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第一章『脱出篇』
第八話『剛腕』 急
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怪訝そうな表情を娘に向ける母・皇奏手。
対して魅琴は、反撃開始とばかりに要求の返事を述べ始める。
「先ずは御母様に御安心頂きましょうか。私は貴女の夢に興味が無い。だから取り立てて邪魔立てするつもりも無い。態々釘を刺されなくとも、貴女の政治的な後ろ暗さを殊更に言い触らすような真似は致しません。そこは娘を信じて頂いて結構です」
「当然でしょう。さっきも言った通り、どうせ私の後を継ぐことになれば一蓮托生、言い触らせば自分の首を絞めることになるのだから」
「そうですね。でもやはり、一つ目の要求が通ったという確証は欲しくなると思いますよ。だって、二つ目は通りませんから」
母娘の間に、険悪な空気が張り詰めていく。
皇の秘書・伴藤は一人胃を押さえながら、この場に居ない別の男を恨むように表情を顰めていた。
「そんなの通じると思う? 三度訊くけれど、お友達を見棄てるつもりかしら?」
「見棄てさせませんよ、皇奏手防衛大臣兼国家公安委員長閣下」
魅琴はそう告げると、懐からICレコーダーを取り出し、皇の目の前に突き付けた。
タイマーが動いており、録音状態になっている。
そして魅琴は見せ付ける様に録音を停止し、データがSDカードに記録された。
「成程。今の収録時間を見るに、事務室に入ってきた時には録音を開始していたようね」
「ええ。貴女の好き嫌いに始まり個人情報保護法違反、そして何より、国民を見棄てられるような発言が三回も記録されていますよ。随分脇が御甘い様で、よくこれまで襤褸を出さずに出世してこられましたね」
今度は魅琴が母親の失態を鼻で笑った。
娘にあっさりと弱みを握られる為体で世界最強とは笑わせる、という揶揄を言外に含んでいた。
「私のお願いを聞いてくれるなら、この録音は約束通り門外不出にしましょう。でも、もし怠けたりしたら……」
「これは困ったわねえ……。私は貴女の素性を交渉の材料にしようと思っていたのに。協力してくれないのなら難儀だわ」
言葉とは裏腹に皇は笑っている。
尚も余裕がある、といった様子だ。
「私の素性?」
「分かっているでしょう? 貴女の持つ、貴女しか持たない情報が、皇國を打倒したい連中にとってどれほど有益なものか。まさにそれこそ、崇神會廻天派が貴女の身柄を欲した理由でもある」
「それは……そうですね」
魅琴の表情から笑みが消えた。
その後、再び見せた不敵な笑みは、これまでの勝ち誇ったものとは意味が違う。
勿論、受諾の意思ではない。
彼女は、この場で話す皇の言葉が何もかも気に入らなかった。
「御母様、貴女は世界最強の存在になりたいと仰る。ならば私に対して威丈高になるのは理解出来ます。自分の方が強者だという自負心がおありなら、私に対して下手に出たくは無いでしょう」
「能く解っているじゃない。まあ抑も、物を頼む立場の方が弱いのは当然でしょう」
「仰る通りです。だから、逆にその叛逆組織には下手に出ることになる。世界最強に手を延ばす貴女が。正直、滑稽ですよ。貴女も莫迦莫迦しい、歯痒いとお思いでは?」
「どういうこと? 何が言いたいの、魅琴ちゃん?」
今度は皇の表情から笑みが消えた。
初めて娘の意図を読み取りかねているといった様子だ。
「私は初めから貴女に助けを求めるつもりはありませんよ。私のお願いとは、応援です」
「応援? つまり、動くのは私ではなく貴女だと、そう言っている?」
「はい。私はこれから皇國に乗り込んで攫われた人達を奪い返して来ます。貴女にはそれを政治的にバックアップして欲しい。それが私のお願いですよ」
あまりの言葉に、皇と伴藤は唖然としていた。
