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第一章『脱出篇』
第十話『異人』 急
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舂く太陽が、まるで世界の終焉の様に山際を朱く燃やしている。
屋渡の赤いジャケットが野火の様な景色と混ざり、航と繭月を包む劫火の一部となって崖際に二人を追い詰める。
「扨て、どうしたものか……」
屋渡の蛇の様な眼が航と繭月の間を迷い箸の様に行ったり来たりしている。
そう、まるで味わうべき料理を選びかねている様に。
(何を考えている、屋渡?)
航の胸に不安が色濃くなっていく。
新兒が気を失った今、残されたのは共に屋渡が課した訓練の成果が最も芳しくない二人である。
そして、早辺子の見込みでは航が戦闘員として見限られ、雑用係に回される、ということだ。
もし、ここで屋渡が繭月を雑用係に回せば、航の脱出計画は大きく狂ってしまう。
本当に、早辺子は屋渡を都合良く踊らせる事が出来ているのだろうか。
航の心配を余所に、屋渡がゆっくりと二人に近付いてくる。
腕の中で繭月が震えている。
確かに、今の屋渡はいつにも増して恐ろしげに見える。
「岬守・繭月、俺は今ここで、お前達二人の内一人を切ろうと思っている。別に、首領からは『全員を革命戦士に育てろ』とは言われていないのでな」
屋渡の節榑立った右手が航と繭月の頭上に翳された。
暴力性に満ちた腕が生け贄を鷲掴みにしようとしている。
「先ず、貴様からだなァ、繭月」
ウェーブの掛かった長い髪が乱暴に引っ張り上げられた。
繭月は痛みと恐怖に悲鳴を上げる。
「嫌っ!! やめて!! 放して!!」
「やめろ、屋渡!!」
航は思わず立ち上がった。
だが屋渡は嘲笑に口角を歪めると、左腕で航の体を振り払った。
航はバランスを崩して膝を突く。
「ぐっ、この!」
「威勢が良いのは結構だが、貴様如きがいくら跳ね返ったところでこの俺には万に一つも敵わんぞ」
尚も屋渡に向かっていく航だったが、呆気なく蹴り飛ばされてしまう。
航は闇に染まる空を見上げ、彼我の実力差を痛感した。
(糞ッ……!)
計画の為には、別に屋渡に勝てずとも構わない。
だが、横暴を止める力が無い事は悔しかった。
屋渡はそんな航に多分な侮蔑を込めて一瞥だけを寄越し、玩具の包装樹脂皮膜を捨てるように興味を繭月へ移した。
「そうそう、お前は早速この俺の言付けを破ったな? お前らの問題は一事が万事、俺の言う事を素直に聞かないところにある。反抗的な岬守もそうだし、怠惰なお前もそうだ、繭月。だが、切られたくなければ弁えた方が良いぞ」
「何……を……?」
「豚語しか喋るなと言っただろうが!!」
屋渡は、周囲の草花を震わせ木の葉を舞わせる勢いで怒号を上げた。
あまりの剣幕に閉口した繭月に顔を近付け、邪悪な笑みを浮かべる。
どうやらこういう詰り方がこの男の好みらしい。
「『私は怠惰な豚です』と言ってみろ。反省の意思を見せ、この俺の機嫌を取るんだよ!」
屋渡はとうとう繭月の頬を叩き始めた。
叩く、と表現すると軽く感じるかも知れないが、実際は呻くほどの勢いで強烈な平手打ちを何度も見舞っている。
倒れていた航は痛みを怒りで掻き消して立ち上がろうとする。
だが、体に上手く力が入らない。
(ヤバい、神為が尽きかけてる)
航は早辺子の話を思い出していた。
神為を身に着けた者は超人的な耐久力・回復力・生命力・膂力に恵まれる。
だがそれらにも限界があり、維持しようとすると神為をバッテリーの様に消費していってしまうのだ。
そしてこれらが戦いの中で尽きてしまった時、丸裸になった生身の体で相手の超常的な膂力を真面に受ける羽目になってしまう。
(繭月さんだってもう限界の筈だ。このままじゃ……!)
