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第1章 世界の理
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焦りが自分自身の心を良からぬ方向へと導くのは、希和子は経験から学び取ってきてはいるつもりだが、抑制が効かなかった。原因は、何だか検討が付いている。 長い廊下で、幾多の人々とすれ違う。彼らにも、背負わされている何かを持っていた。使命とも義務とも言うべき何かに縛られて生きている。
希和子が近くに来ることを察すると、皆が一礼をする。当たり前のような日常。
聖女付きの侍従長が今日の一日を簡単に話している。早口だったが、すんなりと頭に入ってくる加減のいい声色。希和子は歩きながら声に耳を傾けている。
侍従長の澄んだ話を、希和子は反応を示さず、ただ聞いていた。
「陛下」
侍従長の声色が変わる。今から言うこと、何だか恐れ多いという感じの波長だった。
「はい?」
希和子は足を止め、付き人である侍従長の顔を一瞥する。苦笑という言葉がぴったりなほど引きつった顔をした丸眼鏡を掛け、髪を薄くした中肉中背の男。彼の口元が歪なまでに左右に引っ張られ、ぴくぴくと痙攣をしていた。
「恐れ多くも、陛下。私の話をそのような、半端な気持ちで聞かれては……」
「わかっています」
ぴしゃりと希和子のはっきり声が宮廷の廊下を伝わる。
侍従長は、はあとだけつぶやく。取り付く島もないといった表情になり、周囲はシーンと静まり返る。
「分かっておられるなら、良いですが……」
「今日は王が朝から謁見に来られます。その際、何を話されるのかよく存じ上げています。私と王は昵懇の間柄です。何も困る様なことや心配されるようなことはありません」
希和子の話を遮れる者はおらずに続く。まるで急流を下る川のようだ。あふれんばかりの水が押し留まることなく、押し流していた。相手の期待も、意志も。相手だけではなく、希和子自身の気持ちも抑え切れない。
「大体の流れは私にはわかっています。もう時期に諸王の会議が開かれます。多くの議題は王たちが話し合うでしょう。話の議題もわかっています。大体が、あの――」
グッと流れていたすべてが勢いを失った。何から何までしゃべってしまえ、という想いに理性が待ったをかけた。
希和子は勢いに乗ってポロリと毀れようとした感情が発した言葉が何か知っていて、口に出すのは嫌悪感を抱くものだったし、宮廷内では禁句になっていた。
名を申すにははばかれる存在。
彼の名は宮廷、いや強固な城壁の内にある聖都では口に出さない。ましては都の主として君臨する希和子が名を言ってはいけなかった。なのに、危ういところだった。
あの名前だけは決して口に出してはいけない。
あの子が、自分を揺さぶり不安に追いやる。希和子は自分が悩みや焦りを感じるときいつもそう信じていた。
朝食の儀。広い食事の間にはわずかなお供しかいない。長いテーブルの上には白いテーブルクロスがかかり、希和子の周囲にだけ豪華な朝食が並べてあった、
自分は小食だった。そうだとしても今日は食事に手を付けていなかった。さすがに全く食べないと皆が心配する。
目の前に置かれていたパンを頬張る。口に含んだとき、冷めたパンのしなびた食感を味わう。
本当に何も食べたくなかった。名前どころか存在すら忘れようとしていたのに。
忌まわしい子。今では「烈帝」と囃し立てられ、王として君臨しているあの子。彼とは自分が幼い時から接してきた。あの頃は、気に入らないことがあれば何でもほん投げ、侍女たちの世話が焼けるだけの子だった。長く宮廷に仕えているものなら知っているはずだが口には出さない。
希和子と、あの子と言われる彼がどんな関係なのかを。
彼のことを考えるだけで希和子の気分が悪くなり、沈んだ。