突如現れた国交の無い謎の大国に単身乗り込み、犯罪組織と自ら接触して拉致被害者を奪還すると云うのだ。
破天荒、そう評するに相応しい発想と宣言だろう。
「……魅琴ちゃん、今の口振りだと、私の応援が無くとも渡航する意志に変わりは無い、と聞こえるわね。外務省が皇國に対して指定している危険情報を御存知?」
「渡航自粛要請――北朝鮮と同じ特殊な扱い、ですね」
「それを承知の上で、政府の閣僚たる私に民間人の貴女が皇國に赴くことを容認しろと、そう言っているの?」
「嫌なら別に、容認して頂かなくても結構ですよ」
皇は顔を顰めた。
顎に手を当てて、暫し考え込む。
言外に、魅琴が皇の推察を肯定しているのは明らか、娘の意志は揺るがないということだろう。
ならば……。
「御母様、世界最強を目指す貴女にとって、狼ノ牙という連中は膝を屈すにはあまりにも小物過ぎると思いますけれど」
「それは……そうね」
皇は小さく口角を上げた。
「分かりました。そういうことなら、此方が貴女の手綱を握っておいた方が何かと都合が良い。確かに貴女の言う通り、強者たる者、弱者に主導権を握らせる事勿れ。私の娘として、その意気や好し。提案に乗りましょう」
「ありがとうございます」
「但し、一つ条件を修正させなさい」
「修正?」
「さっきの録音、私に買い取らせなさい。その上で、『皇奏手の側で何らかの音声を買い取った』という録音を貴女には持たせますそれが呑めるなら、貴女のことは全面的にサポートします」
魅琴は考える。
母の、日本政府の助けが無くとも、皇國へ乗り込むつもりではいる。
しかし、狼ノ牙とやらの当てが無いのも事実。
迅速に事を為すべく、出来れば助けは欲しい。
「直接的なスキャンダルではなく、揉み消しの証拠を握らせ、核心部分は闇に葬るということですね。抜け目が無いのか小狡いのか……。まあ、私としても貴女を失脚させるのが目的ではありませんから。それくらいの条件変更、受けても構いませんよ」
いつの間にか、魅琴の側が交渉の主導権を握っていた。
皇は何故か満足げに微笑む。
「上出来ね。あと条件を付け加えるなら、必ず帰ってくること、かしら。貴女に欠けられると私が困るのでね」
皇は魅琴を世継ぎにすることを諦めた訳ではない。
後継者としての資質に満足した、そういう笑みだった。
「ああそれと、狼ノ牙のことは最悪潰しちゃっても構わないわ。接触したは良いけれど、皇國を掣肘するには微妙な連中だと思っていたところだしね」
その時、事務所の扉が開いた。
「先生、そろそろ御準備なさった方が宜しいかと」
もう一人の秘書・根尾弓矢だった。
若く駆け出しだった五年前と比べ、高級スーツがよく馴染んで様になっている。
「ああ、もうこんな時間だったのね。久々に愛娘とお話し出来たのが嬉しくて、つい夢中になってしまったわ」
皇が立ち上がったのを見て、空気の張り詰める交渉が終わったことに安堵したのか、伴藤は気が抜けたような溜息を吐いた。
そして、上手いタイミングで入室した同僚の根尾へ、悪態を吐く様に口を動かして恨めしげな視線を向けた。
「魅琴ちゃん、取り敢えず皇國の政府には話を通しておきましょう。彼らが、そして貴女達が無事に帰国出来るようにね」
「あら、しっかり皇國側とも繋がっていたのですね。それで、狼ノ牙は用済みだと」
「まあね。後のことは根尾に訊きなさい。根尾、予定通り、後は宜しく頼むわよ」
はい、と何の疑問も挟まずに答える根尾の様子に、魅琴は結局のところ自分が母の掌の上だったと察し、再び腹が立ってきた。
伴藤を伴って事務所を後にしようとする母に、何か一言加えたくなった。
「用済みになったら切り捨てる。そうやって御父様も捨てたのですか?」
「心外ね。私がいつ魅弦さんを捨てたと云うの?」
背中を向けた皇の声はトーンが低く、それまでと違って聞こえた。
