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第一章 七川蒔
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人事課付は閑職というべき部署だ。出社する必要もなく在宅で出退勤の連絡をして、あとは自習という流れになる。給料も夏の改定でこのままでは半減してしまう。
何なのよ、どうして自分が……
酒を進めてきたのはあくまでも向こうなのに。そのあとにどんな状況に自分が追い込まれたのか分かっているのだろうか。
中年男の体臭に乗りかかり、どんな屈辱を受けたと思っている。悔しいというのが最初に出てきた感情だ。
蒔は個の感情を捨て、部下がつかんだ契約を取った。おかげで役員の道が開かれたと勝利を確信したときだ。奈落の底に落とされた瞬間だ。
でもここで終わるわけにはいかない。部長のポストは空いている。半年、ないし一年の我慢だと蒔はにらんでいる。
買い物の帰りに郵便受けの中を見る。
会社から送られてきた一通の白い封筒が郵便受けに置かれていた。厚さはあまりない。開けてみて四つ折りになった便箋を開ける。
『懲戒解雇通知 人事部人事課 七川蒔 貴殿は会社の売り上げを着服し不正に利益を得たことにより会社の信頼を損ねてしまったことにより懲戒解雇とする 以上』
便箋がヒラリと蒔の手からこぼれた。
馬鹿な……
こんな唐突に一体どうして?
蒔は机に置いてあったスマホをひったくるように手に取る。誰に
電話をかければいい? ずらりと並んだ電話帳の名簿を見て悩んだ。
訳が分からない。誰ならわかるだろう。
まずは耀だろう。なぜこんなことになったのか聞く必要がある。
園田耀の電話が鳴り響く。つながったと思い、語り掛けるとプツンと切れてしまう。
蒔の焦りが増す。どうして出ないのよ!
次だ……
「はい?」
蒔は後輩で信用している下田真奈美にかける。自分が目にかけていた子だ。
「もしもし真奈美ちゃん? 蒔だけど」
「あ……」
「待って切らないで。話を聞いて」
「はい。何ですか?」
「私のところに解雇の通知が来たの。あなた何か知らない?」
真由美はとたんに無言になる。
「どんな些細なことでもいいのよ。何か知っていることない?」
「あの先輩……そろそろ営業の時間なので……」
これ以上引き留めてもかわいそうだ。
「分かった。何かあれば連絡して」
次だ。でも片端から掛けたら変に思われる。
ならば。思い切って綾にかけてみるのはどうだろう?
すべての辞令の最終承認者は社長である鮫島綾その人だ。綾にかける電話がこれほどまでに緊張するのは初めてになる。
プルルル……
切れる。もう一度。綾が寝ているなら起きるまでかけ続ける。
唯一の生命線だ。何度だってかけてやる。
プルルル……
切れる。まだだ。
プルルル……
プルルル……
そう何度もかけなおす中でついに綾の声が聞こえてきた。欠伸が聞こえてきたので寝起きだったようだ。
「うるさいわね。何なのよもう……」
「綾さん! つながった! よかった!」
「なあに。騒々しい人は嫌いよ」
「ごめんなさい。どうしても聞きたいことがあるの」
「仕方ないわね」
「あのね、会社から懲戒解雇の通知が来たわ。何が起こっているの?」
「懲戒? そうなの? ふふ、やばいわね? 退職金は出ないし、次の転職先できちんと書かないといけないし。そんなやらかした人を取ってくれるわけないし、大変ねえ」
綾はまるで他人事のように口調で、むしろ楽しんでいる。蒔は上司であり親友である綾の態度に驚かざるを得なかった。
「なんでよ? 私……」
「あなた、一体いくら会社のお金を着服したと思っているの? つい最近よ。ありがたいことに内部通報があって、調べたら色々出てきているわ。裏取りもきちんとあるし、会社としては当然の処置だわ」
「だって……」
「当たり前じゃないの。そんなことが世間に露見したらやばいじゃない? 期待していたのに残念だわ。さすがに私も庇いきれない。そういうことだから。わかった?」
「でもお金は!」
蒔は必死に声を上げる。
「あなたの不適切な行動でうちの株が下がっているのよ? どうしてくれるつもりなの? おかげでお父様がカンカン。損失はきちんと補填してもらうから、そのつもりで」
綾はさらさらとした言葉を用いて真綿で首を締めるように蒔を追い詰めていく。弁解の余地もない。先日の大和建設との契約により新店舗を出したが、あのときの売り上げも当然のように蒔は自分の口座に着服していた。
発生した売り上げの一部を手元に収めているのは会社の慣例だった。多くの社員が自らの売り上げを将来の出資金として上司に献上することで皆出世してきたのだ。自分だけが糾弾されて矢面に立たされる謂れはない。
