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第二章『神皇篇』
第三十五話『償還過程』 急
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沙華は激しく吐血した。
地に着けた頬を伝って血溜りが広がっていく。
「はぁ……はぁ……。く……そ……。もう……殆……ど……喋れ……な……」
どうやら自分の毒が回って一気に衰弱したらしい。
このままでは非常に危険である。
「ふん、言い遺す言葉の一つくらいは聞いてやるわ」
十桐の体が光を放ち、光は沙華の周囲に散らばった。
何やら能力を行使した様である。
「別宇宙の物理法則を入れ替えた。体力も多少は恢復し、喋ることくらいは出来るじゃろう。さっさと話せ」
十桐は依然として沙華を睨んで見下ろしている者の、先程まで憎しみで険しく歪んだ様子は幾分か緩和されていた。
繭月との対話で、少しだけ心の門戸が開いたのだろう。
「ふふ……甘い婆さんだ、十桐綺葉……」
「そうでもないぞ。我がこの場で殺さんでも、無力となった貴様に待つ運命は死罪のみじゃ。貴様は聞き入れられぬ弁明をただ吠えるに過ぎぬ」
どうやら十桐に沙華を見逃すつもりは無いらしい。
「良いさ。それなら精々、胸に傷を残してから死んでやる」
沙華は皮肉な笑みで返した。
「私のことを話す上で、妹の珠実のことを言わなければならない。容姿に恵まれ、優秀で、おまけに愛嬌も良く、誰しもに好かれる娘だった……」
妹を思い出す沙華の表情は険しかった。
言葉とは裏腹に、苦い記憶があるのだろうか。
「誰もが妹を蝶よ花よと可愛がり、持て囃した。私達の親も、兎に角妹を溺愛していた。私のことはそっちのけで、贔屓していた。お陰で私は、幼い頃から碌に褒められず、与えられずに惨めな思いばかりしていた……」
「ならば親と妹を憎めば良いじゃろうが。社会に仇なす理由になるものか」
「十桐さん、話を最後まで聴きませんか?」
繭月に咎められ、十桐はばつが悪そうに舌打ちした。
沙華は話を続ける。
「私が妹を憎めば良かっただと? 確かに、それならば私の人生は随分と変わっただろうな。出来ればだけれどな」
「どういうことじゃ?」
「珠実はな、良い娘だったんだよ。優しかった。両親に怒られる私をよく庇ってくれたし、慰めてもくれた。周りからのプレゼントも分け与えてくれたよ。愛されるに足る、博愛に満ちた良い娘だった。嫌な奴なら嫌いになれた。けれども贔屓の搾取を受けた私にとってすら、可愛い妹だったのさ。それが余計に惨めだった」
沙華は上半身を起こし、息を乱しながらその場に膝を立てて坐った。
どうやら少しずつ毒から復調してきているらしい。
「心底痛感したよ。私の生まれてきた意義は、存在価値は、妹の輝きに尽くすことなんだと……。妹を幸せにすることが、私の全てなのだと……」
「貴様はそれで良かったのか?」
「良くはないさ。妹の幸せを私の幸せとまでは思えちゃいない。妹なんか生まれてこなければ良かったと何度思ったか。そうすれば、少しは私に与えられた幸せもあった筈だ。でも、仕方が無いじゃないか。生まれてきてしまった妹には何の罪も無いし、良い娘だったんだから。妹を幸せにする為の引き立て役でも、人生に意味があるだけマシだ」
十桐はいつの間にか沙華の話に聴き入っていた。
彼女もまた、目線を合わせようとしているのか、沙華の前に正座した。
その十桐の両眼を睨み付け、沙華は眉間に皺を刻む。
「その意味すら奪ったのが、皇國の貴族社会だ」
「何?」
「子爵令息・猪熊与衛。妹を見初めた旧華族だった。皆に愛された妹は、遂に華族から求婚の声が掛かったのさ。次男坊とはいえ、私達平民にとっては雲上人だ。妹の幸せは約束されたと、少しは私も報われたと、そう思っていた……」
「……どうなったのじゃ?」
ことの顛末を沙華に問う十桐だが、共に話を聴いていた繭月には予想が付いた。
おそらく、十桐も半ば分かってはいるだろう。
「死んだ。殺された! 妹を娶った悪徳貴族・猪熊与衛に!!」
沙華は大声を張り上げた。
更に、恨み辛みの籠った声で早口に話を続ける。
