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第七話 坂東伊織という男
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結城家の門が閉じられるころ、澪はようやく屋敷に戻った。
その背には、冬の夕暮れが色を落としはじめていた。
「……遅うございます、御寮人様」
おふさが控えの間に現れ、言葉を選びながら告げた。
「“ご病気で臥せっていた”ことにしておきましたが……」
「ありがとう、おふさ」
澪は羽織を脱ぎ、静かに袖をととのえた。
指先に残る、焙じ茶の香ばしい香りがまだ微かに漂っている。
それは宗真のいた“外の世界”の香り。澪にとって、それは目に見えぬ灯のようなものだった。
◇ ◇ ◇
翌日。再び嶋屋を訪れた澪は、今度は裏口から案内された。
人目を避けるため、伊織が用意した細い路地に面した入口である。
「気をつけねばならぬ。あなたが動けば、屋敷の中でも波が立つ」
そう言って伊織は、木箱から一枚の和紙を取り出した。
「これは、宗真殿が残した“内帳”の写しだ。神田屋が裏で動かしていた金の一部が、屋敷の中――結城家にも流れている」
「……結城家に?」
「そう。宗真殿はそれを知り、内から止めようとした。だが、それを快く思わぬ者たちがいた」
伊織の目が澪を見る。決して威圧ではなく、ただ真実を伝える視線だった。
「――それが、家老の大石勘解由ですか?」
澪の問いに、伊織はゆっくり頷いた。
「勘解由は、神田屋の口利き役だった。結城家の財政を任される立場でありながら、御用金の一部を私用に回し、見返りに“内帳”を抹消させていた」
「それを……宗真様が暴こうとした」
「だが勘解由は気づき、宗真殿を“表から消す”よう仕向けた。捕縛ではない。あくまで、“行方知れず”にするように、な」
その言葉に、澪の背筋が粟立った。
「それならば、宗真様は今……」
「逃げているか、匿われているか――いずれにせよ、命が狙われる立場にある」
伊織の手が、そっと和紙を戻す。その仕草は無駄がなく、厳しい生活を経てきた者だけが持つ静かな品格があった。
◇ ◇ ◇
沈黙が降りる。部屋の外から、猫の鳴き声が聞こえる。
「あなたは、なぜ……ここまで宗真様のために?」
澪の問いに、伊織は目を伏せた。
「俺にもかつて、家を守ろうとした男がいた。だが、結局“幕”に飲まれた。……宗真殿の姿に、そいつの面影が重なっただけだ」
「その方は……?」
「十年前に切腹した。理不尽に。俺は、何もできなかった」
その言葉に、澪は宗真を思い出した。無口で、不器用で、けれど心の奥には、まっすぐな義の芯を持っていた夫。
それは、伊織の語る“かつての男”と、どこか通じるものがある。
「……澪殿。あなたは、どこまで知りたい?」
「すべてを。宗真様が何を守ろうとしたのか。何のために、姿を消したのか」
伊織は一度、目を閉じた。
そして静かに口を開いた。
「ならば、次に向かうべきは――“帳面を写した者”の居場所だ」
「帳面を?」
「宗真殿は“内帳”の写しを、ある写筆屋に託していた。その男が今も生きていれば、残りの証拠が得られるかもしれない」
「その方の名は……?」
「――松庵。元は旗本の書役だったが、今は寺町で小さな筆屋をしている」
◇ ◇ ◇
帰路、澪は町の賑わいを見つめていた。
そこに生きる人々は、皆、今日を懸命に生きている。
だが武家の屋敷では、沈黙と仮面の裏で、人が静かに切られていく。
家を守るとは、どういうことか。
宗真の守ろうとしたものは、家そのものではなく、「その中にいる人々」ではなかったのか。
澪の中で、何かが変わりはじめていた。
もはや「守られる側」ではなく、「守る側」として。
次に向かうは寺町――宗真が託した、最後の“筆”の在り処。
そこに、真実の断片がある。
結城澪は、振り返らず歩を進めた。