薄々感じていた嫌な予感が色濃くなっていく。
もしかすると、早辺子は屋渡のコントロールを誤ったのではないか。
それも、見限って雑用係に回す相手を違える、というよりももっと悪い方向に。
「わ、私は……怠惰な……」
「ブ・タ・語! ほーら、ブヒブヒ言ってみろ! お似合いの声で醜く啼いてみろォ!」
屈服の意思を見せた繭月を、屋渡は尚も責める。
嘲る様に、罵る様に、額と額を強く打ち付けて痛め付ける。
そしてとうとう、繭月の中で何かが決壊した。
「ぶ、ぶ、ぶひぃ……」
繭月は観念したように、大粒の涙と共に絞り出す様に、啼き始めた。
「ぶひ、ぶひぃ! ぶひいいいイッッ!!」
「ははははは! やっと素直になったなァ!!」
屋渡は満足したのか、繭月の顔面を蹴り飛ばした。
彼女は地面に後頭部を強打し、そのまま新兒と同じように気を失ってしまった。
「屋渡ッ……貴様……!」
航は怒りに震えながら、やっと起き上がれた。
ダメージで繭月への虐待を止められなかったことも悔やまれる。
屋渡はそんな航を最大限に見下し、歪んだ笑みを湛えながら近付いて来る。
「残るはお前一人だな、岬守。充分噛み締めたか? 自分が如何に無力で、俺の期待に応えられていないかを」
航は目の前の屋渡を睨み上げる。
それはせめてもの抵抗だった。
「相変わらず反抗的な眼だが、相手にする価値も無い。やはり、お前が一番駄目だな、岬守。三莫迦の内、虻球磨は何だかんだで格闘自体は出来る。繭月はこれを機に心を入れ替えればどうにかなるかも知れん。だが、貴様はどうだ? 革命戦士として何一つ美点も、展望も、対策も無い。その癖、一番雑魚の身で反発だけは一人前だ。俺はお前の何を評価すれば良いんだ、え?」
ある意味期待通りの侮辱を受け、航はまた早辺子との会話を思い出す。
『岬守様、武装戦隊・狼ノ牙の幹部は八人、その中でまだ評価出来る人間を挙げると半分にも満たないでしょう。特に、私は失脚させる対象を是非屋渡にしたいと考えているのです』
『そこまでですか。いや、あいつが屑なのはよく解ってますけど』
『以前も申し上げましたね。あの男は下衆の極みです。他の者は兎も角としても、屋渡だけは報いを受けさせなければなりません』
航は今、早辺子の言葉を噛み締める。
その通りだ、この男だけは目に物見せてやらなければならない。
だが、航達の脱出はあくまで切掛に過ぎない。
屋渡の失脚は、その後に確りと責任を追求して初めて成立する。
『水徒端さん、引導を渡してくださいますか?』
『ええ、必ずや』
今、屋渡は誰かを切ると言っている。
この流れだと、それは十中八九航になるだろう。
つまり、何だかんだでここまでは早辺子の読み通りの展開になっている。
「僕に……どうしろって言うんだ……」
航は臥薪嘗胆の意思を噛み締めながら吐き捨てた。
考えた上での台詞だった。
最も自然な振る舞いで、屋渡の決断を誘導する――必要以上に媚びることも、下手な挑発も、わざとらしい家事能力アピールもするべきではない。
反抗的な意思を挫かれつつあり、弱気になっている。
屋渡の意向に従う意思を見せ始める――そんな含みを持たせた態度が相応しかろう。
だが、屋渡は先程までの嘲弄的且つ嗜虐的な笑みを消し、極めて冷淡に航を見ていた。
玩具の包装、というより、ティッシュに包んだチューイングガムを見る様な眼をしている。
「もう、良いか。お前のことは処分してしまおう」
拙い――航の血の気が一気に引いた。
屋渡が下した判断は、雑用係への転向という冷遇ではなく、処刑宣告という冷酷だった。
(水徒端さんが失敗したのか? それとも、僕の態度が足を引っ張ったのか?)
考えても詮無き事である。
少し予感していた、最悪の想定外が起こってしまったのだ。
(やるしかない、のか……?)
航は苦し紛れに構えた。
勝てる相手ではないから、どうにかして逃げるしか無い。
だが新兒と繭月を置いてはいけないので、二人が目を覚ますまでは凌がねばなるまい。
なんとか屋渡の処刑から逃れ続け、二人が起きたら全員で公転館へ逃げ帰るのだ。
全てが破綻した今、他の者達にも全てを打ち明けて、早辺子の助力に縋る他無い。
(水徒端さん、すまない。貴女の潜入まで元の木阿弥になってしまう。でも、なんとか助けて欲しい)
航は覚悟を決めた。
尚も諦めてはいない航の眼を見て、屋渡は再び嘲る様な歪んだ笑みを浮かべる。
「窮鼠猫を噛む、か。だが、そう都合良くは行かんぞ。何故なら俺はお前に、冥土の土産として術識神為を披露してやるからだ」
屋渡の右腕が禍々しく変形し始める。
『術識神為・毘斗蛇邊倫』
航にとって、絶望的な戦いが始まろうとしていた。
屋渡の赤いジャケットが野火の様な景色と混ざり、航と繭月を包む劫火の一部となって崖際に二人を追い詰める。
「扨て、どうしたものか……」
屋渡の蛇の様な眼が航と繭月の間を迷い箸の様に行ったり来たりしている。
そう、まるで味わうべき料理を選びかねている様に。
(何を考えている、屋渡?)