忘れよう――ともかく何よりここは窮屈で、退屈な世界。
希和子はちらりと周囲を眺める。広いだけで殺風景な広間。無表情に突っ立っている給仕たち。自分の食事が済むのを待つ侍女たち。彼ら――彼女らは希和子の足となり手となり動くために存在している。
宮廷を一つの生き物に例えるなら、希和子は本体で、彼女を動かすための末端が侍女であり、給仕であり、執事である。ただ指示がなければ自分達で動くことのない人々……
一方本体である彼女も自分の力だけでは何もできない。
目には見ない強固な絆が、確かに存在していた。
堅苦しい主従関係と、変えられない重い過去が希和子を暗澹たる思いにさせていた。
朝はパン一つだけだ。周りの者が心配そうな目で希和子を普段より食べないからだ。
構わない。彼らは自分の手足なのだから、本体の自分が気に止むことじゃない。そう心にもないことを思い、希和子はすぐさま恥じた。
希和子は卑劣な感情だと自分を叱責しながら、周りに対し見下した感情を抱かざるを得ない自身に苦しめられていた。
彼女は口の中の汚れを清めた。動作もしっかり決められていた。聖女である希和子の素振りは、よろしく決まっていた。
次に待っているのは、午前の謁見である。まず誰が聖女にお目通りをするのかといえば、壱ノ国の王である。
「壱ノ国」西王。世界のほぼ西側を支配する国の王であった。
統治歴は五百年余りである。王は常人とは並外れた生命力を保持していた。ゆえに不死に近い命を与えられ聖女に代わってあてがわれた農地を支配していた。聖女は単なる人々の象徴であって、人と農地とを統治し、管轄するのは王の仕事だった。
壱ノ国の首都は聖都と言われている。まさに聖女である希和子がいる都、そこを統治しているのが西王だ。
西王聖女である希和子よりずっと前からいて、七つに分かれた国々で最も優れた国家をここに建国した。
彼女のことを「諸王の王」と呼ぶほど力は絶大で、実質的な世界の覇者であった。長らく続いた戦乱の時代を終わらせ、現在の勢力図を作り上げたのだった。
七王の中で最強と言われた王が希和子の最初の相手。前の会ったのは一年以上前のことだろうか。西王は内政で忙しかった。内部にあって、遠征に出かけた軍への指令も行っていた。軍が戦っているのは、「参の国」。そうだ、あの子が支配する国だ。地獄の業火で包まれた灼熱の地だ。
また頭にあの子が出てきた。
峻険な山肌には雪がかかり白くなっている。険しい山々を超え、モクモクと立ち込める黒煙。その先にあるのは。
ぱっと鮮明に脳裏に焼き付いた過去の光景に希和子の視界がクラッと揺らぐ。
「陛下!」
おつきの者数名が希和子のそばによる。
「ご大事ありませんか?――ほれ、医者を!」
慌ただしく侍女の一人が駆けだす。皆の顔に動揺が走った。
「平気よ……」
「陛下、あちらで少し横に」
「本当に大丈夫なの」
希和子は気丈に振る舞おうとした。
気高き謁見の間の扉がギイイと開いていく。朝日が隙間から差し込む。やがて開き切ったその先に姿を見つけだすことができた。
漆黒の長髪、すらりと伸びた脚と腕。きらびやかな衣装を身につけた女性が左右に従者を付けて立ち尽くしている。
西王であった。
希和子も同様に位の高い者二名を腰につけて、謁見の間に入る。
彼女が座るべき席は段の上にあった。金の色をした段を徐に上り詰める。
何もない部屋だ。
部屋の中央に拝謁者が座る椅子が置かれてあるだけの空間だ。上から見下ろす位置にいる自分。太陽が差し込み、床に自分と王の影が部屋の端まで伸びていた。
聖女である希和子が座ると、王もまた座る。
妙な光景だ。単なるシンボルに過ぎない存在が実力者を見下ろすのだから……
「お久しぶりですね」
希和子は、毅然とした声で王に語りかける。
「ええ、陛下。お久しゅうございますね」
「何かと変わりはありませんか?」
仰々しい作法だった。