「皆、綾さんに献金していたわ。どうして?」
「さあね。お願いしたわけじゃないし。少し迷惑していたのよ。お金なんて興味ないのに。貢物ばかりで嫌になっちゃう」
綾にどれほど尽くしてきただろう。有り金の大半を貢いでいたと思う。なのに、あまりの仕打ちではないか。
まるで使い捨てのボロ雑巾のように捨てられる。綾が酷いことを自分に対してするはずはない。でも実際は行われている。
「ふふ、それで? 私に何をさせたいの?」
蒔は言葉を詰まる。
「いいの? 黙っていたら切るけど」
「いや! 待って! お願い!」
「何で私が待たないといけないの?」
電話越しに聞こえてきた声は無情なまでに冷酷だった。
「本当に。切らないで。お願いします」
「お願いされちゃったな。もう少しだけ付き合ってあげる」
「私、頑張るわ……」
「頑張る? 何を?」
「私、綾さんのためならどんなことでもするから! 役員、ううん社長になって、鮫島エステハウスを大きくするわ! 私もっと頑張るから。だからお願い!」
苦しいとき、蒔は必死に綾に縋った。無力な自分に手を差し伸べてくれたのは綾だ。今回だって……
「あははは!」
電話越しからけたたましい綾の笑い声が聞こえてきた。
「どうしたの?」
「いや、だって……ぶっ。必死に電話してきたかと思ったら……頑張るって。今の電話のこと、皆に言ってもいい?」
「待って。何で……」
どうして綾が笑うのかわからない。
「頑張るって。あなたって小学生? あなたなんかを社長にしたら潰れちゃうわよ。冗談も休み休みに言いなさい」
嘘だ。綾は社長室に呼び出して蒔を椅子に座らせこう言っていた。
「優秀なあなたを社長にして私は伊豆の別荘でのんびり暮らしたいわ」
うっとりするようなお金持ちの品のある言葉だ。でもどこか疲れたようなもの悲しさがあった。人生を悲観した顔を綾は浮かべていた。ちょうど三年前。社長になり立てで、ナイーブになっていた。蒔は綾の夢を叶えるべく仕事に埋没した。
別荘でのひとときは代えがたい思い出だった。蒔は綾と手をつないだ。
二人だけの世界。選ばれた者同士の会話。この世に二つとない理想の楽園。頭の中に思い描き大事にしてきたキャンバス。
思い出をいつも夢想してきたからこそ蒔はがむしゃらなまでに頑張れた。
楽園がガラガラと崩壊していく。
「だってあの時……」
「ふふ、お馬鹿さんね。はい、あなたはここでおしまい。着服したお金は返してよね? まさか使い倒していたりしていないわよね? 経理に聞いたけど莫大な額になるわよ。じゃあね~」
何なのよ、どうして自分が……
酒を進めてきたのはあくまでも向こうなのに。そのあとにどんな状況に自分が追い込まれたのか分かっているのだろうか。
中年男の体臭に乗りかかり、どんな屈辱を受けたと思っている。悔しいというのが最初に出てきた感情だ。
蒔は個の感情を捨て、部下がつかんだ契約を取った。おかげで役員の道が開かれたと勝利を確信したときだ。奈落の底に落とされた瞬間だ。
でもここで終わるわけにはいかない。部長のポストは空いている。半年、ないし一年の我慢だと蒔はにらんでいる。
買い物の帰りに郵便受けの中を見る。
会社から送られてきた一通の白い封筒が郵便受けに置かれていた。厚さはあまりない。開けてみて四つ折りになった便箋を開ける。
『懲戒解雇通知 人事部人事課 七川蒔 貴殿は会社の売り上げを着服し不正に利益を得たことにより会社の信頼を損ねてしまったことにより懲戒解雇とする 以上』
便箋がヒラリと蒔の手からこぼれた。
馬鹿な……
こんな唐突に一体どうして?
蒔は机に置いてあったスマホをひったくるように手に取る。誰に
電話をかければいい? ずらりと並んだ電話帳の名簿を見て悩んだ。
訳が分からない。誰ならわかるだろう。
まずは耀だろう。なぜこんなことになったのか聞く必要がある。
園田耀の電話が鳴り響く。つながったと思い、語り掛けるとプツンと切れてしまう。
蒔の焦りが増す。どうして出ないのよ!
次だ……
「はい?」
蒔は後輩で信用している下田真奈美にかける。自分が目にかけていた子だ。
「もしもし真奈美ちゃん? 蒔だけど」
「あ……」
「待って切らないで。話を聞いて」
「はい。何ですか?」
「私のところに解雇の通知が来たの。あなた何か知らない?」
真由美はとたんに無言になる。
「どんな些細なことでもいいのよ。何か知っていることない?」
「あの先輩……そろそろ営業の時間なので……」
これ以上引き留めてもかわいそうだ。
「分かった。何かあれば連絡して」
次だ。でも片端から掛けたら変に思われる。
ならば。思い切って綾にかけてみるのはどうだろう?
