花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

naomikoryo

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第一話 花嫁御寮の朝

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 早春の光が、障子の向こうで淡く揺れていた。
 夜明け前の空気はまだ冷え、結城家の奥屋敷は静まりかえっている。屋敷の庭に張り詰めた霜が、枝先の紅梅をかすかに白く染めていた。

 ――鶴の間の香を焚いてくださいませ。

 御寮人様の支度が始まる。女中の声が廊下に低く響き、その音が朝の静寂に吸い込まれていく。

 結城澪は、そっと襖を開けた。白の小袖に藍の羽織。清らかでありながら控えめな装い。
 奥御寮としての朝は、まず「美しくあること」から始まる。それは誰かのためでも、見られるためでもなく、家の空気に溶け込むための所作である。

 鏡台の前に座ると、女中のすずがそっと髪を整える。澪の髪は艶のある黒で、額にかかる産毛もまたきちんと撫でつけられていく。

 「昨日の椿、咲いておりましたね。赤くて、大きゅうて」
 「……ええ。椿は、静かに咲いて静かに落ちる。好ましゅうございます」

 澪の声は静かで、そしてどこか遠くを見ていた。

 夫・宗真は今朝も、いつものように起きてこなかった。もっとも、それは不審ではなかった。結城家の当主たる者、多忙な日には早朝から登城しているのだ。ただ、今朝の寝所には、彼の羽織が掛けられたままになっていた。

 「御寮人様、朝餉のお支度が整いました」
 おふさが声をかける。女中頭として、この家に三十年仕える老女。澪にとっては、母にも似た存在だ。

 「参りましょう」

 襖を滑らせて、廊下に出る。畳を歩く足音が吸い込まれ、白木の柱の間から差し込む朝の陽が、細く彼女の肩に触れる。

 庭を見下ろすと、池の水面には薄氷が浮かび、その向こうにある紅梅が凛として立っていた。結城家の庭は、計算された美を宿している。野趣を避け、武家らしい均整を保ち、だがどこか冷ややかだ。

 「今日の献立は?」
 「白粥と小梅、芋がらの煮物、焼き鮭に出汁巻きでございます」

 変わらぬ朝。変わらぬ儀式。御寮人としての務め。

 だが――。

 その日の朝餉の膳には、ひとつだけ異変があった。夫・宗真の膳が、空のままだったのだ。

 「旦那様は?」
 「……まだお戻りではございません」

 答えたのは、おふさではなく若い男の声だった。新入りの小者、八助である。だがその言い回しはどこか引きつっており、「いつも通り」の語調ではなかった。

 澪は箸を置いた。目は動かさず、言葉も足さず。ただ静かに、空の膳を見つめていた。

 宗真が帰っていない? では、どこへ――。

 「昨夜の帰りも、門の記録には……」
 すずが囁こうとしたが、おふさがその言葉を遮るように咳ばらいをした。

 「――今朝は風が冷たいようでございますな」

 澪は静かにうなずき、手を膝に置いたままその場にとどまった。屋敷には情報が、音もなく行き交う。だが、それはすべて、声にならないまま消えていく。

 家は、女の耳と目で回っている。

 澪は立ち上がり、庭に面した縁側へ向かった。歩きながら、心の中にかすかなざわめきが生まれていた。

 宗真――あなたは、どこへ?

 風が吹き抜け、庭の椿が揺れた。赤い花びらがひとひら、すっと落ちる。雪の名残の上に、血のような色が滲んでいた。

 静かな屋敷の中で、誰もが口を閉ざしている。けれど、沈黙は何よりも雄弁だ。

 その日、澪は生まれて初めて、自分の目で「家の奥」を見通そうと決めた。

 女として、妻として――そして、ただの道具ではなく、「この家の何か」を見極める者として。
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