獣の楽園

平野耕一郎

文字の大きさ
12 / 28
第一章 七川蒔

10

しおりを挟む
 下手すれば降格や左遷されてしまう。いや風紀を乱したことでクビもあり得るかもしれない。でも誰がこんな記事をマスコミにリークしたのだろう。蒔は頭を抱えた。

「少しよろしくて?」

 おしとやかな口調が頭上で聞こえてきた。

「なによ?」

 こんなときに話しかけるなんて何て無遠慮と顔を上げると思いがけない人物がいた。

 園田耀。綾の秘書を務める。社長室秘書課の課長を務めており、綾や蒔の会社の同期であり、高校生時代の同級生だ。

「お時間ございますか?」

 耀が訪れるのは事態として綾が感知しているわけだ。断るわけにはいかない。

 フロアを出るとひそひそとささやく声がする。こんな屈辱は初めてだ。自分の家とばかりに思ったオフィスが歩きづらいものになるなんてこれほどの屈辱はあるだろうか。

 蒔は十三階の空いている会議室に連れて来られた。蒔は次期役員の候補なので顔はばれている。廊下、エレベーターで会った社員とは目を合わせないようする。

「人事部預かり?」

開口一番に耀の言葉に蒔はあ然とした。力がふっと抜けている感覚がした。

 蒔は意味を理解していた。いわゆる窓際部署に辺り、会社が不要と判断した社員を留め置き、自然と依願退職するように促す部署である。

「冗談じゃ。何で私が……」

「そうムキになるものではありませんわ」

「耀さん。あなた、私がどれだけ綾さんに尽くしてきたか……」

 まさかこんなことで辞めろというのか。視界が真っ暗になった。ここを辞めて他にどこに行けばいいのだろう。蒔にとって鮫島エステハウスは最高の職場なのだ。

「少し当日の状況を教えて下さいますか?」

 秘書課は社長の綾直下の部署であり、影の人事と言われている。社員の経歴などは全て握っている。

 蒔は当日の酒席でのやり取りを詳らかには話す。大和建設の部長笹川に飲まされ、断り切れずホテルに連れ込まれた。そこでの屈辱的な行為も話した。

 どうしてこんなことが……

 隠し事はできない。秘書課のさじ加減で蒔は爪弾きにされかねない。綾に嘘なんて付けるはずがない。

「でも酒を進めてきたのは向こうなのよ! 仕方ないじゃない? 

それに私……」

 相手が既婚者であることも知らないし、ホテルでの一件も相手側が恣意的に連れ込んだのだ。蒔は被害者なのだ。糾弾される謂れはない。

「どうか落ち着いてくださいませ」

 耀はゆったりとした口調で蒔をなだめる。

「落ち着けるわけ……」

 蒔が人事部預かりとなっている中、誰が長となり仕切るのだろう。

部長としての業務を誰かが引き継ぐことになる。

「私の代わりはどうなります?」

「しばらく部長の座は空席とし、しばらく代理を立てる予定になるかと思います。いずれ人事部より辞令を出すよう言いますわ」

「ね、三月の役員の選出は……」

 耀は無言になる。もはや言うまでもないわけだ。その無情な反応に蒔はボロボロと涙があふれ出る。恵が次の役員になる。自分があんな女の下になる。

「なんで、こんなこと……」

 ただの接待でのやり取りがこんな風にすっぱ抜かれるなんて。いつだって自分の努力は報われない。周りは部長という地位になってちやほやしてくれるが、裏ではえげつない悪口が吐かれている。

 ぼろぼろと涙がこぼれた。学生時代から嫌なことは星の数ほど経験してきた。それでも乗り越えてきたのに。こんなところで終わりたくない。

「私、今日まで頑張ったわ……」

「もちろん。悲しい顔しないで」

 差し出された赤いハンカチはあっという間にぐしょぐしょになっていく。

「耀さんは学生時代に私がどんな扱い受けてきたかご存じのはず」

 一部の女子グループによる嫌がらせ。あまりの過激な仕打ちに一度は死のうかと思った。でも救いの手を差し伸べてくれたのが綾だ。耀も横で見ていたはずだ。

「苦労した人は必ず救われるわ。だから死んではだめよ」

 泣きわめく蒔の頬に綾の手が触れる。諭す綾の姿は女神そのものだった。蒔はこの日から綾に忠誠を誓う。綾のために人生をささげる。生きる目的ができた。

 尊敬できる最高の人の下で働きたく、蒔は鮫島エステハウスに入社した。労働環境は悪く、同期がやめていく中で蒔はめげずにここまで来た。

 今までどれほど自分が辛酸を舐めてきたか思い返していた。何一つだっておかしなことはしていない。

 たかだか一回の気の迷い、自分の弱さのせいで人生を棒に振りたくなかった。そのためにはプライドは捨てて誰にでも縋るつもりだ。

「少しの間の辛抱と思って。時期に辞令が出ますわ」

「お願い、綾さんに私を見捨てないように言って!」

 耀が今は頼みだ。自分は試されている。綾は常に人を試す。ベストを尽くすよう求めている。

「どんなことでもするから」

「会社には蒔さんのような高い志を持った方が必要なのはわかっています。それは社長もよくご存じでしょう。ですが、昨今はコンプライアンスが大変厳しい時代です。ご理解頂けるでしょうか?」

 何があっても望んだものは手に入れてきた。

「わかった。でも私、あきらめないわよ」

 二月十四日付け。以下の辞令が出た。

『異動通知 営業本部営業第一部 七川蒔 対象者は客先との宴会の場で泥酔し客先社員と不埒な行いをして会社の信頼を損ねてしまったため、人事部人事課付に異動とする』
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

せんせいとおばさん

悠生ゆう
恋愛
創作百合 樹梨は小学校の教師をしている。今年になりはじめてクラス担任を持つことになった。毎日張り詰めている中、クラスの児童の流里が怪我をした。母親に連絡をしたところ、引き取りに現れたのは流里の叔母のすみ枝だった。樹梨は、飄々としたすみ枝に惹かれていく。 ※学校の先生のお仕事の実情は知りませんので、間違っている部分がっあたらすみません。

処理中です...