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序章
第一話『轟臨』 序
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大日本者神國也。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を傳給ふ。我國のみ此事あり。異朝には其たぐひなし。此故に神國といふなり。
『神皇正統記』
===============================================
その日、世界は変わり果てた。
西暦二〇二〇年は九月八日、何事も無く五十六年振りに自国開催されたオリンピック・パラリンピック大会の記憶も新しい。
その日の朝も、街を行く人々にとっては何とも無い晴天だった。
何処までも果てしなく澄み渡った青空には、先日までの入道雲が欠片も見当たらない。
まさに日本晴れと呼ぶに相応しい空模様であった。
大災害の前触れを察知した動物は奇妙な行動をとることがあるという。
ただ、蒼穹に舞う鳥達の姿は平穏そのものだ。
道行く彼もまた、気にも留めずに何の変哲も無い朝の街並を登校していた。
十五歳・高校一年生の少年・岬守航は、整った顔立ちを飾る宝石の様な眼に一人の少女を映し、彼女のもとへと小走りした。
すらりと伸びた一七七センチの長身が明るい色の髪を揺らす。
「おはよう」
航は立ち止まり、呼吸を整える。
視線の先、声を掛けられた美少女・麗真魅琴は青々と広がる天空を仰ぎ見ていた。
その姿勢はまるで、遥か上空の何かに目を凝らしているかの様だ。
真直ぐ長く艶やかな黒髪と、切長の目に備わった豊かな睫毛が朝日を浴びて煌めき、羽根の様な光が全身を包み込んでいる。
基より並外れた美貌が天女の如き神々しさすら帯びていた。
そんな魅琴の、どこか冷めた光を宿した眼が航の方へ向いた。
滑らかさと柔らかさを湛えた、瑞々しい胡頽子の実の様な唇が僅かに開き、朝の挨拶を返す。
「おはよう」
快晴の空にも劣らぬ、曇りなく澄んだ、静かだが明瞭な声だった。
航はいつも、この眼と声にやられてしまう。
だがその僅かな躊躇いを航は悟られたくなかった。
「空なんか見上げて、どうしたの?」
「別に、何でもないわ」
魅琴の返答にはどこか素気無いものだった。
尤も、彼女が航の投げたボールを空かすような返答をするのは毎度の事だ。
「僕を待っていてくれたのかな?」
「随分と寝惚けた事を言うのね。貴方にとってはこの時間でもまだ早いのかしら」
「……そっちこそ朝から緊い事言うじゃん」
「前々から貴方の登校時間が気になってはいたけれど、これでは今までどおり置いて行くしかないようね」
「やっぱり待ってたんじゃん」
「だとすると、私は貴方が自分より早いと考えていなかったことになるわね」
「素直に待ってたって言ってくれても良くない?」
「貴方の最初の言い方が気に入らないのよ」
魅琴はくすりと蠱惑的に微笑んだ。
この会話は親しい者同士が冗談を交わし合っているだけだ。
二人は確かに気心の知れた仲である。
軽口を叩き合える程度の距離感ではある。
だが、一定の間合いを境に微弱な反磁性を示す何かがあった。
幼き日に出会って以来、二人の関係性は極めて近付きながらも、その反磁性が作る一線を越えられないまま曖昧に揺蕩っていた。
⦿⦿⦿
岬守航と麗真魅琴の出会いは、二人が小学校一年・六歳の頃まで遡る。
正確な日付では六月二日木曜日、魅琴が航のクラスに編入してきた事が切掛だった。
「麗真魅琴」
航の記憶の中で彼女は最初、自己紹介で心底煩わしそうに名前だけを呟いた。
子供心にもその類稀なる美を理解出来る、まるで人形の様な美少女だった。
だから航が魅琴に興味を抱き、仲良くなりたいと思ったのはそうおかしなことでもないだろう。
