ゆめうつつ

平野耕一郎

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第三章 覚醒

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 記録二十一
 日付:二〇二三年七月十六日
 時刻:午後二時三十九分
 場所:東京都墨田区江東橋四‐二十五‐三 1

 ここは――
 パチパチと瞬きをして、私は目覚めた。
 目がうっすらと開いていく。瞼を開けるが、重く痛い。
 意識は戻ったのか?
 ここはどこだろう?
 どのくらい夢を見ていたのだろう?
 天井は自分の部屋とは違うと見ればわかる。夢の世界が終わったとしても、現実に戻ってこられる保証はない。
 見上げた先にある天井には見覚えがある。白一色。病院ではないだろうか。視線を周囲に移す。
 苦痛がひどく伴う目覚めだった。
 睡眠薬の大量摂取からの帰還は決して心地よいものではない。薬は大量であるほど、体が処理をできずに効果が残り続けて影響を与える。
 いわゆる副作用だ。
 当然体には悪い状態である。
 副作用の症例はめまい、ふらつき、吐き気。これぐらいは当たり前だ。ひどいと意識障害や記憶障害を引き起こす。かなり厳しい症例を私は背負っている。逃れられずに、何年もこういう状態だ。期間は忘れた。
 とにかく私は体を起こそう。べた付いた顔のアカを洗い流したいだけだ。
 でも体が金縛りにでもあったように動かない。どうやら意識を失っていたのは二、三日ではないらしい。脚は脱力していて神経が通っているとは思えない。下半身に力がどうにも入らない。
 これでは恐らく一か月以上はリハビリの生活を余儀なくされるだろう。経験則から言っている。夢世界で現実を放棄して遊んでいたのだから自業自得だ。
 落ち着いて解説をしているのは、こういう状況に陥ったのは初めてではないからだ。弛緩した筋肉に驚きはない。私は今回を含めて過去五回も睡眠薬を飲み過ぎで病院に搬送されている。
 愚かというべきか障害もここまで行くと止められない。恋人の優里に薬を預けて過剰摂取を避けるよう取り組んでいたが、どこに隠しているか見つけてしまう。
 私は意識を失った時に備えて、次の方法で現実と夢の区別をするための対策を練った。それは合図を体に与える。
 私の合図は「右指を爪楊枝で刺す」である。これでどこの世界線にいるか見極める。夢なのか、現実なのか、区別がつく。
 今回は合図をするまでもなく、ひどい頭痛でここが否応なく現実だとわかる。
状況把握は終わった。医師の登場を待つとしよう。
 意識を取り戻したからには心拍数も正常値に戻っているので、巡回している看護婦が気づくのではないか。私はナースコールを押していた。
 しばらくしてドタドタと足音がした。
「西本さん、聞こえますか?」
 知らない声だ。白衣の姿を見てやはりここは病院だと認識する。落ち着け、何度も経験している。まず知るべきは三点だ。
「大丈夫です。今は何月何日ですか?」
 まず一つ目。日付。意識を失っていた期間を把握する。
「二〇二三年の七月八日です」
「何時ですか?」
 次は二つ目。時間。 
「午後一時六分です」
 最後は場所。大体病院が多い。
「どこですここ?」
「墨田区墨東病院です」
「部屋は?」
「五〇六号室です。先生を今呼んできますから」
 三つを整理すると次の通りになる。

