ゆめうつつ

戸笠耕一

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第一章 焼落

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 心に悔恨という雨が降っていて道を濡らしている。油断をすれば足を滑らしてしまう。

 私は深夜のアルバイトを終えると自宅に戻る。アルバイト先のコンビニから徒歩十分のところにアパートはある。

 ギシギシと二階に続く階段を昇り、二〇六室の部屋の扉を開ける。

 全く忌々しい。どうして夢の世界にいても嫌なことが起きてしまうのだろう。よりによって何で冷奈が出てくる?

 不快なものは出てこないはずだが、冷奈に薬を飲まされたせいだろう。どうして私に睡眠薬を飲ませたのか?

 私は連雀通りをてくてくと歩いていた。

 雨が降ってきた。気持ちを切り開けろと言うわけだ。私は気持ちが揺らいでいる時に雨を降らす。

 返事はない。キッチン、ダイニングを見渡しても姿が見えない。

 私は「ニイナ」というネームプレートの扉を叩こうとしていた。

 待て。私はいたずらをしてやろうという気持ちが湧いてきた。

 少しだけびっくりさせてやろう。男ならではの好きなものへのいたずら心が私の中でくすぶり出す。

 密かに扉を開けて中を見る。机に向かって真剣な表情でペンを走らせていた。きっと名前の件だろう。

 私はそろりと忍び寄り、その淡い瞳に手を被せる。はっと奈々の体がピクリと動いた。

「驚かせないでよ」

 あきれ果てる奈々の声がした。

「何をしているの? 答えたら、外してやるよ」

「例の書類の続き」

「名前を変えるやつか。大変?」

「書くだけだから」

 奈々は二十歳になった。成人式の振り袖姿を私は幾度とカメラに収めている。養護施設では地味で姉の影に隠れていた少女はすっかり大人になっていた。

 十歳、十六歳、二十歳の顔つきを見ても全然違う。成長とは恐ろしいものである。

 さすがにカフカの「変身」のように別の生命体になるわけじゃないから輪郭は残る。化粧をして一段と私に相応しい乙女になっていた。

「新しい名前を見せてくれよ」

 私はちらりと名の変更許可申立書を見ようとした。

 戸籍の名を変更するには家庭裁判所の許可が必要になるがこの際に事由がいる。

 事由は名の変更をしないと、その人の社会生活において支障を来す場合を指す。いわば単なる個人的趣味、一個人の感情、信仰上の希望などでは認められない。

 ちらりと見えた書類の情報はこうだ。

 提出先の裁判所は「東京都家庭裁判所立川支部」
 申立人「希坂奈々」。
 本籍「長野県北安曇群白馬村三十五‐二 思い入れの里」
 住所「東京都三鷹市上連雀三‐五‐二」
 氏名とフリガナ「希坂奈々(キサカニイナ)」
 職業又は在校名「東邦大学……学部……学科」
 学部学科名がよく見えない。名前も書いていない。次のページかな?
 申し立ての趣旨「申立人の名(奈々)を……」

「お? おっとっと」

 私はわざとらしい声を出した。

「だめ! 見ないでよ!」

 意外な名前だった。

てっきり「にいな」を「なな」にするだけかと勘違いしていた。

「変わってからのお楽しみだからね」
「ちなみに聞くが、名前の呼び方は『なな』じゃないんだな?」

「だってあの人と被るし、いいでしょ。ちょっと本当に見ちゃったの?」

「はっきりとは見えていない。確か人偏(にんべん)に」

 私は新しくなる名前が楽しみで仕方がなかった。

「言わなくていいから。焦らなくても正夢の誕生日に教えてあげる!」

 私の誕生日は八月四日である。あと二週間。

 告白はこんなにめでたいものだっただろうか?