同じ様に考えた級友達は他にも大勢居たが、取り付く島も無い魅琴の態度に一人また一人と諦めていった。
航だけが最後までしつこく粘った。
尤も、そんな航に対しても魅琴の冷めきった態度は変わらなかった。
寧ろ、付き纏われて段々と苛立ちを募らせてすらいたかも知れない。
また、航の方もまた魅琴の情無い態度に少し腹を立てていた。
一日最後の時間割となる音楽の授業、教室を移動する廊下で、航の幼稚な精神に魔が差した。
ほんの軽い気持ちで、航は魅琴の尻に手を伸ばした。
瞬間、人形の様に可憐だった彼女の貌は悪鬼羅刹の様相を呈し、石の様な拳を航の顔面に叩き付けたのだ。
航の身体は四・五メートル程も弾け飛んだ。
床に後頭部を強打した航を追い打つように、魅琴は飛び掛かって馬乗りになった。
驚きと恐怖を感じた航は多少反撃を試みたが為す術無く、更なる拳骨の雨が容赦無く彼を打ち付けた。
先頭で騒ぎを聞きつけた引率の教師が止めに入った時には、既に悲惨な事態になっていた。
航は血、涙、鼻水、涎に塗れて、見るも無残な顔で譫言の様に謝罪と命乞いを繰り返し、更には失禁していた。
航はすぐに病院へ運ばれ、魅琴は教師や親からこっ酷く怒られたという。
⦿
航の容態を並べると、鼻骨・眼窩底・頬骨・上顎骨が折れており、生え変わり前の歯も何本か飛んでいた。
抵抗しようとした両腕を振り払われた際にこちらも骨折していたらしく、以上の怪我が治るまで航は入院を余儀無くされた。
魅琴の母親らしき女性は航に対して平謝りで、本人も初対面の頃よりどこか慎みを感じさせる表情をしていた。
何か思うところがあったのだろう。
色々あって、航の親はあまり見舞いに来なかったが、如何なものだろうか。
代わりにほぼ毎日、魅琴が航の病室を訪れた。
季節柄、雨に降られる事が多く面倒だったろうに。
顔の骨折が治りかけ、ある程度の会話が出来るようになった航は、それを魅琴に吐露した。
「どうして毎日来てくれるの?」
「私が怪我させちゃったから」
「元はと言えば僕が悪いのに……」
自分に原因があったことを有耶無耶にされ、魅琴が一方的に悪者にされているという罪悪感――後になって言語化したとすれば、この時に航が抱いていた感情はそういうことだったのだろう。
「ごめんね」
病室は静かで、細かい雨の音さえよく聞こえた。
湿っぽさが窓から染み込んで来るようだった。
「だったら、一つだけ教えて」
瞠目した航の顔が残り香の様に疼いた。
魅琴から、何かを要求してきたのは初めての事だった。
航は一滴の果汁を舌に乗せたような、仄かに甘酸っぱい嬉しさを覚えた。
「どうして、私に話し掛けようと思ったの? みんな諦めた後も」
質問に、航はどう答えようか少し困った。
穏やかな口調から、今更責めているわけではなく、本当にただ純粋な疑問として訊いているだけなのは解る。
ただ、何を答えようが言い訳になってしまう申し訳無さがあった。
航は魅琴の眼を見た。
吸い込まれるような綺麗な瞳が、答えを待っている。
ならば、結果的に見苦しい自己肯定の弁明になろうが、自分の気持ちを正直に伝えるのが誠意というものだろう。
仮令その言葉が如何なる不興を買おうが。
「最初は『可愛いな』と思って、仲良くなりたかった。多分、みんなと同じだったと思う。でも……」
「でも?」
「なんとなく『哀しいな』って思ったんだ。人を避けてるみたいで。それは寂しいことだなって、勝手にそう思ったんだよ」
そう答えた時、魅琴は初めて笑った。
幼いながらも綺麗な顔が、その魅力を一層花咲かせたような、そんな天使の微笑みだった。
「そ、なら今の私と一緒ね」
その言葉に、航は喩え様も無く救われた気がした。
心が晴れた気分だった。
彼の謝罪は受け容れられ、真に和解が成立したのだ。
その後、病室での会話を重ねる度に二人は一層打ち解けていった。
退院後も、親しい関係は現在まで絶え間なく続いている。
幼馴染でありながら、航は魅琴との出会いをはっきりと覚えているのは、そんな強い印象と淡い思い出を伴っているからだろう。