すべての辞令の最終承認者は社長である鮫島綾その人だ。綾にかける電話がこれほどまでに緊張するのは初めてになる。
プルルル……
切れる。もう一度。綾が寝ているなら起きるまでかけ続ける。
唯一の生命線だ。何度だってかけてやる。
プルルル……
切れる。まだだ。
プルルル……
プルルル……
そう何度もかけなおす中でついに綾の声が聞こえてきた。欠伸が聞こえてきたので寝起きだったようだ。
「うるさいわね。何なのよもう……」
「綾さん! つながった! よかった!」
「なあに。騒々しい人は嫌いよ」
「ごめんなさい。どうしても聞きたいことがあるの」
「仕方ないわね」
「あのね、会社から懲戒解雇の通知が来たわ。何が起こっているの?」
「懲戒? そうなの? ふふ、やばいわね? 退職金は出ないし、次の転職先できちんと書かないといけないし。そんなやらかした人を取ってくれるわけないし、大変ねえ」
綾はまるで他人事のように口調で、むしろ楽しんでいる。蒔は上司であり親友である綾の態度に驚かざるを得なかった。
「なんでよ? 私……」
「あなた、一体いくら会社のお金を着服したと思っているの? つい最近よ。ありがたいことに内部通報があって、調べたら色々出てきているわ。裏取りもきちんとあるし、会社としては当然の処置だわ」
「だって……」
「当たり前じゃないの。そんなことが世間に露見したらやばいじゃない? 期待していたのに残念だわ。さすがに私も庇いきれない。そういうことだから。わかった?」
「でもお金は!」
蒔は必死に声を上げる。
「あなたの不適切な行動でうちの株が下がっているのよ? どうしてくれるつもりなの? おかげでお父様がカンカン。損失はきちんと補填してもらうから、そのつもりで」
綾はさらさらとした言葉を用いて真綿で首を締めるように蒔を追い詰めていく。弁解の余地もない。先日の大和建設との契約により新店舗を出したが、あのときの売り上げも当然のように蒔は自分の口座に着服していた。
発生した売り上げの一部を手元に収めているのは会社の慣例だった。多くの社員が自らの売り上げを将来の出資金として上司に献上することで皆出世してきたのだ。自分だけが糾弾されて矢面に立たされる謂れはない。
「皆、綾さんに献金していたわ。どうして?」
「さあね。お願いしたわけじゃないし。少し迷惑していたのよ。お金なんて興味ないのに。貢物ばかりで嫌になっちゃう」
綾にどれほど尽くしてきただろう。有り金の大半を貢いでいたと思う。なのに、あまりの仕打ちではないか。
まるで使い捨てのボロ雑巾のように捨てられる。綾が酷いことを自分に対してするはずはない。でも実際は行われている。
「ふふ、それで? 私に何をさせたいの?」
蒔は言葉を詰まる。
「いいの? 黙っていたら切るけど」
「いや! 待って! お願い!」
「何で私が待たないといけないの?」
電話越しに聞こえてきた声は無情なまでに冷酷だった。
「本当に。切らないで。お願いします」
「お願いされちゃったな。もう少しだけ付き合ってあげる」
「私、頑張るわ……」
「頑張る? 何を?」
「私、綾さんのためならどんなことでもするから! 役員、ううん社長になって、鮫島エステハウスを大きくするわ! 私もっと頑張るから。だからお願い!」
苦しいとき、蒔は必死に綾に縋った。無力な自分に手を差し伸べてくれたのは綾だ。今回だって……
「あははは!」
電話越しからけたたましい綾の笑い声が聞こえてきた。
「どうしたの?」
「いや、だって……ぶっ。必死に電話してきたかと思ったら……頑張るって。今の電話のこと、皆に言ってもいい?」
「待って。何で……」
どうして綾が笑うのかわからない。
「頑張るって。あなたって小学生? あなたなんかを社長にしたら潰れちゃうわよ。冗談も休み休みに言いなさい」
嘘だ。綾は社長室に呼び出して蒔を椅子に座らせこう言っていた。
「優秀なあなたを社長にして私は伊豆の別荘でのんびり暮らしたいわ」
うっとりするようなお金持ちの品のある言葉だ。でもどこか疲れたようなもの悲しさがあった。人生を悲観した顔を綾は浮かべていた。ちょうど三年前。社長になり立てで、ナイーブになっていた。蒔は綾の夢を叶えるべく仕事に埋没した。
別荘でのひとときは代えがたい思い出だった。蒔は綾と手をつないだ。
二人だけの世界。選ばれた者同士の会話。この世に二つとない理想の楽園。頭の中に思い描き大事にしてきたキャンバス。
思い出をいつも夢想してきたからこそ蒔はがむしゃらなまでに頑張れた。
楽園がガラガラと崩壊していく。
「だってあの時……」
「ふふ、お馬鹿さんね。はい、あなたはここでおしまい。着服したお金は返してよね? まさか使い倒していたりしていないわよね? 経理に聞いたけど莫大な額になるわよ。じゃあね~」
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