或いは、そんな事件(きっかけ)

冴季栄瑠

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一章

二節 矢澤恭介の不機嫌

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 もう十九時近くになっているだろうか。

 六月に入り、曇天の日が続いている。今は雨こそ降っていなかったが、悠馬の手を引き歩く街並みは、いつもより暗く見えた。

 託児所から自宅まで徒歩約十分の距離。悠馬の歩くペースに合わせると二十分ほどかかる。
 晩飯はロールキャベツにしようと思っていたが、下ごしらえが何もできていない。もっと短時間で作れるものにしなければ、悠馬の就寝が遅くなってしまう。

(話の通じない指導員のせいで――)

 苛立つ気持ちがあり、いつの間にか歩く速度が速くなっていたらしい。悠馬がつまずいて転びそうになったので、慌てて歩調を緩めた。

「腹減ったか」

「ん、あんまり……」

 落ち込んでいるのか、期待した内容の答えは返ってこなかった。
 晩飯どころではないのかもしれない。名指しで盗人扱いされたなら、子どもだってショックを覚えることだろう。
 悠馬は顔をあげ、小首をかしげながら言った。

きょうちゃん、ほっぺた怪我してる」

「ああ、これな……」

 今日こしらえたばかりの、浅いひっかき傷。腹が減るとフラリと店に現れる、黒い毛並みの可愛いヤツの仕業だ。

「また、にぼしタダ取りされたの?〝ぽんず〟に」

「今日こそはいけると思ったんだが」

「ぽんずは触られるの嫌いだから、抱っこするのは難しいよ。懲りないなぁ、恭ちゃんは」

 託児所から家までの帰り道は、悠馬とふたりだけで語り合える良い機会だ。学校で受けた授業の話、友人の話、COCORONの話、近所の猫の話……。
 いつもの空気が戻ってきて、攻撃的だった気分が少し和らいだ。

 悠馬は小学二年生。学校併設の学童保育は人数制限を超えていて、ケアが行き届かないなど評判が悪く、預ける気にはなれなかった。代わりに託児スペースを提供してくれるCOCORONには、感謝している。

 子どもを預ければ店を長く開けておけるし、内職もできる。悠馬にしても、放課後に家でゲームばかりしているよりは、体を動かし友達と遊び学べる環境にいたほうが社会勉強になるはずだ。

 しかし子どもとはいえ小学生ともなれば、悪知恵や、欲も出てくる。取った取られたの諍いが生まれるのはわかるが、まさかうちの子が盗難事件の犯人扱いをされるとは。

 それに徳村とかいう、あの指導員。
 聞くところによると、悠馬のことばかり頭ごなしに叱り、睨みつけてくるという。以前にも「指導員によく怒鳴られる」と悠馬から聞いて、気にはなっていたのだ。もし悠馬が辛い目にあうようなら、退塾も考えなければならないかもしれない。

 ウォン! ウォン!
 通りがかった家の番犬が、門扉の向こうで鎖をガシャガシャ鳴らして吠えている。

 また少し、苛立ちがぶり返した。
 まぁ、自分も少し、頭に血がのぼってしまい、大人げなかった気もするが……。

「悠馬。今日のことだが、友達の持ち物を盗むのは、悪いことだってわかってるよな」

 犬にあっかんべぇをして刺激していた悠馬だが、動作をやめて、うつむいた。

「……オレ、あんなもの欲しくないし」

「そうか」

 それなら、もう何も言うまい。

「悠馬。何か困ったことがあったら、頼っていいんだからな」

「……うん」

 それからしばらく歩いて、家まであと五分というところ。
 引いている手が、ふと重くなった。
 見ると、歩きながらウトウトと首を前後に揺らしている。子どもとは器用なものだ。

 前にしゃがみこむと、何も言わず、倒れ込むように背中におぶさってきた。
 悠馬を背負い歩きだすと、小さな手が頬の傷をゆるゆると撫でてくる。
 くすぐったかったが、そのままにしておくと程なくして力が抜け、弾力のある手がぽとりと肩に垂れた。どうやら眠ってしまったらしい。

 なぜだろう。この心地よい重みを感じるたび、むずがゆいような不思議な感覚と、言い知れぬ後ろめたさが沸き上がる。

 自分には子どもを育てるノウハウも、自信もない。不安をあげればきりがないのに、この時が永遠に続けばいいのにとも思う。

 自分たちは正しい方向へ進んでいるのか。
 家までもう少しだというのに、街灯がところどころ、切れている。なんだか妙に、足元が心もとなかった。


 帰宅して、ロールキャベツにするはずだった挽き肉を使い、悠馬が好きなハンバーグを作ることにした。
 食欲はないと言っていたが、晩飯後にはぺろりと平らげられた皿を見て、悦に入る。

 食事を終えてから悠馬を風呂に入らせ、食器洗いを済ませて、いつもの内職にとりかかる。
 その前に――そういえば、まだ連絡帳を確認していなかった。体操着や給食着など、洗わねばならないものはないのかと気になって、悠馬のランドセルとサブバッグを開け――。

 体操着入れの袋に無理やり押し込まれた、マストの折れた帆船模型を見つけて、頭の中が文字通り〝真っ白〟になったのだった。
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