航の胸に不安が色濃くなっていく。
新兒が気を失った今、残されたのは共に屋渡が課した訓練の成果が最も芳しくない二人である。
そして、早辺子の見込みでは航が戦闘員として見限られ、雑用係に回される、ということだ。
もし、ここで屋渡が繭月を雑用係に回せば、航の脱出計画は大きく狂ってしまう。
本当に、早辺子は屋渡を都合良く踊らせる事が出来ているのだろうか。
航の心配を余所に、屋渡がゆっくりと二人に近付いてくる。
腕の中で繭月が震えている。
確かに、今の屋渡はいつにも増して恐ろしげに見える。
「岬守・繭月、俺は今ここで、お前達二人の内一人を切ろうと思っている。別に、首領からは『全員を革命戦士に育てろ』とは言われていないのでな」
屋渡の節榑立った右手が航と繭月の頭上に翳された。
暴力性に満ちた腕が生け贄を鷲掴みにしようとしている。
「先ず、貴様からだなァ、繭月」
ウェーブの掛かった長い髪が乱暴に引っ張り上げられた。
繭月は痛みと恐怖に悲鳴を上げる。
「嫌っ!! やめて!! 放して!!」
「やめろ、屋渡!!」
航は思わず立ち上がった。
だが屋渡は嘲笑に口角を歪めると、左腕で航の体を振り払った。
航はバランスを崩して膝を突く。
「ぐっ、この!」
「威勢が良いのは結構だが、貴様如きがいくら跳ね返ったところでこの俺には万に一つも敵わんぞ」
尚も屋渡に向かっていく航だったが、呆気なく蹴り飛ばされてしまう。
航は闇に染まる空を見上げ、彼我の実力差を痛感した。
(糞ッ……!)
計画の為には、別に屋渡に勝てずとも構わない。
だが、横暴を止める力が無い事は悔しかった。
屋渡はそんな航に多分な侮蔑を込めて一瞥だけを寄越し、玩具の包装樹脂皮膜を捨てるように興味を繭月へ移した。
「そうそう、お前は早速この俺の言付けを破ったな? お前らの問題は一事が万事、俺の言う事を素直に聞かないところにある。反抗的な岬守もそうだし、怠惰なお前もそうだ、繭月。だが、切られたくなければ弁えた方が良いぞ」
「何……を……?」
「豚語しか喋るなと言っただろうが!!」
屋渡は、周囲の草花を震わせ木の葉を舞わせる勢いで怒号を上げた。
あまりの剣幕に閉口した繭月に顔を近付け、邪悪な笑みを浮かべる。
どうやらこういう詰り方がこの男の好みらしい。
「『私は怠惰な豚です』と言ってみろ。反省の意思を見せ、この俺の機嫌を取るんだよ!」
屋渡はとうとう繭月の頬を叩き始めた。
叩く、と表現すると軽く感じるかも知れないが、実際は呻くほどの勢いで強烈な平手打ちを何度も見舞っている。
倒れていた航は痛みを怒りで掻き消して立ち上がろうとする。
だが、体に上手く力が入らない。
(ヤバい、神為が尽きかけてる)
航は早辺子の話を思い出していた。
神為を身に着けた者は超人的な耐久力・回復力・生命力・膂力に恵まれる。
だがそれらにも限界があり、維持しようとすると神為をバッテリーの様に消費していってしまうのだ。
そしてこれらが戦いの中で尽きてしまった時、丸裸になった生身の体で相手の超常的な膂力を真面に受ける羽目になってしまう。
(繭月さんだってもう限界の筈だ。このままじゃ……!)
