪人として処刑することとなった」


それはあまりにも突然で、あまりにも残酷な死の宣告。
それを聞いた途端に必死の形相で懇願し、説明を求め始めた母に、用件だけを言い伝えにきたらしいゴル陛下は背中を向けて立ち去っていく。
馬の鳴く声がして、来るときには聞こえなかった蹄の音が聞こえ、徐々にそれは遠くの方へ過ぎ去っていった。


「おのれ…っ…おのれアドリナ…ゴル陛下…なぜ」


またいつもの老婆のような醜い姿へと戻った母に、リゲイドはどこかホッと胸を撫でおろす。


「なぜ…なぜ、わたしくではなくあの女をお選びになったのですか!?」


エレーナは悲痛にむせび泣きながら、言葉にならない声で、姿が見えなくなった背中に向かって叫び続けていた。
なぜ、裏切ったのか。
なぜ、こんなにひどい仕打ちをするのか。
なぜ、なぜ、なぜ。
その疑問に応えてくれる人はもうどこにもいない。


「お前…さえ…リゲイド、お前さえ生まれてこなければよかったのよ!!」

「ッ!?」

その日の記憶はそれが最後だった。
次に目を開けた時、リゲイドは自分の感覚が不思議と軽いことに気が付いた。口ではうまく説明ができないが、感覚がさえわたり、妙にすっきりしてるといってもいい気がする。
一瞬、ついに死んでしまったのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。


「母様?」


リゲイドは室内を見渡して見えない母の姿を呼ぶ。
答えはないが、小さな家の中。床に転がったたくさんの酒瓶と机の上で突っ伏して眠るその姿に、リゲイドはまだ生きていることを実感した。


「リゲイド…っ…りげい、ど」


夢の中でも自分をいじめているのかと、リゲイドは寝言にうなされる母の元へと体を動かす。
その顔が泣いてはれ上がっているのをみると少し胸が苦しくなったが、もうすぐ痛みや恐怖に怯える毎日から解放されるのかと思うと、新鮮な気持ちでそれを受け止めることができた。


「このうちか?」

「はい、間違いございません」


母の涙に触れようとしていたリゲイドの手が、玄関を押し入ってきた数人の兵の姿にぴたりと止まる。
そして唐突に理解した───


「罪状。王をたぶらかし、ギルフレア帝国の血をけがした者。最強の矛を偽るものとして民を操り、混乱に招き入れた罪として、ここに処刑を執り行うものとする」


───十年間、生きてきた命が今日終わるのだということを。
酒に酔いつぶれてうまく身体を動かせないエレーナと共に、縛り上げられたリゲイドは、村の広場に臨時で設けられた処刑場にむかっていたはずだった。その時はまだリゲイドの目は、絶望に支配された灰色の村の風景をうつしていた。


「ああ、鳥だ」


頭上を一羽の鳥が飛んでいく。
叶うことなら、ただ一度だけ。ここではないどこかの国へ行ってみたい。
それを見たのを最後に、リゲイドは母親と共に地面の上に膝をつき、頭の上から袋をかぶせられ、そして八年の生涯に幕をとじることを義務付けられる。
そしてその瞬間は訪れた。だが、リゲイドは生きていた。


「嘘だ、ウソだ、うそだうそだうそだうそだ」


終わると思っていた人生が続いていた。
切り刻まれたのは母親だけではない。自分以外のすべてがバラバラに崩れている。他のすべてが血に染まった世界の中で、一人だけが生きている。
一体何が起こったのか。説明してくれる人は、誰一人としてそこに存在していなかった。


「嘘だぁぁぁアアァ」


この日、ギルフレア帝国辺境の村。ニルティギスでおきた惨劇は、後に歴史に刻まれる事件となる。

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「だから、ラゼット様。あまり一人で進まないでください」

「フランが遅いのよ。ね、アキーム」


祖母の死から五年。レルムメモリアの悲劇をオルギス王国の民は忘れていなかったが、いくらギルフレア帝国の領地と言えど、世界最大とも噂される惨劇の現場に、隣国として慰安視察に訪れないわけにはいかなかった。
要請があったのは朝の祈りが終わるころ。
昨日までは何事もなかった村が今朝になって、突然消滅したという。