そして魅琴と根尾を部屋に残し、扉は勢い良く閉められた。
「麗真君、皇國へは俺も同行しよう。俺は皇先生から密命を受けて何度か皇國入りしている。それから、現地で諜報員とも合流する。必ず、君の力になるだろう」
「やっぱり気に入らない……」
自分の感情を確かめる魅琴を余所に、根尾は資料を机に広げて説明を始めた。
⦿
根尾は魅琴から、皇の発言を録音したSDカードを受け取った。
「では、秘書である俺の手で、確かにこの録音は買い取ったぞ」
対して魅琴は、その売買の遣り取りを新たに録音した。
これで、魅琴の手には皇奏手の秘書が何らかの録音データを魅琴から買い取ったという記録が残る。
「パスポートの申請って一週間も掛かるものなんですね。正直、待っていられないわ……」
「我慢しろ。皇國は兎も角、経由地の米国には正規のルートで入国しなければ面倒だ」
現在、皇國が国交を持っているのは米中露の三箇国のみである。
この内、中露は未だに不安定な状態が続いており、比較的安全に皇國へ渡航出来るのは米国のみなのだ。
日本は皇國と国交が無く、これは中国を経由して北朝鮮に入国するようなものである。
「それと、二つ程注意点を告げておこう。先ず、向こうでは『武装戦隊・狼ノ牙』の名はなるべく出すな。向こうにとって、奴らは危険なテロ組織というだけでなく、嘗て自国を地獄に叩き落とした前政府の末裔。唾棄、憎悪される存在だ。下手な誤解がとんでもないトラブルの元になる」
「ヤシマ人民民主主義共和国、でしたね」
「その国家主席の孫・道成寺太が現在、首領Дを名乗って狼ノ牙を率いている」
何処から手に入れたのか、根尾は狼ノ牙の冊子「篦鮒飼育法」の一冊を手にしていた。
つまり、彼自身に狼ノ牙との接触ルートがあるのだ。
「そしてもう一つ。これの方がはるかに重要で、俺が同行する最大の理由だ。良いか、呉々も、絶対に、何が起きようとも、あちらの皇族とは絶対に揉めるな。同じ日本を名乗っていても、我が国の皇室とは根本的に違うのだからな」
根尾の言葉に部屋の空気が揺れる。
魅琴は答えを返さず、何やら物思いに耽る様に空を見ていた。
「麗真君」
根尾は語気を強め、そんな魅琴に答えを急かした。
「百も承知です。態々此方から仕掛けるような真似はしません」
「本当だろうな?」
念を押す様に、根尾は魅琴に顔を近付ける。
そんな彼を、魅琴は姿全体を捉えるように見据えて、再度答える。
「大丈夫ですよ。現に私は、今此処に居ます」
「そうか……」
根尾はそれ以上追求しなかった。
「なら良い。今日はこれでお開きにしよう。何かあったら連絡してくれ」
「ありがとうございます」
魅琴は根尾に軽く会釈した。
「送ろうか」
根尾は車の鍵をちらつかせる。
有名な国産の高級車だ。
「結構です。自分の足で来たので」
「なんだ、疲れただろうから、休憩所にでも案内してやろうと思ったのに」
「根尾さん、軽口も言葉と相手を選んだ方が良いですよ」
二人は皇の事務所、議員会館を後にした。
⦿⦿⦿
麗真魅琴は考える。
暴力での解決は望ましくない。
それはとても安易な手段だ。
そんなことに慣れ切った拳は傲りに塗れ、屹度肝心な時に役に立たなくなる。
暴力で解決出来ない、絶大なる困難に対して何も出来なくなる。
彼を殴り付けた時、私の中にそんな予感が生まれた。
父が亡くなった時、どうにもならない絶対的な力に捻じ伏せられたと感じた。
だから私は、極力暴力に恃みたくはない。
誰かを守る肝心な時まで、私は私の力を研ぎ澄ませていなければならない。
その肝心な時とは、当に今ではないか。
今、その戒めを解かなくて、一体いつこの力を使うのか。
刃を研いでいる間に総て喪いましたでは、あまりにも滑稽過ぎるではないか。
後悔してもし切れないではないか。
だから、私は皇國に乗り込む。
皆を取り戻す為に。
残されたままでなどいられる訳が無い。
