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第十三話 月夜の捕縛
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その日、空はやけに澄み渡っていた。
月が高く、雲ひとつなく、風のない夜。
けれどその静けさが、まるで張り詰めた絹のようで、少しでも何かに触れれば裂けてしまいそうな緊張が漂っていた。
澪は、蔵から持ち出した帳面の写しを、桐箱に納めていた。
今の彼女にとって、それは夫・宗真の“命”であり、同時に――“凶器”でもあった。
(これをどう守るか。どこに、誰に、託すか)
坂東伊織。
彼なら、信じられる。けれど、伊織に証を渡せば、事は表沙汰になる。
その瞬間、結城家にも、澪自身にも“取り返しのつかぬ結果”が及ぶ。
(私は……どこまで、踏み込むのか)
そのときだった。
◇ ◇ ◇
「……御寮人様」
おふさの声が、細く、切羽詰まっていた。
「勘解由様の使いが、北蔵に人を遣わされました」
澪の手が、わずかに震える。
(もう……知られた)
「また、門の者から……宗真様に“捕縛命”が下ったとの噂が――」
「捕縛命?」
「御奉行所より、宗真様が“幕府金蔵を荒らした重罪人”として指名手配に」
風が、澪の中に吹き抜けた。
宗真は、もはや“ただの失踪者”ではない。
その名は、町方にまで回され、見つけられ次第――捕らえられ、裁かれる身。
(間に合わなければ……宗真様は、“口を封じられる”)
「おふさ」
「……はい」
「桐箱を、坂東伊織様のもとへ。……今夜のうちに」
「御寮人様、それは……」
「もう、隠しておける段ではありません。
宗真様の命を、私たちだけで抱え込むことは、もうできない」
◇ ◇ ◇
夜更け、澪は屋敷の裏門から小者に紛れて出た。
顔を隠すために紺の被衣(かつぎ)を被り、手には何も持たず、ただ小さな和紙だけを懐に。
向かう先は――嶋屋。
伊織と落ち合うため、あえて“人目の少ない夜の市”の裏路地を選んだ。
途中、どこかで足音が重なった。
だが澪は歩みを止めなかった。
(この命が、宗真様の命とつながっている)
約束の辻を曲がったとき、静かに男の影が現れた。
「……結城澪殿」
その声に、澪の心がほどけた。
「伊織様……」
「来られるとは思っていたが……この道は危険だ」
「承知の上です。……これを、あなたに」
澪は、袖の中から和紙を取り出した。
宗真が遺した「帳面」の写し。
すべてを託す覚悟で、彼女は差し出した。
「……本当に、これを渡してよいのか?」
「はい。宗真様が、それを“世に問うてほしい”と願ったのです。
私の役目は、“義”を遺すこと。
夫の名を、ただの“逃亡者”にさせぬために」
伊織は、黙って和紙を受け取った。
その目は、澪の背中に宿った意志の炎を、確かに見ていた。
◇ ◇ ◇
その直後――
「結城澪、ここにいたか」
背後から低い声。振り返ると、複数の足音。
白羽織の町奉行配下たちが、通りの向こうに現れた。
「……お下がりください。町奉行の命により、あなたを捕らえる」
「何の咎で?」
「“重罪人結城宗真”の証拠を隠匿し、逃亡幇助を行った容疑」
澪の目が鋭くなる。
(もう、私も“標的”……)
伊織が一歩前に出た。
「この者は私が預かる。奉行所への引き渡しは、上役の命を受けてからにしろ」
「坂東与力、勝手な真似は……」
「この件はすでに老中へ伝わっている。“上様ご覧の文”を、私はこれより差し出す」
その言葉に、奉行配下たちは動きを止めた。
澪は、その間隙に乗じて伊織に言った。
「……宗真様は、まだ……間に合いますか?」
「生きていれば、だ。あとは、我々が走るしかない」
伊織の瞳に、鋼のような決意があった。
「君が“渡してくれたもの”――命より重い。
だから俺は、命を張る」
◇ ◇ ◇
月が、静かに照っていた。
まるで何も知らぬ顔で、街を淡く照らすその光の下、
女の“覚悟”と男の“義”が、ひとつ交差した。