⦿⦿⦿
高校生になった航と魅琴は再び拗れることなく近しい距離感を保っている。
だが少なくとも、航の方は魅琴の引力を当事より大きく感じていた。
あの時以来、魅琴は暴力を振るうことなく、クールで大人びた印象を強くしている。
航にとって、それが逆に彼女の魅力を増して気後れさせる。
気心の知れた仲の筈なのに、それなりの会話は卒無く出来る筈なのに、それ以上へ踏み出そうとすると、首輪が掛かっていると感じてしまうのだ。
朝日に彩られて鮮やかに色付いた魅琴は、この街道の誰よりも麗しい。
今航にとって、彼女の全てが謎めいた光だった。
「おっと、そろそろ行かなきゃ遅れちゃうな」
航はそう言って、然気無く魅琴を登校に誘った。
先の会話で少し触れた様に、普段は彼女の方が朝早く出るので、登校時に一緒になる事は滅多に無い。
折角その機会が巡って来たのだし、ここで別れるという選択肢は無かった――少なくとも、航の方には。
当然、魅琴も同じだと思われた。
現に、下校時はいつも一緒なのだから。
「私は行かないわよ」
だから、航は魅琴の返答に目を見開き、序でに口も半開きにして驚いた。
「え? 行かないって、何?」
「今日私は学校を休む、と言ったのよ」
「ええ!?」
思わず出た航の大声に、魅琴は五月蠅そうに眉を顰めた。
「健康超絶優良で皆勤常連完璧超人の君が、休む!? 槍でも降るの? こんなに好い天気なのに!」
魅琴は溜息を吐くと、航の来た道と反対方向に歩き出した。
「あの、本当どういうこと? 具合でも悪いの?」
「心配には及ばないわ。少し急用が出来ただけだから」
すれ違う魅琴を、航は視線で追って振り向いた。
魅琴もそんな彼に振り返り、流し目を投げ掛ける。
「何か困った事があったら連絡しなさい。内容と報酬によっては聞いてあげるわ」
「あ、おい……」
呼び止めようとする航に構わず、魅琴は行ってしまった。
「どうしたんだ……。急用って、何だ?」
いまいち釈然としない航だったが、もたもたしていると遅刻してしまうので、一先ず一人学校へと向かった。
⦿⦿⦿
午前中、昼休みと、学校では特に普段と変わった事など起こらなかった。
航と魅琴は隣同士の教室なので、授業中は彼女の欠席など意識の外だった。
居るのが当たり前で、別室で席を空けているという想像が浮かばなかったのだ。
昼休みの前、体育の時間になって初めて、彼女の不在に意識が向いた。
今日は魅琴が居ない。
運動場で別々に体育の授業を受ける女子の中に、彼女は居ない。
体操服姿の女子の中にあの悩ましい肉体美が、豊かな実りと引き締まった幹の描く隆線が、今日は無いのか。
航は体育の授業中、時折女子の方、魅琴へと目を遣り、彼女の艶めかしい体付きを盗み見ていた。
身近な少女に惹かれながら踏み出す度胸が無い――そんな航は、思春期の好意をこの様に、奥手だが捩じ曲がった形で発露していた。
だが、それが今日は出来ない。
別にそれだけが愉しみというわけではないのだが、航はふと強い寂しさに襲われてしまった。
それどころか、心做しか体の調子も悪くなったように感じた。
(どうしよう、マジで体育受ける気が無くなっちゃったな。……休むか)
航は自分の落ち込み様に驚きながら、不調を伝えるべく教師に声を掛けた。
「先生、一寸気分が悪いんですけど」
「何だ岬守、サボる気か? 如何にもな授業態度だったしな」
教師の言い草が少し頭に来た航だったが、自分でも気分による一時的な不調だと分かる負い目から、言葉には出せなかった。
「やはり染髪するような奴は……っと、地毛なんだったか。また五月蠅い奴が聞き付けても敵わん。とりあえず、保健室に行け」
(またそれか、最近は言われなかったんだけどな)
航はこの教師の頭髪弄りに辟易としていた。
航の髪色は生来明るい色をしている。
日本人らしい栗毛色から逸脱した髪がこの体育教師には気に食わないらしく、何かにつけて嫌味をぶつけられてきた。
