或いは、そんな事件(きっかけ)

冴季栄瑠

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一章

三節 徳村芽衣は落ち着かない

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 塾長に説教で呼び出される前に、タイムカードをきって退社した。
 シフトの時間を超えて勤務しても残業代は出ないのに、ただでさえ終業時刻を四十分も過ぎていたのだ。これ以上、無駄なサービス残業はしたくない。

 職場から実家までは、歩いて帰ることができる距離にある。スーパーもコンビニもない、暗くてつまらない道を十五分ほど歩かねばならないので、本当は自転車が欲しいのだが……節約と思って、諦めている。

 実家は、母が祖父母から引きついだ小さな古い一軒家だ。
 隣家との隙間が一メートルもない窮屈な宅地で、近隣住民のメンツも昔からほとんど変わっていないんじゃないかと思うが、最近では外装をリフォームする家も出てきて、新旧不揃いの街並みになりつつある。

「ただいまー……っと」

 疲れているときに、母親の小言を聴きたくない。聞こえても聞こえなくてもいい程度の音量で帰宅の挨拶を告げ、玄関をまたいだ。
 トトト、と小気味いい足音が近づいてきて、わたしの天使が顔を出す。

「ちぃ~。ただいま。今日も可愛いね、ちぃ~」

 飼い犬のマルチーズ、本名は〝ちくわぶ〟。
 かなりのおばあちゃん犬で、真っ白だった毛は黄ばんでしまっているが、それでも彼女はフワフワで温かく、優しい目をしている。外も中も敵だらけの世の中で、わたしの唯一の癒しだ。

 彼女におやつをあげようとリビングへ向かうと、中から母の声が漏れ聞こえていた。どうせ横浜の叔母と長電話でもしているのだろう。

「そうなのよ、親のすね齧ってないで、さっさと自立しろって言ってるんだけどね。東京でОLになって玉の輿に乗るんだ、なんて出ていって、行き遅れたあげくに無職で逃げ帰ってくるんだから……」

 おおっと、これはまずい話題を展開中のようで。

 このまま自室へ進路を変えようか迷ったが、いつまでも陰口を叩かれるのも癪だ。わざと大きな音をたててリビングのドアを開け、犬と自分の食糧を調達してから引き篭もることにする。
 案の定、気まずそうに黙った母親を尻目に、用を済ませてすぐ踵を返し、二階へと上がった。


 四畳半の自室に入ると、自分のテリトリーに戻ってきた気持ちになるのだが、今はなんだか部屋の狭さが身に染みて、いっそう虚しく思えた。

「ちぃ。メイちゃんはもう、生きることに疲れちゃいましたよ……」

 実家にきてから週に一度はこういう局面に遭遇する。早く出ていけ、自立しろって。一人娘のはずなのに、この扱いは何事か。

 両親はもうずっと前に離婚しているから、わたしが東京へ出てから母はこの家に一人ぼっちだった。だから、負け戦で一時撤退してきたとはいえ、娘が帰ってきて少しは賑やかになったねぇなんて喜んでくれると思っていたのに。

 昔は「楽ちん」だった実家が、年をとったら変わってしまって――。
 母はわたしのことを「恥ずかしい」と思っているのだと考えると面白くない。わたしは変わっていないのに。変わっていないから駄目なのか。

 てしてし、と前足で叩いて催促をする天使におやつを与えておいて、窮屈な上着を脱ぐ。くつろぐ準備を進めようとして、机の上に置かれた郵便物が目に入った。母が置いたのだろう。

 一通の葉書。
 前職で割と仲良くしていた契約社員の女子からの「結婚しました」報告だった。

「……ふーん」

 ちらりと目を通して、ぺいっとゴミ箱へ放つ。
 頭のどこかで、自分の行動に驚いているわたしがいた。わかってる。性格が悪すぎることくらい。他人の幸せを、今は喜べない。

 つまらなくなってしまった毎日は、いつまで続くのだろうか。
 前向きになれずに落ちぶれていく、それが怖かった。下り坂をおりるばかりの人生を、盛り返せる見込みがない。夢も希望も見えなくなってしまったから。

 それから夜中に眠りにつくまで、心の隅っこに生まれた罪悪感は消えてはくれなかった。

   *  *  *

 たいていの出来事は、一晩過ぎれば熱さを忘れる。
 昨日の騒ぎはどこへやら、この日のCOCORONも通常運営。

 塾長は所用で外出し、子どもの数も少なくて、比較的のんびりとした平穏な空気が漂っている。
 何かと問題を起こす矢澤悠馬の姿もこの日は見えない。気分を害して休んだか体調を崩したのかは知らないが、いつもこうならいいのにと思ってしまう自分は、やっぱりこの職業には向いていないに違いない。

 夕刻になり、教室の子どもの相手を別の指導員にまかせ、わたしは裏方でゴミの処理にとりかかった。各教室で出たゴミを集めて、ひたすらに分別していく。

 あと三十分で今日の子守りも終わりだ……なんてぼんやり考えていると、廊下の方でなにやら息をのむような悲鳴が。

「矢澤さん、ちょっ……どうされました……?」

 同僚指導員の焦る声を引き連れて、わたしのいる教室の方へと何者かが踏み込んでくる気配があった。
 鬼瓦……矢澤父だ。部屋の入口に立った男が、ギロリとこちらを見据えた。

(え? 何。討ち入り?)

 男はわたしと目が合うと、こちらへ大股で踏み出し、ズンズンと一直線に向かってくる。
 突然の出来事に頭も体もついていかず、中腰でゴミ袋の口を縛りかけた格好のまま、硬直するわたし。そして迫る大男。

 突進する大猪のような勢いに、恐怖を感じた。殴られるのか。
 男が、わずかな距離に迫った。押し寄せる圧に鳥肌が立つ。

「……いやあぁ!」

 と、とっさに腕で顔をかばい、悲鳴を上げる寸前――。
 男は、わたしの前に膝をついた。刺すようだった圧力が、ふっと途絶える。

「先生……申し訳ありませんでした!」

「……え?」

 押し殺したように低い、男の声。水を打ったような静けさがあたりに漂う。
 何が起こったのかまったくわからずにいると、男は頭を下げ、土下座の体勢をとった。

「昨日は失礼なことを言ってしまい。どうお詫びしたらいいか」

「は?」

「本当に、申し訳ない」

 隣の部屋から、心配そうに同僚が覗いている。子どもたちも、何事かと顔を出した。

「あの……何が何だか……。と、とりあえず顔を上げてください」

 大男、もとい矢澤父は、おもむろに上半身をおこし、懐に手を入れた。
 一瞬、刃物か鉄砲が出てくる様を想像してしまったが、矢澤父が差し出したものは意外なもので――。

 それは昨日、COCORONに通う子どもの一人が盗まれたと訴えた、小さな工作物だった。

 後ろを見ると、しょんぼりと俯いた矢澤悠馬が、父の斜め後ろあたりで所在なさげに立っている。今日は悠馬は休みだったはずだが、どうやら今、父と一緒に連れてこられたらしい。
 その強面の父がぐるりと振り向いたので、悠馬はびくりと体を震わせた。

「悠馬。おまえも謝りなさい」

「……」

「悠馬!」

 ビリビリと空気が震えた。いちいち迫力ありすぎなんですよ、貴方。

 悠馬は口を尖らせ、とぼとぼと父の横に歩み出てくる。少し腫れた目でちらりとわたしを見上げ、わずかに震える声で呟いた。

「……ごめんなさい……」
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