「猪熊子爵家の次男坊は嗜虐趣味の変態野郎だった! 猪熊家は、他の貴族から嫁を入れると相手の家と遺恨が生じかねないと考え、平民の妹に目を付けたんだ! 妹は犠牲にされた! 私が自分の人生を捧げさせられすらした妹の幸せは無残に踏み躙られた!」
「事実なのか、それは? 子爵家といえど、何の罪も無い平民に手を掛けて許される様な制度は皇國に存在せんぞ」
「ふん、これだから世間知らずの大貴族様は。少なくとも、狼ノ牙に入ってから裏社会に掛け合って猪熊与衛にそういう趣味があったことは調査済みだ。大層、風俗嬢の評判は悪かったよ。それに、私達はただ珠実は死んだと伝えられただけで、遺体と面会さえさせてもらえなかった。猪熊家は確実に珠実の死因を隠していた」
「しかし、じゃからと言って……」
「ならばこれを見るが良い!」
沙華は突如、床に打ち捨てられていた短刀を拾い上げ、己が衣服の腹の辺りを切り裂いた。
そこには臍を跨いで縦に大きな手術痕が残されていた。
「私達家族は、当然納得せずに警察と猪熊子爵家に再捜査を要求した。だが、両親は猪熊家への訴えが行き過ぎて逆に警察に逮捕され、そして私は、何者かに襲われた。暴行を受けて深く傷付いた私は、子宮を失って子を産めない体になった」
繭月と十桐は絶句した。
沙華は鼻を鳴らし、話を続ける。
「ここまでとは思わなかったか? 社会から道を踏み外し、転覆を希う背景が軽いとでも思ったか? もっと言ってやると、今私に派手な格好が出来ているのは、狼ノ牙で出世して八卦衆になった恩恵だ。皮肉なことに、皇國に牙を剥いて初めて、私は恵まれた生活というものを経験したのさ」
重い沈黙が流れた。
沙華が皇國の社会を、貴族を恨むのも無理は無い様に思えた。
八卦衆の中には自ら道を踏み外した者も居たが、沙華の様に被害者と言って差し支え無い者も居る。
「ふむ、貴様の言い分は解った」
十桐が徐に口を開いた。
「しかし、じゃからと言って貴様ら叛逆者が皇國に害を為す以上、社会悪との評価が覆ることは無い。貴様の過去は確かに気の毒ではあるし、妹殿にはお悔やみを申し上げる。だが貴様の訴えが猪熊子爵家の坊主に対する再調査の直接的な切掛になることはあってはならん。それは暴力革命の肯定、法治の否定に繋がるからじゃ」
「そう言うだろうと思ったよ。端から貴様ら貴族には、皇國には何の期待もしちゃいない。だから、国家転覆を望んだんだ」
「うむ。貴様はそう言って自らの境遇を理由に数々の凶悪犯罪に手を染めてきた。地主や企業へのテロと財産の接収、金融機関への強盗、及びそれらに伴う何軒もの殺人に貴様が関与していることは解っている。それは到底免罪出来るものではない。どんな背景があろうと、罪無き者を手に掛けて良い理由にはならん」
十桐に毅然とした言葉を突き付けられ、沙華は口惜しそうに視線を逸らした。
彼女が言う様に、どんな言い訳や恨み言を並べようが、沙華がテロ組織に幹部として加担した一人の凶悪犯であるという事実は覆らない。
「しかし確かに、皇國貴族が無謬ではないのも事実。近いうちに綱紀を引き締める必要があるとは前々から思っておった。我だけでなく、一桐卿も納得されるじゃろう。それに、叛逆を企てるものにも各々の人生があり、背景があることは考慮せねばならん。一律に確定死罪、というのは改めても良いかも知れん。貴様は許されんが、同行した道成寺太の子女は吟味しても良かろう」
十桐は沙華に微笑みかけた。
それは、結果として猪熊与衛に対する再調査と裁きの可能性を含ませる言葉だった。
建前上、沙華の訴えを切掛に狙い撃ちすることは出来ないが、予てよりの計画として全体を引き締めることで、結果としてその望みに叶うこともあり得るということだ。
沙華は驚いた様に目を瞠った。
「と言うわけで、明治日本より拉致された貴様らについても沙汰はよく考えた方が良さそうじゃの。『協力せざるを得なかった』ということならば、酌量せねばなるまい」
「え? あの……」
繭月は驚きと困惑を覚え、そしてまた全てが繋がって納得した。
抑も、何故十桐が自分達に襲い掛かったのか、その理由は不明瞭だった。
