花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

naomikoryo

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第二話 消えた夫

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 その日もまた、江戸の空は霞がかっていた。
 春先の冷気がまだ空気の中に残っており、朝餉の後に吹き抜けた風が、庭の砂利をさらさらと滑らせる音だけが耳に残った。

 澪は針を手に取り、日課の裁縫に取りかかっていた。
 これは「御寮人の義務」というよりも、澪自身の習慣だった。夫・宗真の足袋の繕い。背広にあたる裃の刺し子。毎朝、宗真が出仕した後の静かな時間は、澪にとって唯一の「己」に戻れる時間だった。

 だが今朝は、白布に針を通すその手が、ふと止まる。

 音が、ない。

 普段なら、宗真が馬の蹄の音と共に門を出て行く気配がある。下男の八助が「行ってらっしゃいませ」と声を上げるのが、庭を越えて響く。けれど今朝は、それがなかった。

 昨日の夜も、寝所の襖は開かなかった。寝巻の香も、彼の体温の痕も、今朝の布団からは感じられなかった。

 (病か、あるいは……)

 だが、宗真は病に臥せるほど体が弱い男ではない。先週の矢場の訓練でも、若い小姓を相手に軽々と竹刀を振るっていた。黙して語らずだが、体の芯には燃えるような志を持っている男だ――澪はそう感じていた。

 そのとき、廊下の向こうからおふさの足音が近づいてくる。

 「御寮人様……旦那様のことなのですが」

 澪はそっと針を置いた。

 「……はい」

 「お出かけの際、行き先は仰せにならず。しかも、昨夜から戻られておりません」

 「おふさ、宗真様が昨夜出かけられたのは、何時のこと?」

 「暮六つ(午後六時)過ぎに、御一人で。羽織と脇差、それと……手紙を一通、お懐に」

 「手紙?」

 「いえ、それが……誰宛とも知れぬ、封もされておらぬ一筆書きでして……」

 おふさは、懐から小さな紙片を差し出した。

 澪がそれを受け取ると、そこにはわずかに筆跡の乱れた文字が書かれていた。

 > 「いくたびか椿の庭に立つ。
 >  声はせずとも、風が答えを運ぶ。」

 ただそれだけ。意味をなさぬ、詩のような断章。

 澪はその紙をそっと折り、袖の中にしまった。

 「……庭の椿を見に行って参ります」

 「御寮人様」

 おふさの声には、不安と――何かを言いかけて飲み込んだような沈黙が含まれていた。澪はその目を見たが、問いただすことはしなかった。今は、彼の残した「言葉」の意味を知りたい。

 庭に出る。午前の光が石畳に射し込み、欅の影が風に揺れる。紅椿の樹は、澪の背丈よりもはるかに高く、しかしその枝は手入れの行き届いた形で整えられていた。

 (宗真様、あなたはここに……何を遺したの?)

 庭の隅、苔むした手水鉢の脇に、踏まれたような草の跡があった。その先にあるのは、板囲いの納戸――普段使われることのない、古い道具をしまっておく物置である。

 扉を開けると、埃の匂いが鼻をつく。だが、その空気の中に、わずかに――異質なものが混ざっていた。墨の香り。新しい硯のような、微かだが確かに記憶に残る気配。

 古い帳面の束の上に、和紙が一枚、無造作に置かれていた。

 その和紙には、墨でこう記されていた。

 > 「本意ならずとも、義に従う」

 そして、名前はなかった。筆跡もまた、見慣れた宗真のものとはわずかに異なる。だが――彼の書くときの癖、「はね」の形、「とめ」の角度が、一部一致していた。

 宗真は、何かに追われていた。あるいは、自らの意志で、家を離れた。だがそれは「逃げ」ではない。義。誰かのため、あるいは……何かを守るための行動。

 「――宗真様……」

 澪は、目を閉じた。風が庭を駆け抜け、椿の枝がざわりと鳴った。

 声なき返答。けれど、何かが確かに、動き出している。そう思えた。

 そのとき、庭の端で誰かの気配を感じた。澪が振り返ると、屋根瓦の影にひとつの視線があった。すぐにそれは引っ込んだが、気配だけは残っていた。

 見られている。

 澪はそのまま、何事もなかったように姿勢を整え、屋敷の中へ戻っていった。

 何が起こっているのかはまだ分からない。だが宗真は、何かを守ろうとして姿を消した。ならば自分は、何を守るべきなのか。

 ただの御寮人として、決められた日々をなぞるのか。それとも――。

 澪は、襖の奥に広がる奥向きの静寂を見つめた。廊下の先にある障子の格子には、朝日が差し込んでいた。だが、その光はどこか、冷たかった。
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