尤も、最近はそれも鳴りを潜めていた。
何やら、彼をよく知る女子生徒が抗議したという噂があったりする。
航は体育教師の気が変わらない内に保健室へ向かった。
⦿
保健室のベッドで横になっていると、航の体調はあっという間に恢復した。
元より何処も悪くはなく、ただ気分が落ち込んだだけなので、落ち着けば元に戻るのは当然の事だろう。
(このままサボるのも難だな……)
航は天井を見上げながら、今からでもせめて見学しようか、などと考えていた。
「すみません、もう良くなったんで戻って良いですか?」
カーテン開け、既に戻る気満々で養護教諭に声を掛けた。
相手は呆れ果てたように溜息を吐く。
「君ねえ……。すぐに何かあるわけじゃなさそうだけど、一応大事を取っておいた方が賢明だと思うよ」
「気分が優れなかったらその時は早退して病院に行きますよ。それで良いでしょ?」
航は半ば強引に保健室を後にした。
このまま横になっているのは、何か魅琴に物凄く悪いような気がしたのだ。
「しかし、何だって突然休んだんだろうな……」
運動場へ向かうべく廊下へ出た航は、朝の魅琴の言動が気になり始めた。
彼女は自分の様に体調不良を訴えたのではなく、はっきりと「急用」と言っていた。
『何か困った事があったら連絡しなさい』
困った事とは、何だろう――態々彼女に助けを求める様な事があるだろうか、と航は訝しんだ。
その時、運動場の方で何やら只ならぬ喧騒が起きた。
悲鳴や怒号が混じり、人が争っている様な音が有事を告げている。
明らかに普通ではない事態に、航は驚いて靴箱の陰に身を隠した。
(何だ、何の騒ぎだ!?)
航の困惑を呑み込む様に、拡声器を使った様な声が四方八方から鳴り響く。
『この学校の教師並びに生徒諸君、突然失礼仕る。只今より暫くの間、この場所と君達の身柄は我々が預からせてもらう。既に運動場の生徒達は我々の管理下に置いた。これより、各教室に我々の同志が伺うが、余計な抵抗が何を意味するのか、どうか充分に御理解いただきたい。』
突然の占領宣言が先か後か、大勢の駆けるような足音が航に迫って来た。
『神皇正統記』
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その日、世界は変わり果てた。
西暦二〇二〇年は九月八日、何事も無く五十六年振りに自国開催されたオリンピック・パラリンピック大会の記憶も新しい。
その日の朝も、街を行く人々にとっては何とも無い晴天だった。
何処までも果てしなく澄み渡った青空には、先日までの入道雲が欠片も見当たらない。
まさに日本晴れと呼ぶに相応しい空模様であった。
大災害の前触れを察知した動物は奇妙な行動をとることがあるという。
ただ、蒼穹に舞う鳥達の姿は平穏そのものだ。
道行く彼もまた、気にも留めずに何の変哲も無い朝の街並を登校していた。
十五歳・高校一年生の少年・岬守航は、整った顔立ちを飾る宝石の様な眼に一人の少女を映し、彼女のもとへと小走りした。
すらりと伸びた一七七センチの長身が明るい色の髪を揺らす。
「おはよう」
航は立ち止まり、呼吸を整える。
視線の先、声を掛けられた美少女・麗真魅琴は青々と広がる天空を仰ぎ見ていた。
その姿勢はまるで、遥か上空の何かに目を凝らしているかの様だ。
真直ぐ長く艶やかな黒髪と、切長の目に備わった豊かな睫毛が朝日を浴びて煌めき、羽根の様な光が全身を包み込んでいる。
基より並外れた美貌が天女の如き神々しさすら帯びていた。
そんな魅琴の、どこか冷めた光を宿した眼が航の方へ向いた。
滑らかさと柔らかさを湛えた、瑞々しい胡頽子の実の様な唇が僅かに開き、朝の挨拶を返す。
「おはよう」
快晴の空にも劣らぬ、曇りなく澄んだ、静かだが明瞭な声だった。
航はいつも、この眼と声にやられてしまう。
だがその僅かな躊躇いを航は悟られたくなかった。