いくら甲夢黝が自分達を無き者にしようとしているとはいえ、他の六摂家当主まで挙って協力するのは些か不自然だった。
「あの……もしかしてですけど、私達が狼ノ牙に協力させられていると、そうお考えですか?」
「ん? どういうことじゃ?」
「私達、訓練と称して酷い目に遭わされただけで、彼らの為に何かしたことはありませんよ?」
「は?」
十桐はキョトンとして繭月を見ていた。
「ま、まさか貴様ら二人が戦っていた理由は……」
「ふん、とんだお笑い草だな。そいつらは私達の元から脱走したんだ。だから粛正しようとしていた。そうとも知らず、協力関係が仲間割れを起こしたと思い込んで両方始末しようとするとは……。貴様らこそ、罪も無い者を手に掛けようとしていたのさ」
沙華の皮肉めいた言葉に、十桐は目を見開いて頭を抱えた。
「な、なんということじゃ! 鷹番や丹桐の阿呆共や、公殿の屑だけならばいざ知らず、我や一桐卿までも甲卿の企みに乗せられておったのか!」
十桐は深く溜息を吐き、そして立ち上がると、繭月に頭を下げた。
「申し訳無かった。そこの沙華珠枝の言うとおり、罪も無い者達を手に掛けるところじゃった」
「えと、つまり私の仲間達は無事だと?」
「今のところはな。そうと判れば、こんな茶番は終わりにせねばならん。此度の成果には沙華珠枝の身柄を手土産にする他あるまい。沙華よ、貴様は何かまだ異論はあるか?」
沙華に胸の内を尋ねる十桐に、先程までの激しい憎悪は見られなかった。
それは沙華という一人の人間を見る眼だった。
「……年貢の納め時か。だが、言いたいことは言えた」
「うむ、潔くて結構じゃ」
十桐と沙華は、穏やかな表情で互いに視線を交わした。
憎しみを乗り越えようとする十桐に、繭月は一つ伝えたかった。
「十桐さん」
「なんじゃ?」
「私にも、嘗て弟が居ました。私は彼を、自らの中にある汚らわしいもののせいで傷付けてしまったのではないかと、ずっと気に掛かっていました。でも、ある女に諭されたんです。相手を思う余り、それに囚われて自分を苦しめるべきではない、と。その人ははっきりと言いませんでしたけど、そう言うことだと思うんです。屹度、彼は私を恨んでいないと……」
「ふむ……」
十桐は少し考え込むと、小さく、しかし霧が晴れた様に明るく微笑んだ。
「お前の言うことも尤もかも知れんの。神皇陛下にとって、御自身への負い目で我ら臣民が苦しむのは宸憂の元であろう。陛下はそのような御方じゃ。御気遣い、感謝するぞよ」
十桐はそう言うと、両腕を拡げた。
「扨て、では能力を解除して一桐卿に事情を話さねばならんの……」
辺りの闇が一気に晴れた。
十桐の能力が解除され、繭月と沙華は立体駐車場の中に戻されたのだ。
繭月は辺りを見渡した。
同じ階のフロアに、根尾弓矢と石像化した丹桐士糸、久住双葉と椿陽子・道成寺陰斗姉弟と傍らに斃れた公殿句子の死体が同居している。
彼らもまた突然の能力解除に驚き、そして此方の様子に気が付いた様だ。
「ふむ、一桐卿は上の階か……。早く行ってやらねばの。間に合えば良いが……」
十桐は天井を見上げて呟いた。
だがその時、一つの悪意が芽生えていたことに彼女は気が付いていなかった。
「十桐さん!」
「ん?」
繭月が気が付いて叫んだ時にはもう遅かった。
沙華珠枝は手に持っていた短刀を武器に十桐へ襲い掛かり、彼女の腹部を刺したのだ。
「かはっ……!!」
「術識神為が解除されれば此方のものだ! 誰が大人しく捕まるものかよ!」
沙華はその場に倒れ伏す十桐を尻目に、声を張り上げて陽子と陰斗に呼び掛ける。
「陽子・陰斗! 車を出せ! この場は退却する!」
呼び掛けに応じた姉弟は近場に停めてあった車を掻っ払うと、猛スピードで沙華を拾って立体駐車場を下階へ降りていった。
「十桐さん! 確りしてください! ごめんなさい、止められなくて!」
「き、気にするな……。六摂家当主たる我は……この程度で死にはせん……」
重傷を負った十桐は繭月の腕の中で顔に後悔を滲ませる。
「抜かったのは我じゃ。すっかりあの女に気を許してしもうた。身動きの取れない状態にしておくべきじゃった。所詮、あの女は性根の腐った叛逆者じゃった……」
