ゆめうつつ

平野耕一郎

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第二章 復讐

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 記録七
 日付:二〇十九年十月七日
 時刻:午後八時二十分
 場所:東京都中央区銀座一丁目七‐八 クラブ「ブルッフェ」

 世界が目まぐるしく変遷する中で私は蝉の抜け殻のように十年を食いつぶしていた。
 なんというひどい発言してしまった。女を平手打ちにするなんて最低だ。
 私の頭には自己嫌悪の言葉があふれかえっている。その一方で私の気持ちを知らないあいつが悪いなどと自己弁論に走っている。
 一人になって寂しさを紛らわすためにデリバリーヘルスを頼み、中身のないセックスをした。それにも飽きて銀座のクラブでしけこんでいた。家の宅配物にクラブのチラシが入っていて、興味本位で予約を取り行ってみた。
 金はある。ただ場違いな服装だ。Tシャツにチェック柄にジーパン。
 予約したとはいえ大丈夫か不安になり周囲を見てしまう。カウンター席でホワイトソースを飲みながら、枝豆をつまんでいた。店としてはドンペリだの、シャンパンを開けてくれよと言いたげである。
 女と遊ぶ場なのにカウンターにいて一人で飲んでいる客は私だけだ。女の香水も男の喧騒も私には関係がない。ここに来たのは単なる余興のつもりだった。チラシに導かれて、ふらりと来ただけ。
 流れている音楽も安っぽい。しんみりしたい気分だ。せめてビリージョエルの「stranger」か「honesty」を流せと思うが、私のような弱者の要求は通らない。
 スコッチはあと一杯にして帰ろう。カランとグラスに入っている氷が音を立てる。グラスに気になる女が映る。夢現にいた私はふと意識を取り戻す。
 優里じゃないか?
 赤い孔雀柄のドレスに身を包んだ女がカウンター席にいる私の横を通り過ぎる。どこから見ても優里しか見えない。
 どこにいく。十年も私を置き去りにして。二度とその手を離さない。
 私は自然と席を離れて女の後を付けていく。
「特別室にいる北宮さんのお相手をして」
 タキシード姿の男がぼそぼそと話しかける。
 北宮だと?
 確かにそういったな。その名前を持つ者といえば一人しかいない。私の存在に気づいた店員が目の前に立ちはだかった。
「お客さま、そちらは特別室となっておりまして」
 知らん。私は客だ。
 ずんずんと奥へ進んでいく。ⅤIPルーム。資産家、有名人が使う部屋だろう。私はノックもするまでもなく扉を押し開けた。
「なんだ、お前?」
 ツーブロック。ラメの付いたシャツにダボダボのジーパン。ただのチンピラにしか見られなかった。
「どうしてこんなところにいる?」
 私はつぶやいている。
 冷めついた目。そんな視線を送らないでくれ。お前が必要なのだ。テセウスはクノッソスの迷宮を脱出するためにアリアドネがいた。
 希坂優里は私のアリアドネだった。
「その子を放してくれ。帰るぞ」
「何を言っている? 頭は大丈夫か?」
 怪訝そうな男の表情。体格からしても勝てるわけがない。周りは驚きと嘲りに満ちている。そんな状況に私は慣れている。
「私の連れだ。どういうつもりだ?」
 テーブルに置いてあったワインボトルを手に持った。座っている男の一人がヒューと口笛を鳴らす。ポキッと腕を鳴らす音がした。合図だ。
「やめとけよ」
「明後日は試合だろ?」
「先に喧嘩売ってきたのはこいつだぜ。腕慣らしにちょうどいい」
 北宮はポキリと腕を鳴らす。不敵な笑みを、というか余裕綽々という顔である。
 舐めるな。私にもプライドがある。やってみなければ分からない。
 ワーッと変な掛け声を出した。
 何があったかわからない。視界全体を激しい光が覆ってすぐに暗くなった。風呂場でのぼせて知らぬ間に気絶したときの感覚に近いだろう。
 ようは一発KOだったわけだ。
 意識が半濁の状態で私は引きずられていた。店を追い出された。野晒しに道端に横たわった抜け殻のような私を周囲が白い目で見られている。