聖女はすでに権限を王に委ねている身だ。彼女が会って指図する必要はない。
希和子はスッと立ち上がり段を下り王の元へ向かった。双方の従者の顔に戸惑いの色が浮かんだ。
密な話をするには、これしかない。
「王とは大事な話があります。少し外してもらえますか?」
従者は互いに目を合わせどうすればいいのか迷っていた。やがて視線を王に合わせることで指示を待つ。
王は手で自身の従者に外すよう指図する。こうして謁見の間には、王と聖女しかいなくなった。
二人きりになったとき、希和子は朗らかに笑う。親しいものにしか見せない表情である。今まで固く引き締められていた相好が崩れ、彼女の心には安堵があった。
王もまた同じように笑みをこぼす。希和子もつられてクスクス笑い始め、静かになる。
「元気そうで」王が言った。
「みんなうるさくて困っているの。それに、あの付き人たちときたら」
希和子がはあと大げさにため息をつく。
「来月になれば、陛下にしか出来ない大事な責務が待っております。それまで、ゆるりとなさいませ。陛下にお仕えするのが彼らの責務。どうかご容赦なさいませ」
「堅苦しいことはいいのよ」
希和子は自身の第一の臣下であり、姉のように支えてくれる西王に話を聞いてほしかったのだ。王は屈託のない笑みを浮かべ、ええと自然な調子に相槌を打った。他愛もない愚痴や退屈な宮廷内での生活の不満を聞いていた。
「心中お察し致しますわ」
昨年成人の儀を行い、正式に聖女として宮廷生活を始めた希和子にとって、何の味気ない日々であろう。
聖女の臣下として守り、ときに姉として心の支えとなり、ときに諫める母でもある西王・萌希にとって、希和子の心の内は気がかりなことだ。
実に彼女と会ったのは一年ぶりだ。積もる話はあるが、団らんに浸っている暇はなかった。
世は実に緊迫している。宮廷内で、あるいは外で、はたまた都の端々で、隣国は、安定しているとは言い難い状況だ。
王としてというより、家族の問題として大事な話を申し上げますと言った。
希和子の顔に、緊張が走る。雑談でほぐれた顔がまたきりっと引き締まった。本来の話の主筋はそこにある。
「単刀直入に言いますわ」
りりしい王のまなざしが希和子の心を射抜く。
「参の王と戦争状態にこれは王による私戦ではなりません。不当な攻撃による防衛――いわゆる聖戦です」
しばらく沈黙が続いた。戦争、その二文字を聞いて希和子の心は動揺する。
「でも、王の会議が、会議が今度あるでしょう!」
希和子の声は裏返る。人々の平和と希望の体現者である聖女にとって戦争はあってはならない。
「ええ、そこは恐らく……」
話し合いの場ではなく、単なる開戦の手続きとなる。
「私は戦争には反対です」
「分かっておりますとも」
西王はうつむいた。
「私の一存だけでは」
「なら私からの意向を王の会議で言ってください」
「陛下にお話ししたのは間違いでしたわ。余計な――」
「そんなことはありません!」
希和子は叫ぶ。自分が王に権限を預け、ただ君臨している張りぼてになどなりたくない。
「ただ、その……ええ、ええ分かっています。あなたは聖紙が欲しい。戦いの口実をもらうべく……」
「問題はこちら側ではなく。もちろん、一時的なもので構いませんわ。私は彼らにお灸を添えたいだけです」
希和子は考えあぐね決断した。
「わかりました。差し上げましょう。すぐに直ちに」
原因は参の王と、彼に追随する四ノ国王にもあると言って、詳細を少しずつ話した。
話を聞いて希和子は、納得してしまう。やがて最後には諦めた顔になる。やはりそうか。彼女は得心した。
たとえ誠意を尽くしても、受け取る方が突っぱねてはどうしようもない。特に、あの子の気質なら。希和子は朝から患っていたものに、引きずられ続けていることに何も言えなくなってしまう。
「これは確かな情報ですわ」
王は聖女の傍に寄りひそひそと耳打ちをする。