事態に気が付いた根尾と双葉が歩み寄ってきた。
「その女は、十桐公爵か……」
「この女が、私達を閉じ込めていた能力者……」
「根尾さん、久住さん、この女はもう敵ではありません。早く手当を……」
「大丈夫じゃて。それより、早く誰か上の階へ行け。二人の小僧が一桐卿に殺され掛けておるぞ……。それと、背の高い女と餓鬼二人は後で始末しようと思っておった。下の階で震えておるから、そっちにも行ってやれ……」
十桐の伝言を受け、三人に緊張が走った。
どうやら事態は一刻を争うらしい。
「俺が上へ行く。状況を説明するには適任だろう。繭月さんは一番余力を残している。下の階へ行って、万が一の時は白檀や雲野兄妹を守ってやってください。久住君は、この場で十桐卿の様子を見ておいてくれ」
根尾の言葉に従い、三人はそれぞれの持ち場へ向かった。
地に着けた頬を伝って血溜りが広がっていく。
「はぁ……はぁ……。く……そ……。もう……殆……ど……喋れ……な……」
どうやら自分の毒が回って一気に衰弱したらしい。
このままでは非常に危険である。
「ふん、言い遺す言葉の一つくらいは聞いてやるわ」
十桐の体が光を放ち、光は沙華の周囲に散らばった。
何やら能力を行使した様である。
「別宇宙の物理法則を入れ替えた。体力も多少は恢復し、喋ることくらいは出来るじゃろう。さっさと話せ」
十桐は依然として沙華を睨んで見下ろしている者の、先程まで憎しみで険しく歪んだ様子は幾分か緩和されていた。
繭月との対話で、少しだけ心の門戸が開いたのだろう。
「ふふ……甘い婆さんだ、十桐綺葉……」
「そうでもないぞ。我がこの場で殺さんでも、無力となった貴様に待つ運命は死罪のみじゃ。貴様は聞き入れられぬ弁明をただ吠えるに過ぎぬ」
どうやら十桐に沙華を見逃すつもりは無いらしい。
「良いさ。それなら精々、胸に傷を残してから死んでやる」
沙華は皮肉な笑みで返した。
「私のことを話す上で、妹の珠実のことを言わなければならない。容姿に恵まれ、優秀で、おまけに愛嬌も良く、誰しもに好かれる娘だった……」
妹を思い出す沙華の表情は険しかった。
言葉とは裏腹に、苦い記憶があるのだろうか。
「誰もが妹を蝶よ花よと可愛がり、持て囃した。私達の親も、兎に角妹を溺愛していた。私のことはそっちのけで、贔屓していた。お陰で私は、幼い頃から碌に褒められず、与えられずに惨めな思いばかりしていた……」
「ならば親と妹を憎めば良いじゃろうが。社会に仇なす理由になるものか」
「十桐さん、話を最後まで聴きませんか?」
繭月に咎められ、十桐はばつが悪そうに舌打ちした。
沙華は話を続ける。
「私が妹を憎めば良かっただと? 確かに、それならば私の人生は随分と変わっただろうな。出来ればだけれどな」
「どういうことじゃ?」
「珠実はな、良い娘だったんだよ。優しかった。両親に怒られる私をよく庇ってくれたし、慰めてもくれた。周りからのプレゼントも分け与えてくれたよ。愛されるに足る、博愛に満ちた良い娘だった。嫌な奴なら嫌いになれた。けれども贔屓の搾取を受けた私にとってすら、可愛い妹だったのさ。それが余計に惨めだった」
沙華は上半身を起こし、息を乱しながらその場に膝を立てて坐った。
どうやら少しずつ毒から復調してきているらしい。
「心底痛感したよ。私の生まれてきた意義は、存在価値は、妹の輝きに尽くすことなんだと……。妹を幸せにすることが、私の全てなのだと……」
「貴様はそれで良かったのか?」
「良くはないさ。妹の幸せを私の幸せとまでは思えちゃいない。妹なんか生まれてこなければ良かったと何度思ったか。そうすれば、少しは私に与えられた幸せもあった筈だ。でも、仕方が無いじゃないか。生まれてきてしまった妹には何の罪も無いし、良い娘だったんだから。妹を幸せにする為の引き立て役でも、人生に意味があるだけマシだ」
十桐はいつの間にか沙華の話に聴き入っていた。
彼女もまた、目線を合わせようとしているのか、沙華の前に正座した。
その十桐の両眼を睨み付け、沙華は眉間に皺を刻む。
「その意味すら奪ったのが、皇國の貴族社会だ」
「何?」
