孤島に浮かぶ真実

戸笠耕一

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第一部

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 車は北へ向かって進んでいく。段々と夏には人が泳ぎに来るであろう浜辺から、ごつごつとした岩肌に風景が変わった。やがて島を半周する頃には、切り立った崖がそびえ立って島の雰囲気が違うものになった。

 道のりも急なカーブが多くなり、一種の恐怖を胸に抱くようになる。

 再度地図を見て位置を確認した。

 ここは島の左。切り立った崖があり、道がいくばか険しいのだ。

 グネグネした道のりを進むのは、ストレスのかかることだ。父の顔が渋くなり、一気に老け込んだようにみえた。厳しい場所を抜けると、民家が見え始めた。

 そこは町というより漁村と言ったほうがよかった。大小の小舟が岸にロープでつながれている。

 先ほどの砂浜があった海と別種の世界が――漁師たちの海がそこに広がっている!

 人が遊べるやんちゃな雰囲気と異なり、真剣そのものだ。やわなことじゃ近づけない空気が醸し出されていた。

 車は赤信号に差し掛かって停止した。外の横断歩道を一人の老年の男が通りかける。彼はちらっとこちらを一瞥する。

 彼はその身なりからしておそらく漁師に違いない。六十の還暦を超えたベテランの目をしていた。赤らけた皺だらけの頬、長年の風雨でボロボロになった服、そして細い目から放たれる視線は鋭い。

 妙な緊張感がこちらとあちらにあった。そこは超えてはいけない、簡単に触れることのできない、理解できない一線があった。

「何かすごい表情だったわね?」

 母が漁村を通り過ぎた後で、小さな声で言う。

「ああ、一応俺たちはまだ『よそ者』だからな」

 よそ者。その響きが重かった。会話はめっきり途切れ、自宅に着くまで誰一人話さなかった。

 私の心もいささか揺らいでいた。

 漁師の男の視線は人を寄せ付けないものを持っていた。それに父のよそ者という言葉の響きも辛辣なものがある。考えさせられるものがある。

 どこへ行っても楽しいことばかりではない。興味深かったのが場所によって島の雰囲気が違う。

 車が自宅まで戻ったとき、玄関先に訪問客の姿を目にすることができた。彼は家のインターフォンを鳴らしても出ないので、あきらめて帰ろうとしていた。

 ばったりと私たちと出くわした。

「ああ、星河先生!」

 訪問客の男は四十過ぎの中年のおじさんだった。背丈は中肉中背。油ぎった赤ら顔。少し薄い髪が風に揺られふわっとなびいていた。

「やあ、田村さんか」

 父が親しげそうに返事をした。

 母と私にとっては見知らぬ顔だったので、戸惑いの表情が浮かんでいた。

「ご家族もご到着のご様子で」

「今日着いたところですよ」

 田村と呼ばれる中年男が素早く父の後ろにいた私たち二人に目をやり、 にかっと笑った。

「田村さんだ。この家の物件情報を案内してくださった方で、ここに引っ越す際に大変お世話になったんだよ」

 ずいぶん腰が低いというか、人をおだてる素振りがある。

「田村正和と申します」

 快活なよく通る声だった。母は未だに目の前にいる人物に対し、不安を抱いて何を話していいかわからず軽く会釈だけをした。私は前に進み出てお辞儀をして挨拶をした。

「星河明美です」

「娘さんですか? いや、なかなか聡明な娘さんですね。とてもエレガントで知性を感じます。きっと先生譲りの――ああ、どうもすみません」

 田村さんはそこで言いよどむ。お世辞だ。

「はっはっ、なかなか妻子ともに気がきく二人でね。わたしときたらいつも迷惑ばかりかけてね」

 父はこういうときに決して謙遜はしない。必ず自分がいつも妻子に助けられていることを伝える。

「お休みでこちらに来ていらっしゃるの?」

 母のボソッとした声がして、空気が妙に軽くなった場に緊張をもたらした。田村さんはいったん黙って、こう答えた。

「あ、いえ。こっちに住んでいるんです。先生とお会いしたときは東京のほうで仕事がありまして」

「あらそうですの」

 そのときになって母はようやく笑みを浮かべた。

「それと先生、今日の夕方はお時間ありますか?」

「え、ああ。まあ……」

 父は田村さんがなぜそんな事を聞くのかその真意をわかりかねていた。

「いやせっかくご家族三人おそろいで、その軽い歓迎会をしたいと思いましてね」

「歓迎会?」 

「いえ、お忙しいようでしたらいいんですよ。ただ遠いところ来ていただいたので」

「あ、ああ、別に問題はありませんが――なあ問題ないよな?」

 父はいささか困った様子で母に助けを求めた。

 一連の会話のやり取りを見ていて田村さんという人は、ずいぶんおもてなし好きのようだ。物件をいくら紹介とはいえ歓迎会を催したいとは。

 彼は私たちの家のすぐ下の住人らしい。田村さんが帰った後、私たちは家に入って荷物の整理をすることにした。

「歓迎会ですって。なんか変わったというか」

 母も同じことを思っていたらしい。

「まあいいだろう。彼には個々の物件を手に入れるうえで世話になったし、歓迎してくれるなら光栄だよ」

「そうね、まだ来たばかりだし、知っている方に色々やってもらうのがいいかも」

 母はむっつりした表情に父は驚く。

「なんだ、なに怒ってんだ?」

「あなたったら勝手に決めてしまうんですもの。失礼しちゃうわ」

 私は夫婦の他愛もない会話を耳に挟みながら二階に上がった。おそらく自分の荷物は一回では運びきれない。まずは部屋を見たい。

 階段を上がって一番奥の部屋が私に与えられた空間だ。扉を開けてみる。

 一点の汚れもない白い壁は清潔感にあふれている。漆を乗った木の床はワックスがしてあって滑りやすい。何も置かれていない勉強机とまだ収納されていないタンスが部屋の隅に存在している。

 部屋はまだ空っぽだ。何も描かれていないキャンバスだった。

 もちろん部屋に私物が入って徐々に「星河明美の部屋」ができていくだろう。ただ少しの間何もない空虚な部屋で一息つきたかった。

 私はベッドに腰掛けてその感触を堪能する。肌触りによくソフトで寝心地がきっといい。船であてがわれていた安物の敷布団とは大違いだ。今すぐにでも寝入ってしまいたくなるベッドだ。

 突然、とんとんと扉をたたく音がした。母・月代が入ってきた。

「どう? 新しいお部屋は?」

「ええ、いいわ」

「そうよかったわね」

 母はにっこりと笑った。

「あのさっき言っていた歓迎会? あれはどうするの?」

「ああ、なんか七時ぐらいに、さっきの田村さんのお家でやるらしいわ。さっきお父さんと話していたけど、奥さんと明美ちゃんと同じぐらいの娘さんがいるんだって」

「へー」

 妻と娘か。自分たちとおなじじゃないか。

「疲れていると思うけど、部屋の整理だけは済ませといたら?」

「そうね」

 母はパタンと戸を閉めて出て行った。あとには静けさが残った。歓迎会か。それまでに部屋を急いで整理すれば、少し休めるかもしれない。
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