何としても取り戻したい、帰ってきて欲しいから。
――一週間の後、麗真魅琴は根尾弓矢と共に皇國へ乗り込む。
対して魅琴は、反撃開始とばかりに要求の返事を述べ始める。
「先ずは御母様に御安心頂きましょうか。私は貴女の夢に興味が無い。だから取り立てて邪魔立てするつもりも無い。態々釘を刺されなくとも、貴女の政治的な後ろ暗さを殊更に言い触らすような真似は致しません。そこは娘を信じて頂いて結構です」
「当然でしょう。さっきも言った通り、どうせ私の後を継ぐことになれば一蓮托生、言い触らせば自分の首を絞めることになるのだから」
「そうですね。でもやはり、一つ目の要求が通ったという確証は欲しくなると思いますよ。だって、二つ目は通りませんから」
母娘の間に、険悪な空気が張り詰めていく。
皇の秘書・伴藤は一人胃を押さえながら、この場に居ない別の男を恨むように表情を顰めていた。
「そんなの通じると思う? 三度訊くけれど、お友達を見棄てるつもりかしら?」
「見棄てさせませんよ、皇奏手防衛大臣兼国家公安委員長閣下」
魅琴はそう告げると、懐からICレコーダーを取り出し、皇の目の前に突き付けた。
タイマーが動いており、録音状態になっている。
そして魅琴は見せ付ける様に録音を停止し、データがSDカードに記録された。
「成程。今の収録時間を見るに、事務室に入ってきた時には録音を開始していたようね」
「ええ。貴女の好き嫌いに始まり個人情報保護法違反、そして何より、国民を見棄てられるような発言が三回も記録されていますよ。随分脇が御甘い様で、よくこれまで襤褸を出さずに出世してこられましたね」
今度は魅琴が母親の失態を鼻で笑った。
娘にあっさりと弱みを握られる為体で世界最強とは笑わせる、という揶揄を言外に含んでいた。
「私のお願いを聞いてくれるなら、この録音は約束通り門外不出にしましょう。でも、もし怠けたりしたら……」
「これは困ったわねえ……。私は貴女の素性を交渉の材料にしようと思っていたのに。協力してくれないのなら難儀だわ」
言葉とは裏腹に皇は笑っている。
尚も余裕がある、といった様子だ。
「私の素性?」
「分かっているでしょう? 貴女の持つ、貴女しか持たない情報が、皇國を打倒したい連中にとってどれほど有益なものか。まさにそれこそ、崇神會廻天派が貴女の身柄を欲した理由でもある」
「それは……そうですね」
魅琴の表情から笑みが消えた。
その後、再び見せた不敵な笑みは、これまでの勝ち誇ったものとは意味が違う。
勿論、受諾の意思ではない。
彼女は、この場で話す皇の言葉が何もかも気に入らなかった。
「御母様、貴女は世界最強の存在になりたいと仰る。ならば私に対して威丈高になるのは理解出来ます。自分の方が強者だという自負心がおありなら、私に対して下手に出たくは無いでしょう」
「能く解っているじゃない。まあ抑も、物を頼む立場の方が弱いのは当然でしょう」
「仰る通りです。だから、逆にその叛逆組織には下手に出ることになる。世界最強に手を延ばす貴女が。正直、滑稽ですよ。貴女も莫迦莫迦しい、歯痒いとお思いでは?」
「どういうこと? 何が言いたいの、魅琴ちゃん?」
今度は皇の表情から笑みが消えた。
初めて娘の意図を読み取りかねているといった様子だ。
「私は初めから貴女に助けを求めるつもりはありませんよ。私のお願いとは、応援です」
「応援? つまり、動くのは私ではなく貴女だと、そう言っている?」
「はい。私はこれから皇國に乗り込んで攫われた人達を奪い返して来ます。貴女にはそれを政治的にバックアップして欲しい。それが私のお願いですよ」
あまりの言葉に、皇と伴藤は唖然としていた。
突如現れた国交の無い謎の大国に単身乗り込み、犯罪組織と自ら接触して拉致被害者を奪還すると云うのだ。
破天荒、そう評するに相応しい発想と宣言だろう。