 私は現実との差異が多いような気がしていた。仕方がないところはある。私は現実とは違う路線にいる。ただ名前
の変更していた記憶は、どうにも釈然としない。

 大学生になると名前を変えると言い出した。

 ある日、机に置かれたコピー用紙に書かれた名前を並べていた。コピー用紙に書いてはクシャクシャにして捨てる
行為を繰り返していた。

「百合奈(ゆりな)」
「理恵(りえ)」
「葉子(はこ)」
「麗華(れいか)」
「井子(いこ)」
「菜緒(なお)」

 私の記憶が正しければこの五つの名前に絞られたが、書類に書かれた名前ではなかった。

「名前って難しいよねー」

「親はどうやって自分の名前を付けたのか。考えているんだよな?」

 私の名前の由来は事実と同じになる夢を意味する正夢から来ている。

 母が子供を妊娠した夢を見たそうだ。腹痛を感じて病院に行ったところ、妊娠を告げられたエピソードがあり、きっかけで決まったそうだ。

「素敵な理由。お金持ちの御方は御大層な由来をお持ちですことね」

 弾けんばかりの表情で話を聞いていた。私の名前の由来はウリになる。

「そっちはどうなの?」

「奈々の由来なんて全然考えていないと思うよ。私たちには親はいませんから」

 ふん、とへそを曲げた。

「保育士の人から聞いていないかい?」

「あーにこにこ笑ってほしいからだって。ばーかみたい」

 朗らかな理由じゃないか。

「やっぱり他人に名前を付けるのと、自分で名前を付けるのじゃ全く意味合いが違うよね」

「確かに難しいな」

 多くの人間は親から名付けられた名前を授かっているが、まれに名前をそれぞれの事情により変える人たちがいる。理由は読みづらいとか、分かりづらいとか、さまざまである。

「考え抜いた名前だから、チラ見感覚で見ないでほしいわ」

 そういわれると申し訳ないことをした。軽はずみに見てはいけない。

「悪かったよ。通知結果が来たら教えてくれ」

 お互いの顔が近づいて、私はキスをした。気持ちが温まってきた。冬場だから唇はがさついている。私はリップクリームを塗ってざらつきを感じさせない。

 私は事故の遺族として遺族年金をもらいながら生きている。あとは睡眠障害により障碍者手帳をもらっているから支払う医療保険料は一割だ。

 社会からすれば、単なる寄生虫以外の何者でもない。多くを望むつもりはない。あるとすれば二十代特有のエロスぐらいか。手が勝手に伸びていた。

 西本正夢は金食い虫にして、単なるエロ好きである。私の部屋には下世話な雑誌が密かに置いてあり、奈々がいない間の楽しみにしている。

「ベタベタしないでよ。このスケベ!」

 私は男なのだ。女を求めるのは当然だ。

 体中からあふれ出すフェロモン。ジーンズ越しから私は太ももに触る。たまらなかった。

「何をやっているの?」

「君は僕の作った枠から逃げられない」

 またと半ば呆れながら笑う。ひょいと私が両手の指で作った四角い枠から抜け出してしまう。ばかなことをやっている。

「見られちゃうと困るから出しに行こうっと」

「夜も遅いし気をつけろよ」

 何をそうどや顔をするのか分からないが、奈々は私を時に翻弄する。女特有の愛情表現だろうか。父が母を選んだ
のはなぜだろうか。愛に触れて両親を思う。

「ちょっと話があるんだ。いいか」

「名前なら教えてあげないよ」

「そうじゃない」

 私たちは同じアパートの一室を借りて住んでいる。やがては縁を結び、家庭を築くことになるだろう。でも言っておくべきことを私は言っていない。

「今まで言えてなかったけど、付き合ってくれ。君が好きだ」

 ばかだな。今さら言っても笑われるだけだ。恥ずかしさのあまり顔を背けた。でも言わなければ変だ。

 現実を見ろ、何をしている、自分!

 心の中にしか奈々はいない。すっかり引き払われた家に感じ、思い続けていた温もりを糧に私は生き続けてい
る。

「素敵な言葉だね」

「言えなかったから」

「全く、いつ言ってくれるのか待っていたよ」

 奈々はにっこりと真心を微笑みに載せて私に見せてくれる。

 人間、最高に美しいと思えるものに出会えるかどうかが人生を決める。最高のものがある。私にとっての最高とは悪意がないことだ。

「ずっと僕の枠の中にいてくれよ」

 僕の枠組みに悪はいない。

「懲りないよね。何がしたいの、甘えんぼさん」

 君が悪に触れないための枠。

「おまじないだ。教えてなかったっけ?」

「知らないわよ」

 私は両手で四角を作る。君と初めて会った時を君は覚えていないだろう。

 これはおまじないで、私の子どもの時からの癖なのだ。

 私は気になった人や自然を枠に収めたい。父は世の中には恵まれない者たちもいる事実を教えるために私を養護施設に連れて行った。私が十歳の話だから二十二年前になる。

 施設内を巡っているときに、出会い頭に私は少女とぶつかってしまった。

 目がたまたま会った。肩にかかった黒髪で丸い顔立ち。白いアニマル模様のTシャツを着ていた少女の手からキティの人形が零れ落ちた。

 私は手早く拾ってそれを渡した。かすかに少女の手が僕の手に触れた。それが奈々との初めての出会いだった。

 ぎこちないお礼と笑い。言葉に表せないこそばゆい感情を後に初恋だと知ったのは物心が付いた時だった。

「へッ、早くしろよ」

 照明が切れてかかって暗くなっている階段の踊り場からきつい声がした。奈々とそっくりの声がして、トントンと足音が聞こえた。暗い踊り場に向かって足早に行ってしまう。去っていく奈々に会いたいと私は思ったとき、すっと手が勝手に四角を描いた。

 いなくなってしまう前に君を捉えておきたかった。

「そんなこともあったねー忘れちゃった」

「引いている?」

「無理かな」

 若干引いた表情を浮かべて髪をかき上げた。

「仕方がないな。池袋で買い物してから、やる?」

 奈々は面白げに私の頬を突いた。

「おっと珍しいじゃないか?」

 セックスに奥手な奈々が自分から誘ってくるのは初めてだった。

「女から誘ってもらえないほど正夢がまだ魅力的じゃないってこと」

「何で?」

「自分で考えてみればー?」

 ふてくされやがって。私はむくれたときの表情が大好きだった。

 枠から逃さない。くだらない子ども心。枠から抜け出そうとする奈々を私は追いかける。

 恋愛は追いかけっこと一緒だ。

 私は両手の親指と人差し指で四角い窓を作り、その先の水平線上に奈々を捉えていた。ニイナを枠にずっと収めていたいと思ったのが恋の芽生えだった。
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