或いは、そんな事件(きっかけ)

冴季栄瑠

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二章

六節 矢澤恭介は安堵する

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 ガード下や空き地、死角になりそうな建物の陰などを覗きこんでは、自宅と交番の道筋を行ったり来たり――。

 秒で取った携帯電話から、悠馬が見つかったと報告を受けた瞬間、安堵で膝が崩れそうになった。
 徳村先生が、悠馬を見つけてくれたらしい。へたっている場合ではないと両ひざを掌で叩き、河原へと走った。

 土手沿いを目で探しながら橋の方へ向かっていくと、斜面に大小の影がふたつ、外灯に照らされて並んでいるのが見えた。

「悠馬……!」
 駆け寄って、悠馬の前にしゃがみ込み、彼の両肩に手を置いた。あちらは怒られると思ったのか、身をすくめている。

 息が切れて声が出ないせいもあったが、かける言葉が見つからない。
 こんな真っ暗な中、小さな子どもが家を出てひとりぼっちで……。
 普通なら、怖いだろうし寂しいだろう。それなのに、そうさせてしまう環境にしているのは、頼りない伯父である自分だ。

 悠馬は時折り、現実から逃げるように姿を隠す。
 けれどその度に、警察や近所の人に世話をかけ、託児所の先生にまで迷惑をかけてしまっている……ここは悠馬を叱るべきなのだろうが。

「……先生、ご迷惑をかけてすみません」
 この場をごまかそうとする狡さが顔に出ていたのかもしれない。こちらを見る徳村先生の目には、怒りが滲んでいた。

 徳村先生は、言った。

「矢澤さん。このままでいいんですか」
「は」
「悠馬くんのこと。……ちゃんと守ってあげるべきなんじゃないですか」

 守る。何から。

 どうしたら守れるんですか。
 あいつは悠馬の実の母親で、悠馬自身も懐いてる。あんな母親でも、会いたいか、と問いかければ悠馬は「会いたい」と答える。会わせるたびに、何かを奪っていくような母親なのに……。

 罰にしては、短い沈黙。
 まっすぐに見つめてくる先生の目には、もう怒りの色はなかった。

「わたしは親でもないし、子どももいないから、こんなこと言う資格はないかもしれませんが……あなたが悠馬くんの『お父さん』になってあげたらいいんじゃないんですか?」

 先生の言葉は、静かに夜の闇に溶けていった。

 不思議な気持ちで先生を見上げ、そして悠馬に視線を戻したら、ばっちりと目が合った。
 まん丸の瞳に吸い寄せられるように、じっと視線を交わす。

 甥っ子の小さな肩を抱き寄せると、わきの下あたりに遠慮がちに小さな手が置かれたのがわかる。

「悠馬……ごめんな」

「なにが? ……センセーってば、おかしいね。恭ちゃんはオジサンで、お父さんじゃないのに」

 無邪気な表情が、たまらなく愛しくなった。

 父親、母親、伯父。
 血縁とは何なんだろう。自分は何を迷っていたんだろう。
 小さな子が苦しみ、陰で泣いているのを見てきたはずなのに。今もまだ、苦しみ続けているのに、これからも目を逸らしていくのか。

「いや……恭ちゃんは、悠馬の父さんになろうと思う。悠馬の本当の母さんと父さん以上の、いい父さんになるよ。厳しいかもしれないけどな」

「? ……えー? どういうこと?」

「だから、何でも言ってくれ。不安にならなくていい。頼りないかもしれんが、努力する。だから……だから、もう」

「……恭ちゃん、泣いてるの?」
「おじちゃんを、おまえの父さんに、してくれないか」

 鼻の奥がつんとして、目の奥も熱くなった。顔を埋めようにも、悠馬の体が小さすぎて、隠せないではないか。

 つられたのか、悠馬の体が震え出し、やがて耳元で声をあげて泣き出した。
 それはまるで火がついたようで、悠馬がもっとずっと小さかった頃を思いだした。泣き方は、昔と変わっていない。

 しばらく愛し子の背を撫でて――徳村先生が側にいることを思いだした。

 人間は――女性は、こんなにも穏やかに笑えるものなんだな。
 そして、誰かに見守られていることは、心強く、温かい。
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