「……魅琴ちゃん、今の口振りだと、私の応援が無くとも渡航する意志に変わりは無い、と聞こえるわね。外務省が皇國に対して指定している危険情報を御存知?」
「渡航自粛要請――北朝鮮と同じ特殊な扱い、ですね」
「それを承知の上で、政府の閣僚たる私に民間人の貴女が皇國に赴くことを容認しろと、そう言っているの?」
「嫌なら別に、容認して頂かなくても結構ですよ」
皇は顔を顰めた。
顎に手を当てて、暫し考え込む。
言外に、魅琴が皇の推察を肯定しているのは明らか、娘の意志は揺るがないということだろう。
ならば……。
「御母様、世界最強を目指す貴女にとって、狼ノ牙という連中は膝を屈すにはあまりにも小物過ぎると思いますけれど」
「それは……そうね」
皇は小さく口角を上げた。
「分かりました。そういうことなら、此方が貴女の手綱を握っておいた方が何かと都合が良い。確かに貴女の言う通り、強者たる者、弱者に主導権を握らせる事勿れ。私の娘として、その意気や好し。提案に乗りましょう」
「ありがとうございます」
「但し、一つ条件を修正させなさい」
「修正?」
「さっきの録音、私に買い取らせなさい。その上で、『皇奏手の側で何らかの音声を買い取った』という録音を貴女には持たせますそれが呑めるなら、貴女のことは全面的にサポートします」
魅琴は考える。
母の、日本政府の助けが無くとも、皇國へ乗り込むつもりではいる。
しかし、狼ノ牙とやらの当てが無いのも事実。
迅速に事を為すべく、出来れば助けは欲しい。
「直接的なスキャンダルではなく、揉み消しの証拠を握らせ、核心部分は闇に葬るということですね。抜け目が無いのか小狡いのか……。まあ、私としても貴女を失脚させるのが目的ではありませんから。それくらいの条件変更、受けても構いませんよ」
いつの間にか、魅琴の側が交渉の主導権を握っていた。
皇は何故か満足げに微笑む。
「上出来ね。あと条件を付け加えるなら、必ず帰ってくること、かしら。貴女に欠けられると私が困るのでね」
皇は魅琴を世継ぎにすることを諦めた訳ではない。
後継者としての資質に満足した、そういう笑みだった。
「ああそれと、狼ノ牙のことは最悪潰しちゃっても構わないわ。接触したは良いけれど、皇國を掣肘するには微妙な連中だと思っていたところだしね」
その時、事務所の扉が開いた。
「先生、そろそろ御準備なさった方が宜しいかと」
もう一人の秘書・根尾弓矢だった。
若く駆け出しだった五年前と比べ、高級スーツがよく馴染んで様になっている。
「ああ、もうこんな時間だったのね。久々に愛娘とお話し出来たのが嬉しくて、つい夢中になってしまったわ」
皇が立ち上がったのを見て、空気の張り詰める交渉が終わったことに安堵したのか、伴藤は気が抜けたような溜息を吐いた。
そして、上手いタイミングで入室した同僚の根尾へ、悪態を吐く様に口を動かして恨めしげな視線を向けた。
「魅琴ちゃん、取り敢えず皇國の政府には話を通しておきましょう。彼らが、そして貴女達が無事に帰国出来るようにね」
「あら、しっかり皇國側とも繋がっていたのですね。それで、狼ノ牙は用済みだと」
「まあね。後のことは根尾に訊きなさい。根尾、予定通り、後は宜しく頼むわよ」
はい、と何の疑問も挟まずに答える根尾の様子に、魅琴は結局のところ自分が母の掌の上だったと察し、再び腹が立ってきた。
伴藤を伴って事務所を後にしようとする母に、何か一言加えたくなった。
「用済みになったら切り捨てる。そうやって御父様も捨てたのですか?」
「心外ね。私がいつ魅弦さんを捨てたと云うの?」
背中を向けた皇の声はトーンが低く、それまでと違って聞こえた。
そして魅琴と根尾を部屋に残し、扉は勢い良く閉められた。
「麗真君、皇國へは俺も同行しよう。俺は皇先生から密命を受けて何度か皇國入りしている。それから、現地で諜報員とも合流する。必ず、君の力になるだろう」