「空なんか見上げて、どうしたの?」
「別に、何でもないわ」
魅琴の返答にはどこか素気無いものだった。
尤も、彼女が航の投げたボールを空かすような返答をするのは毎度の事だ。
「僕を待っていてくれたのかな?」
「随分と寝惚けた事を言うのね。貴方にとってはこの時間でもまだ早いのかしら」
「……そっちこそ朝から緊い事言うじゃん」
「前々から貴方の登校時間が気になってはいたけれど、これでは今までどおり置いて行くしかないようね」
「やっぱり待ってたんじゃん」
「だとすると、私は貴方が自分より早いと考えていなかったことになるわね」
「素直に待ってたって言ってくれても良くない?」
「貴方の最初の言い方が気に入らないのよ」
魅琴はくすりと蠱惑的に微笑んだ。
この会話は親しい者同士が冗談を交わし合っているだけだ。
二人は確かに気心の知れた仲である。
軽口を叩き合える程度の距離感ではある。
だが、一定の間合いを境に微弱な反磁性を示す何かがあった。
幼き日に出会って以来、二人の関係性は極めて近付きながらも、その反磁性が作る一線を越えられないまま曖昧に揺蕩っていた。
⦿⦿⦿
岬守航と麗真魅琴の出会いは、二人が小学校一年・六歳の頃まで遡る。
正確な日付では六月二日木曜日、魅琴が航のクラスに編入してきた事が切掛だった。
「麗真魅琴」
航の記憶の中で彼女は最初、自己紹介で心底煩わしそうに名前だけを呟いた。
子供心にもその類稀なる美を理解出来る、まるで人形の様な美少女だった。
だから航が魅琴に興味を抱き、仲良くなりたいと思ったのはそうおかしなことでもないだろう。
同じ様に考えた級友達は他にも大勢居たが、取り付く島も無い魅琴の態度に一人また一人と諦めていった。
航だけが最後までしつこく粘った。
尤も、そんな航に対しても魅琴の冷めきった態度は変わらなかった。
寧ろ、付き纏われて段々と苛立ちを募らせてすらいたかも知れない。
また、航の方もまた魅琴の情無い態度に少し腹を立てていた。
一日最後の時間割となる音楽の授業、教室を移動する廊下で、航の幼稚な精神に魔が差した。
ほんの軽い気持ちで、航は魅琴の尻に手を伸ばした。
瞬間、人形の様に可憐だった彼女の貌は悪鬼羅刹の様相を呈し、石の様な拳を航の顔面に叩き付けたのだ。
航の身体は四・五メートル程も弾け飛んだ。
床に後頭部を強打した航を追い打つように、魅琴は飛び掛かって馬乗りになった。
驚きと恐怖を感じた航は多少反撃を試みたが為す術無く、更なる拳骨の雨が容赦無く彼を打ち付けた。
先頭で騒ぎを聞きつけた引率の教師が止めに入った時には、既に悲惨な事態になっていた。
航は血、涙、鼻水、涎に塗れて、見るも無残な顔で譫言の様に謝罪と命乞いを繰り返し、更には失禁していた。
航はすぐに病院へ運ばれ、魅琴は教師や親からこっ酷く怒られたという。
⦿
航の容態を並べると、鼻骨・眼窩底・頬骨・上顎骨が折れており、生え変わり前の歯も何本か飛んでいた。
抵抗しようとした両腕を振り払われた際にこちらも骨折していたらしく、以上の怪我が治るまで航は入院を余儀無くされた。
魅琴の母親らしき女性は航に対して平謝りで、本人も初対面の頃よりどこか慎みを感じさせる表情をしていた。
何か思うところがあったのだろう。
色々あって、航の親はあまり見舞いに来なかったが、如何なものだろうか。
代わりにほぼ毎日、魅琴が航の病室を訪れた。
季節柄、雨に降られる事が多く面倒だったろうに。
顔の骨折が治りかけ、ある程度の会話が出来るようになった航は、それを魅琴に吐露した。
「どうして毎日来てくれるの?」
「私が怪我させちゃったから」
「元はと言えば僕が悪いのに……」
自分に原因があったことを有耶無耶にされ、魅琴が一方的に悪者にされているという罪悪感――後になって言語化したとすれば、この時に航が抱いていた感情はそういうことだったのだろう。
「ごめんね」
病室は静かで、細かい雨の音さえよく聞こえた。