そして、宗真を巡る争いは――最終局面に向かって、動き出した。
月が高く、雲ひとつなく、風のない夜。
けれどその静けさが、まるで張り詰めた絹のようで、少しでも何かに触れれば裂けてしまいそうな緊張が漂っていた。
澪は、蔵から持ち出した帳面の写しを、桐箱に納めていた。
今の彼女にとって、それは夫・宗真の“命”であり、同時に――“凶器”でもあった。
(これをどう守るか。どこに、誰に、託すか)
坂東伊織。
彼なら、信じられる。けれど、伊織に証を渡せば、事は表沙汰になる。
その瞬間、結城家にも、澪自身にも“取り返しのつかぬ結果”が及ぶ。
(私は……どこまで、踏み込むのか)
そのときだった。
◇ ◇ ◇
「……御寮人様」
おふさの声が、細く、切羽詰まっていた。
「勘解由様の使いが、北蔵に人を遣わされました」
澪の手が、わずかに震える。
(もう……知られた)
「また、門の者から……宗真様に“捕縛命”が下ったとの噂が――」
「捕縛命?」
「御奉行所より、宗真様が“幕府金蔵を荒らした重罪人”として指名手配に」
風が、澪の中に吹き抜けた。
宗真は、もはや“ただの失踪者”ではない。
その名は、町方にまで回され、見つけられ次第――捕らえられ、裁かれる身。
(間に合わなければ……宗真様は、“口を封じられる”)
「おふさ」
「……はい」
「桐箱を、坂東伊織様のもとへ。……今夜のうちに」
「御寮人様、それは……」
「もう、隠しておける段ではありません。
宗真様の命を、私たちだけで抱え込むことは、もうできない」
◇ ◇ ◇
夜更け、澪は屋敷の裏門から小者に紛れて出た。
顔を隠すために紺の被衣(かつぎ)を被り、手には何も持たず、ただ小さな和紙だけを懐に。
向かう先は――嶋屋。
伊織と落ち合うため、あえて“人目の少ない夜の市”の裏路地を選んだ。
途中、どこかで足音が重なった。
だが澪は歩みを止めなかった。
(この命が、宗真様の命とつながっている)
約束の辻を曲がったとき、静かに男の影が現れた。
「……結城澪殿」
その声に、澪の心がほどけた。
「伊織様……」
「来られるとは思っていたが……この道は危険だ」
「承知の上です。……これを、あなたに」
澪は、袖の中から和紙を取り出した。
宗真が遺した「帳面」の写し。
すべてを託す覚悟で、彼女は差し出した。
「……本当に、これを渡してよいのか?」
「はい。宗真様が、それを“世に問うてほしい”と願ったのです。
私の役目は、“義”を遺すこと。
夫の名を、ただの“逃亡者”にさせぬために」
伊織は、黙って和紙を受け取った。
その目は、澪の背中に宿った意志の炎を、確かに見ていた。
◇ ◇ ◇
その直後――
「結城澪、ここにいたか」
背後から低い声。振り返ると、複数の足音。
白羽織の町奉行配下たちが、通りの向こうに現れた。
「……お下がりください。町奉行の命により、あなたを捕らえる」
「何の咎で?」
「“重罪人結城宗真”の証拠を隠匿し、逃亡幇助を行った容疑」
澪の目が鋭くなる。
(もう、私も“標的”……)
伊織が一歩前に出た。
「この者は私が預かる。奉行所への引き渡しは、上役の命を受けてからにしろ」
「坂東与力、勝手な真似は……」
「この件はすでに老中へ伝わっている。“上様ご覧の文”を、私はこれより差し出す」
その言葉に、奉行配下たちは動きを止めた。
澪は、その間隙に乗じて伊織に言った。
「……宗真様は、まだ……間に合いますか?」
「生きていれば、だ。あとは、我々が走るしかない」
伊織の瞳に、鋼のような決意があった。
「君が“渡してくれたもの”――命より重い。
だから俺は、命を張る」
◇ ◇ ◇
月が、静かに照っていた。
まるで何も知らぬ顔で、街を淡く照らすその光の下、
女の“覚悟”と男の“義”が、ひとつ交差した。
そして、宗真を巡る争いは――最終局面に向かって、動き出した。
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