 記録二十
 日付:二〇二三年七月八日
 時刻:午後一時六分
 場所:東京都墨田区江東橋四‐二十五‐三 墨東病院

 私は脳裏に三つの大事な日付、時間、場所を何度も忘れないよう記憶するが、それだけではだめだ。カメラがないならメモに書き起こす必要がある。
「書くものをいただけますか?」
「よろしいですが、代わりに私たちで記載しましょうか?」
「私がやります」
 七月になってしまった。私が吉森さとみに会いに行ったのが六月二十日。なら半月以上寝ていたわけだ。
 頭が勝ち割れるほどに痛い。
 A4サイズの用紙とマジックペンが渡された。手で握ろうとする。が、力が入らない。指を曲げるのも厳しい。
 役に立たない体だ!
 この状態ではどうにもならない!
 私は全くもって不本意だが、事情を伝えて日付、時間、場所を書いてもらう。
 それから一週間が経った。七月十五日。
 暑い日が続いている。額から汗が止まらなかった。一週間が過ぎた。指先の動きや上半身を起こせるが、いかんせん自立歩行ができない。
「正夢!」
 カーテンが荒々しく開いて外の光が私の目に注ぐ。まぶしい。
 面会謝絶期間は今日までだったかな。
 なーちゃん、今は違うな。私は来訪者が誰だか一瞬分からなくなる。
 目の前にいるのは特別なケースだった。
 希坂奈々。幼少期のあだ名は、なーちゃん。
「ニイナか。どうしたの?」
「病院から意識を取り戻したって連絡があったから来たの。伯父さんたちも、あとで来るみたいだよ」
「あの人たちが来るのか」
 別に嬉しくなかった。西本夫婦は私と距離が近い肉親だが、いい思いではない。行きたくもない学校に行かされ、挙句こうなった元凶だからだ。
 現実に辟易した私はずっと夢を見続けていた。死んだはずの家族に大学生になった私が恋人を連れて白馬村に向かい、家族と食事をする夢である。
 私は夢に描いた世界線を疑わなかった。なぜならそうあってほしかったからだ。夢は私の願望が生んだ世界である。
「ニイナじゃなくて優里だよ。名前を変えたのに忘れちゃったの?」
「大丈夫だ。混乱しているだけだ」
 ど忘れだ。
 意識を失う前の出来事が不明瞭だ。倒れたときに私は決定的に見逃してはいけない何かを見たはずだ。
 だめだ、考え込むと激しい頭痛が起こる。あまりにもひどい。
「よかったよ。無事で何より!」
「迷惑をかけた」
 私は抱擁を受けた。ふと声をかけようとしたら、体中に稲妻が走った。
 何か、何かがおかしい。
 その手が私の体に触れたときに印がなかった。激しい衝撃が脳裏を貫く。私はとんでもない誤解をしていた。
 印とは火傷の傷跡を指している。私を火事の中から救い出した命の恩人は私と逃げる時に右手首に火傷をしている。
「お前は誰だ!」
 私は叫び、後ろに引いた。
 なーちゃんこと希坂奈々は大学生時代に名前を優里と変えている。大概の人は「奈々」という名前を見れば、「ニイナ」と呼ばないで「なな」と呼ぶ。この紛らわしい名前を家庭裁判所に申し立てをして名前を変えた。
「どうしたの、急に?」
 驚いた表情で私を見ていたが、騙されはしない。
「火傷の痕がない!」
 ナースコールを呼ぼう。この女を追い出してもらう。目の前にいるのは別人。それは私が避けてきた悪人……
「お前はレイナだな?」
 私は確かめる。
「そうならどうする? だいぶ錯乱しているようだな」
 くそ。体が動かない。
「へッ、お望み通りナースを呼んでやる」
 周りをばかにしたような不敵な笑みを浮かべている。こいつはレイナだ。
 私は自由の利かない体を動かそうとした。逃げなければならない。
「どうするつもりだ?」
「どう? 今日はお見舞だよ。色々と聞きたい」
 違う。殺しに来たわけだ。待てよ。目の前にいるのがレイナなら……
 私は全身に寒気を感じた。
「優里はどこだ?」
「何を言っているんだ? ここにいるじゃないか」
 体がなぜ動かない。ふざけるな。この女は危険だ。
 意識を喪失する前の出来事が蘇る。ホットミルクに大量の睡眠薬を混ぜて、私をこんな目に遭わせている。
 カーテンがすっと開いた。
「どうかしましたか?」
 看護婦が怪訝そうな表情をしていた。
「何か私を覚えていないみたいです。しっかりして!」
 目頭を押さえ涙をぬぐっている。しらじらしい。
「違う! 私は平気だ。この女を追い出してくれ!」
「正夢! しっかりして、私を忘れちゃったの!」
 うるさい。惑わされないぞ。
「とにかく起き上がらず横に」
 聞き入れてくれない。命の危機なのに。
「お願いです。この女は危険です!」
「五〇六号室の患者がパニック状態になっています」
 全身から警報音が鳴り響いている状態なのに、体は頑として鉛のようにベッドにへばりついている。
 頼む、私の体よ。起きあがってくれ。
 あがきは事情を知らぬ医師や看護婦たちにとっては、私がパニック状態になっていると疑うほかにない。
「西本さん、落ち着いてください」
「やめろ。離せ!」
「何がありましたか! 正夢は?」
 さっと背後で声がした。聞きなれた声だ。伯父たちではないか。幻影かもしれない。私が倒れたのはこれが初めてではない。過去と現在が錯綜している。
 もはや不快だ。入院中は誰も来客を認めない。
「正夢、しっかりしろ! 無理をするな」
「あなたは大事な西本の……」
 うるさい!
 どいつもこいつもそろいもそろって御託を並べやがって!
 思考の妨げになる。なぜ私の邪魔ばかりをする!
 意識の世界でよろしくやっていた人間からすれば、現実などクソ食らえ。
「全員、出て行ってくれ!」
 鎮静剤と医師が冷静に看護婦に指示を出す。
 看護婦は取り急ぎ鎮静剤のアンプルを持ってくると医師に渡し、点滴の注入口に入れる。
気を落ち着かせ、意識を奪おうとしている。意識を取り戻した人間は状況が分からず、パニックになるケースがあるらしい。例外なく私もそうなっていた。
「私はどこもおかしくない! いい加減にしてくれ!」
 薬の力には抗えない。体から徐々に力が抜けていく。どうしていつもこうなる。
 目の前に妹の優里のふりをしたレイナの同じ顔が近くにあった。私を復讐に駆り立てた元凶が眼前にいる。
「正夢! しっかりしてよ!」
 恥知らずの悪魔が何を言っている。
 一体どうして優里のふりをしている?
 お前は嘘つきだ。養護施設にいたときからもそうだ。
 人の心配などこれっぽっちも考えていない。いけしゃあしゃあとしっかりしてなどと言えるのだろう。
 耳元に悪魔の囁きが聞こえた。
「へッ、私に誰だって聞いていたな? なーちゃんだよ、お前の好きなニイナだよ」
 レイナは妹の優里と同じ顔で、同じ声色で私に耳打ちして、初めて会った時に暗い階段の踊り場で「早くしろよ」と声をかけた少女がレイナだった。ついに暗かった踊り場からステージに現れた瞬間だ。
 どこかでトントンと足音が聞こえていた。