坂東伊織という男と出会ったことで、かつての静かな御寮人ではいられなくなっていた。
その背には、冬の夕暮れが色を落としはじめていた。
「……遅うございます、御寮人様」
おふさが控えの間に現れ、言葉を選びながら告げた。
「“ご病気で臥せっていた”ことにしておきましたが……」
「ありがとう、おふさ」
澪は羽織を脱ぎ、静かに袖をととのえた。
指先に残る、焙じ茶の香ばしい香りがまだ微かに漂っている。
それは宗真のいた“外の世界”の香り。澪にとって、それは目に見えぬ灯のようなものだった。
◇ ◇ ◇
翌日。再び嶋屋を訪れた澪は、今度は裏口から案内された。
人目を避けるため、伊織が用意した細い路地に面した入口である。
「気をつけねばならぬ。あなたが動けば、屋敷の中でも波が立つ」
そう言って伊織は、木箱から一枚の和紙を取り出した。
「これは、宗真殿が残した“内帳”の写しだ。神田屋が裏で動かしていた金の一部が、屋敷の中――結城家にも流れている」
「……結城家に?」
「そう。宗真殿はそれを知り、内から止めようとした。だが、それを快く思わぬ者たちがいた」
伊織の目が澪を見る。決して威圧ではなく、ただ真実を伝える視線だった。
「――それが、家老の大石勘解由ですか?」
澪の問いに、伊織はゆっくり頷いた。
「勘解由は、神田屋の口利き役だった。結城家の財政を任される立場でありながら、御用金の一部を私用に回し、見返りに“内帳”を抹消させていた」
「それを……宗真様が暴こうとした」
「だが勘解由は気づき、宗真殿を“表から消す”よう仕向けた。捕縛ではない。あくまで、“行方知れず”にするように、な」
その言葉に、澪の背筋が粟立った。
「それならば、宗真様は今……」
「逃げているか、匿われているか――いずれにせよ、命が狙われる立場にある」
伊織の手が、そっと和紙を戻す。その仕草は無駄がなく、厳しい生活を経てきた者だけが持つ静かな品格があった。
◇ ◇ ◇
沈黙が降りる。部屋の外から、猫の鳴き声が聞こえる。
「あなたは、なぜ……ここまで宗真様のために?」
澪の問いに、伊織は目を伏せた。
「俺にもかつて、家を守ろうとした男がいた。だが、結局“幕”に飲まれた。……宗真殿の姿に、そいつの面影が重なっただけだ」
「その方は……?」
「十年前に切腹した。理不尽に。俺は、何もできなかった」
その言葉に、澪は宗真を思い出した。無口で、不器用で、けれど心の奥には、まっすぐな義の芯を持っていた夫。
それは、伊織の語る“かつての男”と、どこか通じるものがある。
「……澪殿。あなたは、どこまで知りたい?」
「すべてを。宗真様が何を守ろうとしたのか。何のために、姿を消したのか」
伊織は一度、目を閉じた。
そして静かに口を開いた。
「ならば、次に向かうべきは――“帳面を写した者”の居場所だ」
「帳面を?」
「宗真殿は“内帳”の写しを、ある写筆屋に託していた。その男が今も生きていれば、残りの証拠が得られるかもしれない」
「その方の名は……?」
「――松庵。元は旗本の書役だったが、今は寺町で小さな筆屋をしている」
◇ ◇ ◇
帰路、澪は町の賑わいを見つめていた。
そこに生きる人々は、皆、今日を懸命に生きている。
だが武家の屋敷では、沈黙と仮面の裏で、人が静かに切られていく。
家を守るとは、どういうことか。
宗真の守ろうとしたものは、家そのものではなく、「その中にいる人々」ではなかったのか。
澪の中で、何かが変わりはじめていた。
もはや「守られる側」ではなく、「守る側」として。
次に向かうは寺町――宗真が託した、最後の“筆”の在り処。
そこに、真実の断片がある。
結城澪は、振り返らず歩を進めた。
坂東伊織という男と出会ったことで、かつての静かな御寮人ではいられなくなっていた。
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