薄々感じていた嫌な予感が色濃くなっていく。
もしかすると、早辺子は屋渡のコントロールを誤ったのではないか。
それも、見限って雑用係に回す相手を違える、というよりももっと悪い方向に。
「わ、私は……怠惰な……」
「ブ・タ・語! ほーら、ブヒブヒ言ってみろ! お似合いの声で醜く啼いてみろォ!」
屈服の意思を見せた繭月を、屋渡は尚も責める。
嘲る様に、罵る様に、額と額を強く打ち付けて痛め付ける。
そしてとうとう、繭月の中で何かが決壊した。
「ぶ、ぶ、ぶひぃ……」
繭月は観念したように、大粒の涙と共に絞り出す様に、啼き始めた。
「ぶひ、ぶひぃ! ぶひいいいイッッ!!」
「ははははは! やっと素直になったなァ!!」
屋渡は満足したのか、繭月の顔面を蹴り飛ばした。
彼女は地面に後頭部を強打し、そのまま新兒と同じように気を失ってしまった。
「屋渡ッ……貴様……!」
航は怒りに震えながら、やっと起き上がれた。
ダメージで繭月への虐待を止められなかったことも悔やまれる。
屋渡はそんな航を最大限に見下し、歪んだ笑みを湛えながら近付いて来る。
「残るはお前一人だな、岬守。充分噛み締めたか? 自分が如何に無力で、俺の期待に応えられていないかを」
航は目の前の屋渡を睨み上げる。
それはせめてもの抵抗だった。
「相変わらず反抗的な眼だが、相手にする価値も無い。やはり、お前が一番駄目だな、岬守。三莫迦の内、虻球磨は何だかんだで格闘自体は出来る。繭月はこれを機に心を入れ替えればどうにかなるかも知れん。だが、貴様はどうだ? 革命戦士として何一つ美点も、展望も、対策も無い。その癖、一番雑魚の身で反発だけは一人前だ。俺はお前の何を評価すれば良いんだ、え?」
ある意味期待通りの侮辱を受け、航はまた早辺子との会話を思い出す。
『岬守様、武装戦隊・狼ノ牙の幹部は八人、その中でまだ評価出来る人間を挙げると半分にも満たないでしょう。特に、私は失脚させる対象を是非屋渡にしたいと考えているのです』
『そこまでですか。いや、あいつが屑なのはよく解ってますけど』
『以前も申し上げましたね。あの男は下衆の極みです。他の者は兎も角としても、屋渡だけは報いを受けさせなければなりません』
航は今、早辺子の言葉を噛み締める。
その通りだ、この男だけは目に物見せてやらなければならない。
だが、航達の脱出はあくまで切掛に過ぎない。
屋渡の失脚は、その後に確りと責任を追求して初めて成立する。
『水徒端さん、引導を渡してくださいますか?』
『ええ、必ずや』
今、屋渡は誰かを切ると言っている。
この流れだと、それは十中八九航になるだろう。
つまり、何だかんだでここまでは早辺子の読み通りの展開になっている。
「僕に……どうしろって言うんだ……」
航は臥薪嘗胆の意思を噛み締めながら吐き捨てた。
考えた上での台詞だった。
最も自然な振る舞いで、屋渡の決断を誘導する――必要以上に媚びることも、下手な挑発も、わざとらしい家事能力アピールもするべきではない。
反抗的な意思を挫かれつつあり、弱気になっている。
屋渡の意向に従う意思を見せ始める――そんな含みを持たせた態度が相応しかろう。
だが、屋渡は先程までの嘲弄的且つ嗜虐的な笑みを消し、極めて冷淡に航を見ていた。
玩具の包装、というより、ティッシュに包んだチューイングガムを見る様な眼をしている。
「もう、良いか。お前のことは処分してしまおう」
拙い――航の血の気が一気に引いた。
屋渡が下した判断は、雑用係への転向という冷遇ではなく、処刑宣告という冷酷だった。
(水徒端さんが失敗したのか? それとも、僕の態度が足を引っ張ったのか?)
考えても詮無き事である。
少し予感していた、最悪の想定外が起こってしまったのだ。
(やるしかない、のか……?)
航は苦し紛れに構えた。
勝てる相手ではないから、どうにかして逃げるしか無い。
だが新兒と繭月を置いてはいけないので、二人が目を覚ますまでは凌がねばなるまい。
なんとか屋渡の処刑から逃れ続け、二人が起きたら全員で公転館へ逃げ帰るのだ。
全てが破綻した今、他の者達にも全てを打ち明けて、早辺子の助力に縋る他無い。
(水徒端さん、すまない。貴女の潜入まで元の木阿弥になってしまう。でも、なんとか助けて欲しい)
航は覚悟を決めた。
尚も諦めてはいない航の眼を見て、屋渡は再び嘲る様な歪んだ笑みを浮かべる。
「窮鼠猫を噛む、か。だが、そう都合良くは行かんぞ。何故なら俺はお前に、冥土の土産として術識神為を披露してやるからだ」
屋渡の右腕が禍々しく変形し始める。
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航にとって、絶望的な戦いが始まろうとしていた。
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