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第五話 庭の椿、紅し
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春の兆しと共に、庭の椿が静かに咲いていた。
紅の色は、咲きたてよりも、散り際にこそ深まるという。
まるで、この屋敷に今、忍び寄るものの正体を映すかのように。
澪は朝の支度を終えたあと、縁側に座り込んで庭を見つめていた。
視線の先には、宗真が好んでいた椿の並木。その奥、屋敷の北側に回り込んだ場所にある“ひとつの古木”が、澪の記憶に残っていた。
(いくたびか椿の庭に立つ。声はせずとも、風が答えを運ぶ――)
宗真が遺したあの言葉が、再び胸によぎる。
「おふさ」
「はい、御寮人様」
「北庭の手入れ、久しくされておりませんね」
「……は。あの辺りは、宗真様がお好みでございましたので……御触れがありました。“あそこには手を入れるな”と」
(宗真様が、手を入れるなと……?)
庭に足を踏み入れる。
手入れの行き届いた南庭から離れるにつれ、苔は深く、飛び石には湿り気が残り、草もわずかに茂っている。
屋敷の北庭は、日当たりが悪く、木々の影が長い。
だが、その一角にだけ光が射していた。一本の大椿が、石灯籠を包むように枝を広げ、その根元には赤い花びらが絨毯のように落ちていた。
(……ここだ)
澪は石灯籠に近づいた。灯籠の火袋の内側――
何かが、貼られている。
小さな和紙の束。それは、湿気でふやけていたが、紛れもなく宗真の筆跡だった。
> 「廻状(かいじょう)三通、問屋筋に落つ。
> 一通目、出入り帳。二通目、役金の行方。
> 三通目、上様御覧に入るべし」
帳面。問屋。役金。そして、「上様御覧」――将軍に直結する言葉。
澪は思わず、和紙を袖に押し込んだ。
だがその時、背後で小さな音がした。
――石が、ひとつ、転がる音。
「……誰?」
澪は振り向いた。だが、そこには誰もいない。
椿の葉が風にそよぎ、鳥の影が枝を駆けるだけ。
(見られている……?)
屋敷の中では、どんな視線も“無言”である。
けれど女たちは、音と気配で互いを知っている。
◇ ◇ ◇
その夜、澪は再び文机に向かった。宗真の帳面、そして今日見つけた和紙。どちらも「金の流れ」を示していた。
宗真は、幕府内の不正を追っていた。
問屋筋――江戸の町に生きる者なら、誰もが知っている“幕府御用達”の流通元。
そこから流れる金が、どこかに吸い込まれていたのだ。
それを追い、記録し、告発しようとしていた。
その「三通目」が、“将軍”に届いていたとすれば――それこそが、宗真が姿を消した理由ではないのか。
「……宗真様」
澪は唇をかみしめた。
夫婦として過ごした八年。心を通わせるには、あまりに短かった。
けれど、その背中に宿る誠実さは、澪の心に残っていた。
(もし宗真様が、“誰か”のために姿を消したのなら、私は)
私は、夫の名を守る。
女として、御寮人として、ただ家の奥に閉じ込められるのではなく。
私自身の足で、目で、真実に近づく。
夜半、縁側に出ると、空に霞がかかっていた。
庭の椿は、月に照らされ、まるで血を流すように輝いていた。
風が吹いた。
紅い花びらが、一枚、また一枚と、落ちていく。
宗真の残した道筋が、澪の中に一本の線を描き始めていた。
次に向かうべき場所は――宗真が口にした「町方」との接点。
おそらく、あの男の元へ行くしかない。
町方与力、坂東伊織――。
紅の色は、咲きたてよりも、散り際にこそ深まるという。
まるで、この屋敷に今、忍び寄るものの正体を映すかのように。
澪は朝の支度を終えたあと、縁側に座り込んで庭を見つめていた。
視線の先には、宗真が好んでいた椿の並木。その奥、屋敷の北側に回り込んだ場所にある“ひとつの古木”が、澪の記憶に残っていた。
(いくたびか椿の庭に立つ。声はせずとも、風が答えを運ぶ――)
宗真が遺したあの言葉が、再び胸によぎる。
「おふさ」
「はい、御寮人様」
「北庭の手入れ、久しくされておりませんね」
「……は。あの辺りは、宗真様がお好みでございましたので……御触れがありました。“あそこには手を入れるな”と」
(宗真様が、手を入れるなと……?)
庭に足を踏み入れる。
手入れの行き届いた南庭から離れるにつれ、苔は深く、飛び石には湿り気が残り、草もわずかに茂っている。
屋敷の北庭は、日当たりが悪く、木々の影が長い。
だが、その一角にだけ光が射していた。一本の大椿が、石灯籠を包むように枝を広げ、その根元には赤い花びらが絨毯のように落ちていた。
(……ここだ)
澪は石灯籠に近づいた。灯籠の火袋の内側――
何かが、貼られている。
小さな和紙の束。それは、湿気でふやけていたが、紛れもなく宗真の筆跡だった。
> 「廻状(かいじょう)三通、問屋筋に落つ。
> 一通目、出入り帳。二通目、役金の行方。
> 三通目、上様御覧に入るべし」
帳面。問屋。役金。そして、「上様御覧」――将軍に直結する言葉。
澪は思わず、和紙を袖に押し込んだ。
だがその時、背後で小さな音がした。
――石が、ひとつ、転がる音。
「……誰?」
澪は振り向いた。だが、そこには誰もいない。
椿の葉が風にそよぎ、鳥の影が枝を駆けるだけ。
(見られている……?)
屋敷の中では、どんな視線も“無言”である。
けれど女たちは、音と気配で互いを知っている。
◇ ◇ ◇
その夜、澪は再び文机に向かった。宗真の帳面、そして今日見つけた和紙。どちらも「金の流れ」を示していた。
宗真は、幕府内の不正を追っていた。
問屋筋――江戸の町に生きる者なら、誰もが知っている“幕府御用達”の流通元。
そこから流れる金が、どこかに吸い込まれていたのだ。
それを追い、記録し、告発しようとしていた。
その「三通目」が、“将軍”に届いていたとすれば――それこそが、宗真が姿を消した理由ではないのか。
「……宗真様」
澪は唇をかみしめた。
夫婦として過ごした八年。心を通わせるには、あまりに短かった。
けれど、その背中に宿る誠実さは、澪の心に残っていた。
(もし宗真様が、“誰か”のために姿を消したのなら、私は)
私は、夫の名を守る。
女として、御寮人として、ただ家の奥に閉じ込められるのではなく。
私自身の足で、目で、真実に近づく。
夜半、縁側に出ると、空に霞がかかっていた。
庭の椿は、月に照らされ、まるで血を流すように輝いていた。
風が吹いた。
紅い花びらが、一枚、また一枚と、落ちていく。
宗真の残した道筋が、澪の中に一本の線を描き始めていた。
次に向かうべき場所は――宗真が口にした「町方」との接点。
おそらく、あの男の元へ行くしかない。
町方与力、坂東伊織――。
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