「やっぱり気に入らない……」
自分の感情を確かめる魅琴を余所に、根尾は資料を机に広げて説明を始めた。
⦿
根尾は魅琴から、皇の発言を録音したSDカードを受け取った。
「では、秘書である俺の手で、確かにこの録音は買い取ったぞ」
対して魅琴は、その売買の遣り取りを新たに録音した。
これで、魅琴の手には皇奏手の秘書が何らかの録音データを魅琴から買い取ったという記録が残る。
「パスポートの申請って一週間も掛かるものなんですね。正直、待っていられないわ……」
「我慢しろ。皇國は兎も角、経由地の米国には正規のルートで入国しなければ面倒だ」
現在、皇國が国交を持っているのは米中露の三箇国のみである。
この内、中露は未だに不安定な状態が続いており、比較的安全に皇國へ渡航出来るのは米国のみなのだ。
日本は皇國と国交が無く、これは中国を経由して北朝鮮に入国するようなものである。
「それと、二つ程注意点を告げておこう。先ず、向こうでは『武装戦隊・狼ノ牙』の名はなるべく出すな。向こうにとって、奴らは危険なテロ組織というだけでなく、嘗て自国を地獄に叩き落とした前政府の末裔。唾棄、憎悪される存在だ。下手な誤解がとんでもないトラブルの元になる」
「ヤシマ人民民主主義共和国、でしたね」
「その国家主席の孫・道成寺太が現在、首領Дを名乗って狼ノ牙を率いている」
何処から手に入れたのか、根尾は狼ノ牙の冊子「篦鮒飼育法」の一冊を手にしていた。
つまり、彼自身に狼ノ牙との接触ルートがあるのだ。
「そしてもう一つ。これの方がはるかに重要で、俺が同行する最大の理由だ。良いか、呉々も、絶対に、何が起きようとも、あちらの皇族とは絶対に揉めるな。同じ日本を名乗っていても、我が国の皇室とは根本的に違うのだからな」
根尾の言葉に部屋の空気が揺れる。
魅琴は答えを返さず、何やら物思いに耽る様に空を見ていた。
「麗真君」
根尾は語気を強め、そんな魅琴に答えを急かした。
「百も承知です。態々此方から仕掛けるような真似はしません」
「本当だろうな?」
念を押す様に、根尾は魅琴に顔を近付ける。
そんな彼を、魅琴は姿全体を捉えるように見据えて、再度答える。
「大丈夫ですよ。現に私は、今此処に居ます」
「そうか……」
根尾はそれ以上追求しなかった。
「なら良い。今日はこれでお開きにしよう。何かあったら連絡してくれ」
「ありがとうございます」
魅琴は根尾に軽く会釈した。
「送ろうか」
根尾は車の鍵をちらつかせる。
有名な国産の高級車だ。
「結構です。自分の足で来たので」
「なんだ、疲れただろうから、休憩所にでも案内してやろうと思ったのに」
「根尾さん、軽口も言葉と相手を選んだ方が良いですよ」
二人は皇の事務所、議員会館を後にした。
⦿⦿⦿
麗真魅琴は考える。
暴力での解決は望ましくない。
それはとても安易な手段だ。
そんなことに慣れ切った拳は傲りに塗れ、屹度肝心な時に役に立たなくなる。
暴力で解決出来ない、絶大なる困難に対して何も出来なくなる。
彼を殴り付けた時、私の中にそんな予感が生まれた。
父が亡くなった時、どうにもならない絶対的な力に捻じ伏せられたと感じた。
だから私は、極力暴力に恃みたくはない。
誰かを守る肝心な時まで、私は私の力を研ぎ澄ませていなければならない。
その肝心な時とは、当に今ではないか。
今、その戒めを解かなくて、一体いつこの力を使うのか。
刃を研いでいる間に総て喪いましたでは、あまりにも滑稽過ぎるではないか。
後悔してもし切れないではないか。
だから、私は皇國に乗り込む。
皆を取り戻す為に。
残されたままでなどいられる訳が無い。
何としても取り戻したい、帰ってきて欲しいから。
――一週間の後、麗真魅琴は根尾弓矢と共に皇國へ乗り込む。
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