「子爵令息・猪熊与衛。妹を見初めた旧華族だった。皆に愛された妹は、遂に華族から求婚の声が掛かったのさ。次男坊とはいえ、私達平民にとっては雲上人だ。妹の幸せは約束されたと、少しは私も報われたと、そう思っていた……」
「……どうなったのじゃ?」
ことの顛末を沙華に問う十桐だが、共に話を聴いていた繭月には予想が付いた。
おそらく、十桐も半ば分かってはいるだろう。
「死んだ。殺された! 妹を娶った悪徳貴族・猪熊与衛に!!」
沙華は大声を張り上げた。
更に、恨み辛みの籠った声で早口に話を続ける。
「猪熊子爵家の次男坊は嗜虐趣味の変態野郎だった! 猪熊家は、他の貴族から嫁を入れると相手の家と遺恨が生じかねないと考え、平民の妹に目を付けたんだ! 妹は犠牲にされた! 私が自分の人生を捧げさせられすらした妹の幸せは無残に踏み躙られた!」
「事実なのか、それは? 子爵家といえど、何の罪も無い平民に手を掛けて許される様な制度は皇國に存在せんぞ」
「ふん、これだから世間知らずの大貴族様は。少なくとも、狼ノ牙に入ってから裏社会に掛け合って猪熊与衛にそういう趣味があったことは調査済みだ。大層、風俗嬢の評判は悪かったよ。それに、私達はただ珠実は死んだと伝えられただけで、遺体と面会さえさせてもらえなかった。猪熊家は確実に珠実の死因を隠していた」
「しかし、じゃからと言って……」
「ならばこれを見るが良い!」
沙華は突如、床に打ち捨てられていた短刀を拾い上げ、己が衣服の腹の辺りを切り裂いた。
そこには臍を跨いで縦に大きな手術痕が残されていた。
「私達家族は、当然納得せずに警察と猪熊子爵家に再捜査を要求した。だが、両親は猪熊家への訴えが行き過ぎて逆に警察に逮捕され、そして私は、何者かに襲われた。暴行を受けて深く傷付いた私は、子宮を失って子を産めない体になった」
繭月と十桐は絶句した。
沙華は鼻を鳴らし、話を続ける。
「ここまでとは思わなかったか? 社会から道を踏み外し、転覆を希う背景が軽いとでも思ったか? もっと言ってやると、今私に派手な格好が出来ているのは、狼ノ牙で出世して八卦衆になった恩恵だ。皮肉なことに、皇國に牙を剥いて初めて、私は恵まれた生活というものを経験したのさ」
重い沈黙が流れた。
沙華が皇國の社会を、貴族を恨むのも無理は無い様に思えた。
八卦衆の中には自ら道を踏み外した者も居たが、沙華の様に被害者と言って差し支え無い者も居る。
「ふむ、貴様の言い分は解った」
十桐が徐に口を開いた。
「しかし、じゃからと言って貴様ら叛逆者が皇國に害を為す以上、社会悪との評価が覆ることは無い。貴様の過去は確かに気の毒ではあるし、妹殿にはお悔やみを申し上げる。だが貴様の訴えが猪熊子爵家の坊主に対する再調査の直接的な切掛になることはあってはならん。それは暴力革命の肯定、法治の否定に繋がるからじゃ」
「そう言うだろうと思ったよ。端から貴様ら貴族には、皇國には何の期待もしちゃいない。だから、国家転覆を望んだんだ」
「うむ。貴様はそう言って自らの境遇を理由に数々の凶悪犯罪に手を染めてきた。地主や企業へのテロと財産の接収、金融機関への強盗、及びそれらに伴う何軒もの殺人に貴様が関与していることは解っている。それは到底免罪出来るものではない。どんな背景があろうと、罪無き者を手に掛けて良い理由にはならん」
十桐に毅然とした言葉を突き付けられ、沙華は口惜しそうに視線を逸らした。
彼女が言う様に、どんな言い訳や恨み言を並べようが、沙華がテロ組織に幹部として加担した一人の凶悪犯であるという事実は覆らない。
「しかし確かに、皇國貴族が無謬ではないのも事実。近いうちに綱紀を引き締める必要があるとは前々から思っておった。我だけでなく、一桐卿も納得されるじゃろう。それに、叛逆を企てるものにも各々の人生があり、背景があることは考慮せねばならん。一律に確定死罪、というのは改めても良いかも知れん。貴様は許されんが、同行した道成寺太の子女は吟味しても良かろう」
十桐は沙華に微笑みかけた。
それは、結果として猪熊与衛に対する再調査と裁きの可能性を含ませる言葉だった。
建前上、沙華の訴えを切掛に狙い撃ちすることは出来ないが、予てよりの計画として全体を引き締めることで、結果としてその望みに叶うこともあり得るということだ。