「陛下の身の周りに密偵がいます。恐らく東の」
希和子の体は危機を察知した小動物のようにピクッと身震いをした。ただならぬ恐怖が近くにあることを知った。
「ぜひご警戒を」
時間だ。主である聖女に対する王の責務は果たされた。従者を再び中に入れ、謁見を終えた。
希和子が近くに来ることを察すると、皆が一礼をする。当たり前のような日常。
聖女付きの侍従長が今日の一日を簡単に話している。早口だったが、すんなりと頭に入ってくる加減のいい声色。希和子は歩きながら声に耳を傾けている。
侍従長の澄んだ話を、希和子は反応を示さず、ただ聞いていた。
「陛下」
侍従長の声色が変わる。今から言うこと、何だか恐れ多いという感じの波長だった。
「はい?」
希和子は足を止め、付き人である侍従長の顔を一瞥する。苦笑という言葉がぴったりなほど引きつった顔をした丸眼鏡を掛け、髪を薄くした中肉中背の男。彼の口元が歪なまでに左右に引っ張られ、ぴくぴくと痙攣をしていた。
「恐れ多くも、陛下。私の話をそのような、半端な気持ちで聞かれては……」
「わかっています」
ぴしゃりと希和子のはっきり声が宮廷の廊下を伝わる。
侍従長は、はあとだけつぶやく。取り付く島もないといった表情になり、周囲はシーンと静まり返る。
「分かっておられるなら、良いですが……」
「今日は王が朝から謁見に来られます。その際、何を話されるのかよく存じ上げています。私と王は昵懇の間柄です。何も困る様なことや心配されるようなことはありません」
希和子の話を遮れる者はおらずに続く。まるで急流を下る川のようだ。あふれんばかりの水が押し留まることなく、押し流していた。相手の期待も、意志も。相手だけではなく、希和子自身の気持ちも抑え切れない。
「大体の流れは私にはわかっています。もう時期に諸王の会議が開かれます。多くの議題は王たちが話し合うでしょう。話の議題もわかっています。大体が、あの――」
グッと流れていたすべてが勢いを失った。何から何までしゃべってしまえ、という想いに理性が待ったをかけた。
希和子は勢いに乗ってポロリと毀れようとした感情が発した言葉が何か知っていて、口に出すのは嫌悪感を抱くものだったし、宮廷内では禁句になっていた。
名を申すにははばかれる存在。
彼の名は宮廷、いや強固な城壁の内にある聖都では口に出さない。ましては都の主として君臨する希和子が名を言ってはいけなかった。なのに、危ういところだった。
あの名前だけは決して口に出してはいけない。
あの子が、自分を揺さぶり不安に追いやる。希和子は自分が悩みや焦りを感じるときいつもそう信じていた。
朝食の儀。広い食事の間にはわずかなお供しかいない。長いテーブルの上には白いテーブルクロスがかかり、希和子の周囲にだけ豪華な朝食が並べてあった、
自分は小食だった。そうだとしても今日は食事に手を付けていなかった。さすがに全く食べないと皆が心配する。
目の前に置かれていたパンを頬張る。口に含んだとき、冷めたパンのしなびた食感を味わう。
本当に何も食べたくなかった。名前どころか存在すら忘れようとしていたのに。
忌まわしい子。今では「烈帝」と囃し立てられ、王として君臨しているあの子。彼とは自分が幼い時から接してきた。あの頃は、気に入らないことがあれば何でもほん投げ、侍女たちの世話が焼けるだけの子だった。長く宮廷に仕えているものなら知っているはずだが口には出さない。
希和子と、あの子と言われる彼がどんな関係なのかを。
彼のことを考えるだけで希和子の気分が悪くなり、沈んだ。
忘れよう――ともかく何よりここは窮屈で、退屈な世界。
希和子はちらりと周囲を眺める。広いだけで殺風景な広間。無表情に突っ立っている給仕たち。自分の食事が済むのを待つ侍女たち。彼ら――彼女らは希和子の足となり手となり動くために存在している。