 また意識を失った。これで投薬による意識の明滅は四回目というわけだ。
 リハビリは想像以上に過酷だった。足を前に出そうにも筋肉がないから前に進まない。無理に推し進めようとすると、バランスを崩して倒れる。
 倒れると起き上がるのも簡単ではない。看護婦もなるべく自力で立ち上がるよう促す。
 部屋に戻るとぐったりと横になるが終わりではない。医師の問診が待っている。
 翌日の午後四時。ガラリと扉が開いた。問診の時間には早い。
「おっつーヘタレ」
 その声を聞いて頭からつま先までの髪の毛が逆立つ。
「何しに来た?」
「お見舞だよ。差し入れは受け取ってくれよ。なあ、ダーリン」
「帰ってくれ。私は平気だ」
「お前、臭いぞ。体を洗っていないだろ?」
 手には千疋屋の袋を持ってきていた。
 レイナは黒いノースリーブに、茶色のデニムパンツを履いている。靴は白いハイヒール。あっさりしたファッション。あとはフォックスのサングラスをしていた。まるでモデル気取りだ。
 袋からフルーツゼリーを取り出して、むしゃむしゃと食べだした。レイナは身なりのいい恰好をした獣というほど野卑で野性的だった。
 あろうことかハンドバッグから銀のシガーレッドケースを出して吸い出した、
「ここは禁煙だ。火を消せ」
「窓開ければいいだろ。個室だし」
 フーッと手に持った煙草の煙が私に吹き付ける。
「お前もよく吸っていただろ。SevenStarsだっけ?」
「マールボロだ。いい加減にしてくれ」
 ゴホゴホと私はむせた。人から煙を浴びて思う。煙草は害悪だ。吸っていたのは若気の至りだった。
「お前も食え、吸うか?」
「いらない、帰ってくれ」
「つれないな。どうだ、食わせてやる」
 差し出されるゼリーを私は拒んだ。
「ちょっと遊んでやる」
 レイナは掛け布団を取る。私の青い患者用の服を脱がす。
「何しているんだ? ここは病院だぞ!」
 私は体を動かそうとするが、ご存じの通り足は棒に等しい。
「汗臭いな。やはりお前からは腐臭がする。まず拭いてやるよ」
 アルコールのツンとした匂いが鼻についた。
「前にも言っただろ? お前の主治医とは仲が良いんだ。人払いをするよう言い含めてある。ここは個室だし気にするな」
「やめてくれ。やりたくない」
「ずいぶんノリノリだったろう。女のうなじをよく舐める癖は親父と変わっていないな。安心しろ。中だしでもいいぞ。ピルは飲んでいる」
「やめろ!」
「男はすぐ体じゃないか。そう緊張することないだろう? 私とは初めてじゃないし」
「何を言っている。お前とやるわけがないだろ?」
「妹と区別がついていないのか。お前もおめでたいやつだ。自分が誰とセックスしていたか分からないのか?」
「私が愛し、体を結んだのは優里だけだ」
「まだ行っているのか? いい加減、頭の中のニイナが優里だと思うなよ」
「お前はレイナだ」
「北宮にハニトラを仕かけたのはニイナなのか? 自宅のマンションで夜な夜な遊んでくれた相手は本当にニイナだったか? 睡眠薬で記憶が曖昧になったお前に区別できるか?」
 やめろ。嘘だ。優里がニイナだ。
 違う、嘘をつくんじゃない。
「お前は私とニイナの違いを右の手の甲の火傷の痕があるかないかで区別しようとしている。お前は先入観で見ている。火事の中から助けたのはニイナなのかな? もしお前の考えが思い込みなら、火傷の痕で判断するのはどうかと思うよ。ねえダーリン」
 レイナは言い方を変えてからかっていた。何もかもが全部筒抜けだ。