沙華は驚いた様に目を瞠った。
「と言うわけで、明治日本より拉致された貴様らについても沙汰はよく考えた方が良さそうじゃの。『協力せざるを得なかった』ということならば、酌量せねばなるまい」
「え? あの……」
繭月は驚きと困惑を覚え、そしてまた全てが繋がって納得した。
抑も、何故十桐が自分達に襲い掛かったのか、その理由は不明瞭だった。
いくら甲夢黝が自分達を無き者にしようとしているとはいえ、他の六摂家当主まで挙って協力するのは些か不自然だった。
「あの……もしかしてですけど、私達が狼ノ牙に協力させられていると、そうお考えですか?」
「ん? どういうことじゃ?」
「私達、訓練と称して酷い目に遭わされただけで、彼らの為に何かしたことはありませんよ?」
「は?」
十桐はキョトンとして繭月を見ていた。
「ま、まさか貴様ら二人が戦っていた理由は……」
「ふん、とんだお笑い草だな。そいつらは私達の元から脱走したんだ。だから粛正しようとしていた。そうとも知らず、協力関係が仲間割れを起こしたと思い込んで両方始末しようとするとは……。貴様らこそ、罪も無い者を手に掛けようとしていたのさ」
沙華の皮肉めいた言葉に、十桐は目を見開いて頭を抱えた。
「な、なんということじゃ! 鷹番や丹桐の阿呆共や、公殿の屑だけならばいざ知らず、我や一桐卿までも甲卿の企みに乗せられておったのか!」
十桐は深く溜息を吐き、そして立ち上がると、繭月に頭を下げた。
「申し訳無かった。そこの沙華珠枝の言うとおり、罪も無い者達を手に掛けるところじゃった」
「えと、つまり私の仲間達は無事だと?」
「今のところはな。そうと判れば、こんな茶番は終わりにせねばならん。此度の成果には沙華珠枝の身柄を手土産にする他あるまい。沙華よ、貴様は何かまだ異論はあるか?」
沙華に胸の内を尋ねる十桐に、先程までの激しい憎悪は見られなかった。
それは沙華という一人の人間を見る眼だった。
「……年貢の納め時か。だが、言いたいことは言えた」
「うむ、潔くて結構じゃ」
十桐と沙華は、穏やかな表情で互いに視線を交わした。
憎しみを乗り越えようとする十桐に、繭月は一つ伝えたかった。
「十桐さん」
「なんじゃ?」
「私にも、嘗て弟が居ました。私は彼を、自らの中にある汚らわしいもののせいで傷付けてしまったのではないかと、ずっと気に掛かっていました。でも、ある女に諭されたんです。相手を思う余り、それに囚われて自分を苦しめるべきではない、と。その人ははっきりと言いませんでしたけど、そう言うことだと思うんです。屹度、彼は私を恨んでいないと……」
「ふむ……」
十桐は少し考え込むと、小さく、しかし霧が晴れた様に明るく微笑んだ。
「お前の言うことも尤もかも知れんの。神皇陛下にとって、御自身への負い目で我ら臣民が苦しむのは宸憂の元であろう。陛下はそのような御方じゃ。御気遣い、感謝するぞよ」
十桐はそう言うと、両腕を拡げた。
「扨て、では能力を解除して一桐卿に事情を話さねばならんの……」
辺りの闇が一気に晴れた。
十桐の能力が解除され、繭月と沙華は立体駐車場の中に戻されたのだ。
繭月は辺りを見渡した。
同じ階のフロアに、根尾弓矢と石像化した丹桐士糸、久住双葉と椿陽子・道成寺陰斗姉弟と傍らに斃れた公殿句子の死体が同居している。
彼らもまた突然の能力解除に驚き、そして此方の様子に気が付いた様だ。
「ふむ、一桐卿は上の階か……。早く行ってやらねばの。間に合えば良いが……」
十桐は天井を見上げて呟いた。
だがその時、一つの悪意が芽生えていたことに彼女は気が付いていなかった。
「十桐さん!」
「ん?」
繭月が気が付いて叫んだ時にはもう遅かった。
沙華珠枝は手に持っていた短刀を武器に十桐へ襲い掛かり、彼女の腹部を刺したのだ。
「かはっ……!!」
「術識神為が解除されれば此方のものだ! 誰が大人しく捕まるものかよ!」
沙華はその場に倒れ伏す十桐を尻目に、声を張り上げて陽子と陰斗に呼び掛ける。
「陽子・陰斗! 車を出せ! この場は退却する!」
呼び掛けに応じた姉弟は近場に停めてあった車を掻っ払うと、猛スピードで沙華を拾って立体駐車場を下階へ降りていった。