宮廷を一つの生き物に例えるなら、希和子は本体で、彼女を動かすための末端が侍女であり、給仕であり、執事である。ただ指示がなければ自分達で動くことのない人々……
一方本体である彼女も自分の力だけでは何もできない。
目には見ない強固な絆が、確かに存在していた。
堅苦しい主従関係と、変えられない重い過去が希和子を暗澹たる思いにさせていた。
朝はパン一つだけだ。周りの者が心配そうな目で希和子を普段より食べないからだ。
構わない。彼らは自分の手足なのだから、本体の自分が気に止むことじゃない。そう心にもないことを思い、希和子はすぐさま恥じた。
希和子は卑劣な感情だと自分を叱責しながら、周りに対し見下した感情を抱かざるを得ない自身に苦しめられていた。
彼女は口の中の汚れを清めた。動作もしっかり決められていた。聖女である希和子の素振りは、よろしく決まっていた。
次に待っているのは、午前の謁見である。まず誰が聖女にお目通りをするのかといえば、壱ノ国の王である。
「壱ノ国」西王。世界のほぼ西側を支配する国の王であった。
統治歴は五百年余りである。王は常人とは並外れた生命力を保持していた。ゆえに不死に近い命を与えられ聖女に代わってあてがわれた農地を支配していた。聖女は単なる人々の象徴であって、人と農地とを統治し、管轄するのは王の仕事だった。
壱ノ国の首都は聖都と言われている。まさに聖女である希和子がいる都、そこを統治しているのが西王だ。
西王聖女である希和子よりずっと前からいて、七つに分かれた国々で最も優れた国家をここに建国した。
彼女のことを「諸王の王」と呼ぶほど力は絶大で、実質的な世界の覇者であった。長らく続いた戦乱の時代を終わらせ、現在の勢力図を作り上げたのだった。
七王の中で最強と言われた王が希和子の最初の相手。前の会ったのは一年以上前のことだろうか。西王は内政で忙しかった。内部にあって、遠征に出かけた軍への指令も行っていた。軍が戦っているのは、「参の国」。そうだ、あの子が支配する国だ。地獄の業火で包まれた灼熱の地だ。
また頭にあの子が出てきた。
峻険な山肌には雪がかかり白くなっている。険しい山々を超え、モクモクと立ち込める黒煙。その先にあるのは。
ぱっと鮮明に脳裏に焼き付いた過去の光景に希和子の視界がクラッと揺らぐ。
「陛下!」
おつきの者数名が希和子のそばによる。
「ご大事ありませんか?――ほれ、医者を!」
慌ただしく侍女の一人が駆けだす。皆の顔に動揺が走った。
「平気よ……」
「陛下、あちらで少し横に」
「本当に大丈夫なの」
希和子は気丈に振る舞おうとした。
気高き謁見の間の扉がギイイと開いていく。朝日が隙間から差し込む。やがて開き切ったその先に姿を見つけだすことができた。
漆黒の長髪、すらりと伸びた脚と腕。きらびやかな衣装を身につけた女性が左右に従者を付けて立ち尽くしている。
西王であった。
希和子も同様に位の高い者二名を腰につけて、謁見の間に入る。
彼女が座るべき席は段の上にあった。金の色をした段を徐に上り詰める。
何もない部屋だ。
部屋の中央に拝謁者が座る椅子が置かれてあるだけの空間だ。上から見下ろす位置にいる自分。太陽が差し込み、床に自分と王の影が部屋の端まで伸びていた。
聖女である希和子が座ると、王もまた座る。
妙な光景だ。単なるシンボルに過ぎない存在が実力者を見下ろすのだから……
「お久しぶりですね」
希和子は、毅然とした声で王に語りかける。
「ええ、陛下。お久しゅうございますね」
「何かと変わりはありませんか?」
仰々しい作法だった。
聖女はすでに権限を王に委ねている身だ。彼女が会って指図する必要はない。
希和子はスッと立ち上がり段を下り王の元へ向かった。双方の従者の顔に戸惑いの色が浮かんだ。
密な話をするには、これしかない。
「王とは大事な話があります。少し外してもらえますか?」