「きゃっ」


舗装されていないデコボコの田舎道を歩いていたラゼットは小さな石につまずいたが、その瞬間、両脇から支えられた衝撃に、三人はホッと胸を撫でおろした。


「気をつけてください」

「ごめんなさい、アキーム」

「ですから、あれほど申し上げたでしょう」

「ありがとう、フラン」


肩ほどまで伸びた白雪の髪を揺らしながら、ラゼットはフランとアキームから身体を離す。
久しぶりの郊外。昨年母が亡くなり、オルギスの新しい盾として任務に就いて以来初めての外だった。だからはしゃぐのは大目に見てほしいとラゼットは照れたようにフランとアキームに笑顔でごまかす。


「ねっ、ニルティギスってもうすぐ?」


自然豊かな世界をその紫色の瞳にうつしながらラゼットは周囲を見渡していた。そして、「もうすぐ、到着しますよ」というフランの声とアキームが指さす方角に顔を向ける前に、ラゼットの視界は温かな暗闇に覆われる。


「え?」


まだ八歳の少女に、その世界は酷だと判断したのか、フランとアキームの咄嗟の対応にラゼットの両目はふさがれていた。


「これは、ひどいですね」


何がどう酷いのか、視界を奪われたラゼットにはわからない。
しかし、人間の仕業ではないその惨劇を映したフランとアキームの顔は驚愕に見開かれ、次いで互いに顔を合わせると深くうなずき合う。


「ああ。なぜ、ラゼット様をと思ったが」

「ええ。祈りの力で浄化しなければならないでしょう」


大地がかつては生き物だった血で真っ赤に染まり、建物は大きな鎌に切り刻まれたような瓦礫と化し、村として存在していたその場所は闇に染まった世界のように暗い空気で満たされている。
当時十五歳のフランと十三歳のアキームの言葉を借りるのであれば「見せられたものじゃない」状態だったらしく、ラゼットは「見せられる状態になるまで、ここで待っていてください」と、近くに設けられていた兵の駐屯所へ預けられた。


「すぐに迎えに来ますから」


フランになだめられ、ラゼットはふてくされながらも小さくうなずく。せっかく外に出られたのだ。
わがままを言って国に一人送り返されるわけにはいかないのだから、大人しく待つことにした。とはいっても、さすがに五分もすれば飽きてくる。
周りは臨時で手を組むことを了承したのか、オルギス王国とギルフレア帝国の兵士たちばかりで、面白くもなんともない。ラゼットは何か退屈しのぎになるものはないかと首を動かして初めて、そこに一人の少年がいることに気が付いた。


「どうして悲しそうな顔をしているの?」


忙しそうに動き回る大人たちの中で一人、傷だらけの全身を赤黒い液体で染め、目に白い包帯を巻かれた少年がジッとうつむいて座っている。


「目が見えないから悲しいの?」


ラゼットは目の前に立ちながらその少年の顔を覗き込んだ。
そして泣きなくなってくる。なんて悲しい雰囲気をまとっているのだろう。孤独と不安と恐怖だけではない、この世に生きていることへの絶望と怒りさえ伝わってくるようだった。


「俺は悲しくなんてない」


口さえ聞けないんじゃないかとラゼットが思い始めたころ、少年の口からポツリと苛立ちの声が吐き捨てられた。


「自分に嘘なんかつかなくていいんだよ」


ラゼットは目の見えない少年を刺激しないように静かな声で語りかける。


「心が泣いてるときは、泣いたっていいんだよ」


それはかつて、レルムメモリアで大好きな祖母が亡くなったときにフランとアキームが言ってくれた言葉だった。
泣くことで心が軽くなることをラゼットは知っている。
知っているからこそ、泣きたくても泣けないような雰囲気をもつ少年をラゼットは見捨てることが出来なかった。