湿っぽさが窓から染み込んで来るようだった。
「だったら、一つだけ教えて」
瞠目した航の顔が残り香の様に疼いた。
魅琴から、何かを要求してきたのは初めての事だった。
航は一滴の果汁を舌に乗せたような、仄かに甘酸っぱい嬉しさを覚えた。
「どうして、私に話し掛けようと思ったの? みんな諦めた後も」
質問に、航はどう答えようか少し困った。
穏やかな口調から、今更責めているわけではなく、本当にただ純粋な疑問として訊いているだけなのは解る。
ただ、何を答えようが言い訳になってしまう申し訳無さがあった。
航は魅琴の眼を見た。
吸い込まれるような綺麗な瞳が、答えを待っている。
ならば、結果的に見苦しい自己肯定の弁明になろうが、自分の気持ちを正直に伝えるのが誠意というものだろう。
仮令その言葉が如何なる不興を買おうが。
「最初は『可愛いな』と思って、仲良くなりたかった。多分、みんなと同じだったと思う。でも……」
「でも?」
「なんとなく『哀しいな』って思ったんだ。人を避けてるみたいで。それは寂しいことだなって、勝手にそう思ったんだよ」
そう答えた時、魅琴は初めて笑った。
幼いながらも綺麗な顔が、その魅力を一層花咲かせたような、そんな天使の微笑みだった。
「そ、なら今の私と一緒ね」
その言葉に、航は喩え様も無く救われた気がした。
心が晴れた気分だった。
彼の謝罪は受け容れられ、真に和解が成立したのだ。
その後、病室での会話を重ねる度に二人は一層打ち解けていった。
退院後も、親しい関係は現在まで絶え間なく続いている。
幼馴染でありながら、航は魅琴との出会いをはっきりと覚えているのは、そんな強い印象と淡い思い出を伴っているからだろう。
⦿⦿⦿
高校生になった航と魅琴は再び拗れることなく近しい距離感を保っている。
だが少なくとも、航の方は魅琴の引力を当事より大きく感じていた。
あの時以来、魅琴は暴力を振るうことなく、クールで大人びた印象を強くしている。
航にとって、それが逆に彼女の魅力を増して気後れさせる。
気心の知れた仲の筈なのに、それなりの会話は卒無く出来る筈なのに、それ以上へ踏み出そうとすると、首輪が掛かっていると感じてしまうのだ。
朝日に彩られて鮮やかに色付いた魅琴は、この街道の誰よりも麗しい。
今航にとって、彼女の全てが謎めいた光だった。
「おっと、そろそろ行かなきゃ遅れちゃうな」
航はそう言って、然気無く魅琴を登校に誘った。
先の会話で少し触れた様に、普段は彼女の方が朝早く出るので、登校時に一緒になる事は滅多に無い。
折角その機会が巡って来たのだし、ここで別れるという選択肢は無かった――少なくとも、航の方には。
当然、魅琴も同じだと思われた。
現に、下校時はいつも一緒なのだから。
「私は行かないわよ」
だから、航は魅琴の返答に目を見開き、序でに口も半開きにして驚いた。
「え? 行かないって、何?」
「今日私は学校を休む、と言ったのよ」
「ええ!?」
思わず出た航の大声に、魅琴は五月蠅そうに眉を顰めた。
「健康超絶優良で皆勤常連完璧超人の君が、休む!? 槍でも降るの? こんなに好い天気なのに!」
魅琴は溜息を吐くと、航の来た道と反対方向に歩き出した。
「あの、本当どういうこと? 具合でも悪いの?」
「心配には及ばないわ。少し急用が出来ただけだから」
すれ違う魅琴を、航は視線で追って振り向いた。
魅琴もそんな彼に振り返り、流し目を投げ掛ける。
「何か困った事があったら連絡しなさい。内容と報酬によっては聞いてあげるわ」
「あ、おい……」
呼び止めようとする航に構わず、魅琴は行ってしまった。
「どうしたんだ……。急用って、何だ?」
いまいち釈然としない航だったが、もたもたしていると遅刻してしまうので、一先ず一人学校へと向かった。
⦿⦿⦿
午前中、昼休みと、学校では特に普段と変わった事など起こらなかった。
航と魅琴は隣同士の教室なので、授業中は彼女の欠席など意識の外だった。