従者は互いに目を合わせどうすればいいのか迷っていた。やがて視線を王に合わせることで指示を待つ。
王は手で自身の従者に外すよう指図する。こうして謁見の間には、王と聖女しかいなくなった。
二人きりになったとき、希和子は朗らかに笑う。親しいものにしか見せない表情である。今まで固く引き締められていた相好が崩れ、彼女の心には安堵があった。
王もまた同じように笑みをこぼす。希和子もつられてクスクス笑い始め、静かになる。
「元気そうで」王が言った。
「みんなうるさくて困っているの。それに、あの付き人たちときたら」
希和子がはあと大げさにため息をつく。
「来月になれば、陛下にしか出来ない大事な責務が待っております。それまで、ゆるりとなさいませ。陛下にお仕えするのが彼らの責務。どうかご容赦なさいませ」
「堅苦しいことはいいのよ」
希和子は自身の第一の臣下であり、姉のように支えてくれる西王に話を聞いてほしかったのだ。王は屈託のない笑みを浮かべ、ええと自然な調子に相槌を打った。他愛もない愚痴や退屈な宮廷内での生活の不満を聞いていた。
「心中お察し致しますわ」
昨年成人の儀を行い、正式に聖女として宮廷生活を始めた希和子にとって、何の味気ない日々であろう。
聖女の臣下として守り、ときに姉として心の支えとなり、ときに諫める母でもある西王・萌希にとって、希和子の心の内は気がかりなことだ。
実に彼女と会ったのは一年ぶりだ。積もる話はあるが、団らんに浸っている暇はなかった。
世は実に緊迫している。宮廷内で、あるいは外で、はたまた都の端々で、隣国は、安定しているとは言い難い状況だ。
王としてというより、家族の問題として大事な話を申し上げますと言った。
希和子の顔に、緊張が走る。雑談でほぐれた顔がまたきりっと引き締まった。本来の話の主筋はそこにある。
「単刀直入に言いますわ」
りりしい王のまなざしが希和子の心を射抜く。
「参の王と戦争状態にこれは王による私戦ではなりません。不当な攻撃による防衛――いわゆる聖戦です」
しばらく沈黙が続いた。戦争、その二文字を聞いて希和子の心は動揺する。
「でも、王の会議が、会議が今度あるでしょう!」
希和子の声は裏返る。人々の平和と希望の体現者である聖女にとって戦争はあってはならない。
「ええ、そこは恐らく……」
話し合いの場ではなく、単なる開戦の手続きとなる。
「私は戦争には反対です」
「分かっておりますとも」
西王はうつむいた。
「私の一存だけでは」
「なら私からの意向を王の会議で言ってください」
「陛下にお話ししたのは間違いでしたわ。余計な――」
「そんなことはありません!」
希和子は叫ぶ。自分が王に権限を預け、ただ君臨している張りぼてになどなりたくない。
「ただ、その……ええ、ええ分かっています。あなたは聖紙が欲しい。戦いの口実をもらうべく……」
「問題はこちら側ではなく。もちろん、一時的なもので構いませんわ。私は彼らにお灸を添えたいだけです」
希和子は考えあぐね決断した。
「わかりました。差し上げましょう。すぐに直ちに」
原因は参の王と、彼に追随する四ノ国王にもあると言って、詳細を少しずつ話した。
話を聞いて希和子は、納得してしまう。やがて最後には諦めた顔になる。やはりそうか。彼女は得心した。
たとえ誠意を尽くしても、受け取る方が突っぱねてはどうしようもない。特に、あの子の気質なら。希和子は朝から患っていたものに、引きずられ続けていることに何も言えなくなってしまう。
「これは確かな情報ですわ」
王は聖女の傍に寄りひそひそと耳打ちをする。
「陛下の身の周りに密偵がいます。恐らく東の」
希和子の体は危機を察知した小動物のようにピクッと身震いをした。ただならぬ恐怖が近くにあることを知った。
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