「私が祈っていてあげる。あなたが幸せになるように」


ラゼットはポケットの中から手のひらに収まるか収まらないかほどの石を取り出す。
そして、少年の手にそれをもたせるようにそっとその手を握った。


「これは私の大事なお守りなの」


一瞬、ビクッと大げさに体を揺らしたが、少年はその石を手にするなり、初めてラゼットの方へ視線をあげる。
その目は包帯にまかれて見えていないはずなのに、ラゼットはまるで見つめられているかのような錯覚を覚えて、少しだけ固まってしまった。けれど、すぐに気を取り直して少年に笑顔をむける。


「今はあなたに貸してあげる。だから、もしね」


『希叶石を救いたいと思う誰か、幸せになってほしいと願う誰かにあげなさい。』祖母の声がラゼットの耳に聞こえて気がした。今がその時だとラゼットは思う。
だから、名前も知らない少年に大事にしていた石をあげることにためらいはない。


「私が泣きそうになった時、今度はあなたがそれを返しに来て」


ニコリとラゼットは少年に向かって優しい笑顔で祈りの言葉をつぶやいた。
そのとき、バタバタと焦燥の足音が聞こえてくる。


「こんな場所におられましたか、心配しましたよ」

「あ、ごめんなさい」

「用意が整いました、急ぎましょう」

「え、ええ」


どうやら見せられる状態にしたらしいフランとアキームに連れ去られるように、ラゼットはその場から立ち去ることを義務付けられた。ようやく感情が見え隠れしはじめた少年は気がかりだったが、今日はそのためにここに着ているわけではない。
祈りで呪われた大地を浄化するため。
盾として初めて異国の地を訪問した身としては、その力をきちんと見せておく必要があった。


「それじゃ、またね」


ラゼットの身体が二人の少年に連行されて遠ざかっていく。


「………温かい」


その様子を目で追うことは叶わなかったが、リゲイドは自分の手のひらに持たされた物体に、気持ちが安らいでいくのを感じていた。
今まで周囲の言葉もざわつきも苛立たせるものでしかなかったのに、リゲイドは不思議と今まで生きてきた中で一番平穏な気持ちになっていくのをじっと感じていた。


「~~~~っ」


人に優しくされたのも、人から何かをもらったのも、そして人にお願いをされたのも生まれて初めてだった。
世界を映さなくなった瞳に光が差し込むように、それはリゲイドの孤独を拭い去ってくれるほどの感情だった。
温かい。
世界にはたった一度で胸を溶かしてくれる優しさが存在している。


「あっ、あのっ」


リゲイドが石をくれた少女のことを訪ねようとしたそのとき、周囲がこれまで以上にザワザワとうるさく騒ぎ始める。


「ごっゴルジョバトフ陛下!?」

「陛下だ、へっ陛下が参られたぞ」


どうやら昨日会ったばかりの諸悪の根源が現れたらしい。


「リゲイド」


目の前に立たれるだけでその威圧感がリゲイドの神経を逆なでした。


「リゲイド」


もう一度呼ばれて、リゲイドはゆっくりと立ち上がる。
しんとした凍てつくような静寂の中、次に発せられる言葉は再び死の宣告かと思うと、湧いたばかりの温かな感情も音をたててしぼんでいくようだった。


「今これより、お前の名前はリゲイド・ギルフレアとする」


目が見えなくてもさすがに分かる。
周囲の兵たちが顔を見合わせ、そして地面に膝をつく。


「わが帝国の王子としてわが城へ住むことを許そう」


反転するほどの人生を静かに口にしたギルフレア帝国の皇帝陛下に、このとき湧いた感情をリゲイドは生涯忘れはしないだろう。
そしてそこから十年の年月を経て、新たに「最強の矛」の称号を得たリゲイドは二十歳の誕生日に、隣国、オルギス王国との友好条約復活の切り札として婿養子となることが決まった。
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