「十桐さん! 確りしてください! ごめんなさい、止められなくて!」
「き、気にするな……。六摂家当主たる我は……この程度で死にはせん……」
重傷を負った十桐は繭月の腕の中で顔に後悔を滲ませる。
「抜かったのは我じゃ。すっかりあの女に気を許してしもうた。身動きの取れない状態にしておくべきじゃった。所詮、あの女は性根の腐った叛逆者じゃった……」
事態に気が付いた根尾と双葉が歩み寄ってきた。
「その女は、十桐公爵か……」
「この女が、私達を閉じ込めていた能力者……」
「根尾さん、久住さん、この女はもう敵ではありません。早く手当を……」
「大丈夫じゃて。それより、早く誰か上の階へ行け。二人の小僧が一桐卿に殺され掛けておるぞ……。それと、背の高い女と餓鬼二人は後で始末しようと思っておった。下の階で震えておるから、そっちにも行ってやれ……」
十桐の伝言を受け、三人に緊張が走った。
どうやら事態は一刻を争うらしい。
「俺が上へ行く。状況を説明するには適任だろう。繭月さんは一番余力を残している。下の階へ行って、万が一の時は白檀や雲野兄妹を守ってやってください。久住君は、この場で十桐卿の様子を見ておいてくれ」
根尾の言葉に従い、三人はそれぞれの持ち場へ向かった。
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食っていくのがギリギリの冒険者ユリナは同じ境遇の友達3人と、先輩冒険者ジュリアから率のいい仕事に誘われる。それが罠と気づいたときには、絶対絶命のピンチに陥っていた。
もうあとがない。そのとき起死回生のスキルオーブを手に入れたはずなのにオーブは無反応。『』の中には何が入るのだ。
ギリギリの状況でユリアは瀕死の仲間のために叫ぶ。
ユリナはスキルを手に入れ、ささやかな幸せを手に入れられるのだろうか。
魅了の対価
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家庭事情により給金の高い職場を求めて転職したリンリーは、縁あってブラウンロード伯爵家の使用人になった。
彼女は伯爵家の第二子アッシュ・ブラウンロードの侍女を任された。
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淡々と世話をしてくれるリンリーに、アッシュは次第に心を開いていった。
神樹の里で暮らす創造魔法使い ~幻獣たちとののんびりライフ~
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貧乏な田舎村を追い出された少年〝シント〟は森の中をあてどなくさまよい一本の新木を発見する。
それは本当に小さな新木だったがかすかな光を帯びた不思議な木。
彼が不思議そうに新木を見つめているとそこから『私に魔法をかけてほしい』という声が聞こえた。
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同じように行き場を失った少女や幻獣や精霊、妖精たちなど様々な面々が集まり織りなすスローライフの幕開けです。
※この小説はカクヨム様でも連載しています。アルファポリス様とカクヨム様以外の場所では公開しておりません。
最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。
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高校2年の夏。
高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。
地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。
しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。
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