居るのが当たり前で、別室で席を空けているという想像が浮かばなかったのだ。
昼休みの前、体育の時間になって初めて、彼女の不在に意識が向いた。
今日は魅琴が居ない。
運動場で別々に体育の授業を受ける女子の中に、彼女は居ない。
体操服姿の女子の中にあの悩ましい肉体美が、豊かな実りと引き締まった幹の描く隆線が、今日は無いのか。
航は体育の授業中、時折女子の方、魅琴へと目を遣り、彼女の艶めかしい体付きを盗み見ていた。
身近な少女に惹かれながら踏み出す度胸が無い――そんな航は、思春期の好意をこの様に、奥手だが捩じ曲がった形で発露していた。
だが、それが今日は出来ない。
別にそれだけが愉しみというわけではないのだが、航はふと強い寂しさに襲われてしまった。
それどころか、心做しか体の調子も悪くなったように感じた。
(どうしよう、マジで体育受ける気が無くなっちゃったな。……休むか)
航は自分の落ち込み様に驚きながら、不調を伝えるべく教師に声を掛けた。
「先生、一寸気分が悪いんですけど」
「何だ岬守、サボる気か? 如何にもな授業態度だったしな」
教師の言い草が少し頭に来た航だったが、自分でも気分による一時的な不調だと分かる負い目から、言葉には出せなかった。
「やはり染髪するような奴は……っと、地毛なんだったか。また五月蠅い奴が聞き付けても敵わん。とりあえず、保健室に行け」
(またそれか、最近は言われなかったんだけどな)
航はこの教師の頭髪弄りに辟易としていた。
航の髪色は生来明るい色をしている。
日本人らしい栗毛色から逸脱した髪がこの体育教師には気に食わないらしく、何かにつけて嫌味をぶつけられてきた。
尤も、最近はそれも鳴りを潜めていた。
何やら、彼をよく知る女子生徒が抗議したという噂があったりする。
航は体育教師の気が変わらない内に保健室へ向かった。
⦿
保健室のベッドで横になっていると、航の体調はあっという間に恢復した。
元より何処も悪くはなく、ただ気分が落ち込んだだけなので、落ち着けば元に戻るのは当然の事だろう。
(このままサボるのも難だな……)
航は天井を見上げながら、今からでもせめて見学しようか、などと考えていた。
「すみません、もう良くなったんで戻って良いですか?」
カーテン開け、既に戻る気満々で養護教諭に声を掛けた。
相手は呆れ果てたように溜息を吐く。
「君ねえ……。すぐに何かあるわけじゃなさそうだけど、一応大事を取っておいた方が賢明だと思うよ」
「気分が優れなかったらその時は早退して病院に行きますよ。それで良いでしょ?」
航は半ば強引に保健室を後にした。
このまま横になっているのは、何か魅琴に物凄く悪いような気がしたのだ。
「しかし、何だって突然休んだんだろうな……」
運動場へ向かうべく廊下へ出た航は、朝の魅琴の言動が気になり始めた。
彼女は自分の様に体調不良を訴えたのではなく、はっきりと「急用」と言っていた。
『何か困った事があったら連絡しなさい』
困った事とは、何だろう――態々彼女に助けを求める様な事があるだろうか、と航は訝しんだ。
その時、運動場の方で何やら只ならぬ喧騒が起きた。
悲鳴や怒号が混じり、人が争っている様な音が有事を告げている。
明らかに普通ではない事態に、航は驚いて靴箱の陰に身を隠した。
(何だ、何の騒ぎだ!?)
航の困惑を呑み込む様に、拡声器を使った様な声が四方八方から鳴り響く。
『この学校の教師並びに生徒諸君、突然失礼仕る。只今より暫くの間、この場所と君達の身柄は我々が預からせてもらう。既に運動場の生徒達は我々の管理下に置いた。これより、各教室に我々の同志が伺うが、余計な抵抗が何を意味するのか、どうか充分に御理解いただきたい。』
突然の占領宣言が先か後か、大勢の駆けるような足音が航に迫って来た。
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