「大丈夫ですか? 起きられますか?」
 声がした。
 ブルースカイの服装が目に入る。警官だろう。なら、ご公務の妨げをしてはいけない。
「平気です」
 よろよろと立ち上がり、私は雑踏に埋もれる。路頭に迷いながら私は新橋駅から山手線に乗り、新宿駅で総武線に乗り換えて自宅に帰った。
 誰もいない虚空となった自宅に入った。鍵をかけ忘れていたのかもしれない。玄関は開いていた。不用心だ。
 リビングに座り、サイダーを飲みながら睡眠薬を飲もう。こんな生活を自宅でずっと繰り返している。だから今日が何日か分からなくなる。記憶は忘却の渦に飲み込まれて消える。
じっくりと深く眠りたいからドラールがいいだろう。しばしの間、夢魔の世界を体感しよう。
 現実での世界線だ。決して脱出できないメビウスの輪に私はいる。
 扉が開いている。きっと鍵をかけ忘れたのに違いない。
 靴がある。女の赤いヒールだ。どういうことだ?
 リビングへ続く扉を開ける。
「お帰り」
 ぽつりとかすかな言葉を耳に入る。まるで水面に水滴が落ちて広がるように、私の心は揺れ動いた。
「優里じゃないか」
 私は次の瞬間にはギュッと抱きしめていた。自然と足の力が抜けて私は情けない話だが、おいおいと泣いてしまった。許してくれと何度も連呼していた。
 泣くに泣いた。
 気になって私は銀座のクラブで働いていたのか聞いた。
「何の話? そんなところで働かないよ?」
 赤いドレスの女は優里とそっくりだった。他人の空似だろうか。
「それで今までどこにいた?」
 また尋問調で聞いてしまう。
「へッ? プラプラしていた。正夢の体調も気になっていたから、家に戻ってきちゃった。せっかくだし、あっちこっち行っていたよ」
「十年も私を置いてか。今さらどうしてだ? もう俺みたいな屑といても仕方がないだろ」
「出て行く前の正夢はそう言われても仕方ないよね。でも、同居を決めたのは私も出し。このままじゃいけないから戻ってきたの。復讐なんてやめて真面目に生きていこう」
 優里を見て私は美しいとつぶやいた。
 幸せが手のそばにふと戻ってきた。私は掴むだけだ。愛すべき人との日常。お互いを尊重しながら年を取っていく。何も高みを望まず、現状を更新し続ける日々だ。
 いいじゃないか。大変素晴らしいが、あまりにも甘えすぎじゃないか。
「このままじゃだめだ」
 私は首を振り、目の前に広がる幸せを拒否した。
「どうして? 復讐なんてやっても」
「復讐ありきでやるわけじゃない。あいつらが何をして生きているのか知ってからだ」
 独断と偏見はいけないが、四人の素行を調査していくうちに私はこいつらに何ら制裁がくだらないのはいかがなものかと思えてきた。
「ならあいつらを徹底的に調べてやろうよ。黒だったら、全部暴露してやろう」
 直接裁きを下さず、力あるものを利用する。時代は令和だ。
「北宮は女性に対する性暴力問題。ボクシング協会の父親のコネで握りつぶしていた」
 あいつの腹パンチは尋常じゃないほど強烈だった。
「私がハニトラではめて証拠写真を正夢が取るのはどう?」
「危険じゃないか?」
「だって正夢じゃ勝てないでしょ。あいつはヘビー級のチャンピオンだし、やっぱ色目で行くしかないじゃない?」
 押して無理なら引いてみろ、か。

「武田知名は表面ではインフルエンサーとしてリア充気取りか。インスタグラムでのステマ疑惑にコカインの使用か。証拠をそろえればやれるな。この女は俺がはめてやる」

 気取った女は嫌いだ。

「どうするの?」

「金に目がなさそうな女だが化粧……」

 すごいよね、と私たちは二人で笑った。

「川内猛はあまり目立ったものなし。北宮やさとみの担当弁護士みたい。裏でもみ消しとかやっているかもね」

「吉森さとみは夫の別居で子どもの親権を巡って離婚調停中。色々ありそうだな」

 私たちは二人で分担しターゲットを調べ上げ、相手への接近を試みた。

 まずは私の腹を殴った北宮弘毅である。あの筋肉脳細胞を地獄に落とし込む。
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