「義弟よ。前にニイナから聞いたぞ。お前、だいぶひどいことをしたらしいな。妹はセックス恐怖症になっているのを知らなかったのか?」
 違う。私はあれ以来心を入れ替えた。
「過ちは認めた。酷いことはしない」
「安心しろ。私は一緒に復讐ゲームをしてきた仲だ。レイプまがいの行為をしようが気にしない。それに、お前のヘタレ話は嫌いじゃないぞ」
 ギュッと私は股間を握られていた。そのフェチラオは優里のそれと同じで、体を交えていたときの触感が蘇る。
「ショータイムだ。お前はどこまで我慢できるか。タイムを計ってやる」
 ハンドバックからスマホを取り出し、私の射精にかかる時間のタイムを取る。
随分と乗り気になっていた。来ていたノースリーブを脱ぐだけではなく、胸を覆っていたブラジャーも脱いでしまう。
 ギシギシと揺れるベッドの金属音に合わせて乳房が揺れていた。
「頼む、やめろ……」
「ほら触れよ。好きだろ?」
 胸の生温かさが香水に混じって染みついた。
「いててて。古傷が痛むな」
 左の脇腹を押さえている……
「お前はニイナなのか?」
「まだ思い込みか?」
「腹の傷は知名から受けたものだろ?」
「愛しいダーリンを守っての名誉の負傷だ。あっ、やばい。温まってきた」
 私は行為の最中に絶望を感じていた。
「だいぶ血の巡りが悪いな。ニイナが今どこにいるのか気にならないのか?」
 唾液の生温かい音、ずっと啜る音。レイナを優里だと思っていたとき、私は至福を感じていた。
 今は地獄だ。
「だいぶ固くなってきたな」
 レイナはパンツを脱ぐと、私に馬乗りになった。感じたくもない快楽が下半身から全身に伝達される。
「降りてくれ」
「口と体の反応が違うようだぞ。さ、入れてほしいと言え」
「場所を考えろ」
「言えよ。あいつは私が電話一本を入れれば、どうにでもなる。未だに体がままならないお前も一緒だ」
 首筋に蛇のようにスルスルと寄ってきて舌を当て舐めた。
「殺さないでくれ!」
 私は屈した。だらしない限りだ。でもどうあがいても自分は不利だ。
「無事だろうな?」
「私の可愛い妹をいじめると思うか?」
 私は負けた。悪に屈した。
「わかった。入れてくれ」
「そうこなくちゃ」
 ギシギシとベッドの金属音とレイナのあえぎ声。重なる男女の影。
 熱くなる亀頭からシュッと生温かいものが出る。
「あ、出たな。感じるぞ。お前の体液、生きた証だ」
 ずっと私は生気を抜き取られる。
「時間は六分五十秒六六」
 私にスマホの画面をちらつかせていた。
「平均的じゃないか。こないだオッサンよりはだいぶいいぞ。早漏は意外と女受けいい。男どもは長くやれることがいいと勘違いしているようだが。肝に命じとけ。じゃあな、リハビリ頑張れよ」
 後始末をして出て行った。
 外にばれるのではという羞恥心に苛まれながら私は不本意なセックスを強いられた。気が向いたときにふらっと来て、私に馬乗りになる。棒のように動けない私は一方的に蹂躙されるばかりだった。
 望まない行為は地獄だった。知名ともそういう行為をしたが、ニイナは曲がりなりにも私に好意を寄せていた。全くそうではなく、自分の欲望を満たすために私の前で股を開くのだ。
 私の病室を訪れてケアと評して猥褻な振る舞いをする。体が動くようになってきたらさすがに悪ふざけはなくなった。何を言い出すか分からない女である。
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