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第十四話 裏切りの約定(やくじょう)
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春の雨が、静かに降っていた。
花冷えの空は鉛色で、薄紅の椿の花びらも、土に沈むように濡れていた。
その日、澪のもとに一通の文が届いた。
筆跡は、かつて何度も見た、あの整った女手――篠原志乃。
「お目にかかりとうございます。
庭の紅椿、散る前に――」
文の下には、志乃がひとり住まう白金の別邸の名が記されていた。
それは、かつて宗真が通っていた茶事の席でもあり、志乃が“勝負の場”として選ぶ特別な場所だった。
(志乃様……あなたは何を、語るつもりですか)
◇ ◇ ◇
白金の屋敷は、雨に煙って静まり返っていた。
門をくぐると、人の気配は少なく、まるで澪一人のために空けられているようだった。
志乃は、庭に面した座敷で待っていた。
薄紅の地に金糸の椿が散らされた小袖。
その姿は変わらぬ華やぎと気品に満ちていたが、どこか――翳りがあった。
「お忙しい中、よくお越しくださいましたわね」
「お招き、ありがとうございます。……志乃様」
挨拶を交わしたあと、二人の間に沈黙が落ちた。
畳に響く雨音だけが、長い間を埋めていく。
「澪様。……私はね、ずっと、あなたを憎んでいたの」
志乃は急にそう言った。穏やかな口調のまま、まるで世間話のように。
「憎いのは、宗真様を奪ったからではないの。
あなたが、私より“先に諦めなかった”からよ」
澪は、静かに志乃の瞳を見た。
そこには怒りも羨望もなく、ただ――疲れ切った女の諦念があった。
「私は、“名家の御台”として生きるために、心を差し出した。
感情よりも家格、恋よりも権威を選んだ。
そのことを、誰にも咎められたくはなかったのよ」
「……それで、“帳”を受け取ったのですか?」
志乃は笑った。
「帳? 神田屋の金かしら。
……ええ、確かに受け取ったわ。“篠原”という家の存続のために。
私個人の欲など、とうに枯れていた」
「それが“義”とお思いですか?」
「“女の義”よ。……家を守るために、私たちは何を選べるの?
嫁いだ家に仕え、跡取りを産み、声高に笑わず、陰では血を流す。
それが、“武家の女”の生き方でしょう?」
その言葉に、澪の胸は騒いだ。
――たしかに、それは正論だった。
そして、自分がかつて信じていた“奥向きの美徳”でもあった。
けれど今の自分は、もう違っていた。
「私は、“家”のために生きることをやめました」
澪は、はっきりと告げた。
「宗真様の名を、家の道具にさせたくなかった。
だから私は、戦っています。あなたのように、誰かに“正しさ”をゆだねるのではなく、私自身の言葉で」
志乃は黙って澪を見ていた。
まるで、その言葉を、ずっと待っていたかのように。
◇ ◇ ◇
「……結城宗真という男は、愚かでした」
そう言って、志乃は立ち上がり、庭の椿を見つめた。
「家に尽くしても、真は届かず、正しさは踏みにじられる。
あの人は最後まで、自分の“理想”の中に生きていた。
けれどあなたは――現実の中でそれを守ろうとしている」
澪は、少しだけ目を伏せた。
「……宗真様を、いまも憎んでおられますか?」
「いいえ。
私は、もう憎むこともできない。
ただ、あの人の正しさに、“自分の人生が及ばなかった”のが……悔しかった」
その声は、かつての女としての“敗北宣言”に聞こえた。
「この文を、お持ちなさい」
志乃は、文机の引き出しから一通の文を出した。
それは、彼女自身が認めた――神田屋との金の受け渡しを示す内帳の一片だった。
「これは、私自身が記したもの。
あなたに渡すのは……“女としての約定”。
私が正しさから逃げた分、あなたに届けるのが、せめてもの償い」
澪は、その文を受け取った。
「ありがとう……ございます」
◇ ◇ ◇
雨が止んだ。
庭の椿がひとつ、音もなく落ちた。
女たちはそれぞれの立場を背負い、
それぞれの“義”を生きている。
澪は、志乃という鏡の中に、自らの姿を見た。
そして、ようやく自分の“女としての選択”に、迷いがなくなっていった。
(宗真様。私はあなたの正しさを、いまこの手で証明します)
そして、その時だった。
門のほうから、慌ただしい足音。
雨上がりの道を濡らしながら、伊織の使者が走ってきた。
「結城宗真殿が……見つかりました!」
澪の胸が大きく波打った。
花冷えの空は鉛色で、薄紅の椿の花びらも、土に沈むように濡れていた。
その日、澪のもとに一通の文が届いた。
筆跡は、かつて何度も見た、あの整った女手――篠原志乃。
「お目にかかりとうございます。
庭の紅椿、散る前に――」
文の下には、志乃がひとり住まう白金の別邸の名が記されていた。
それは、かつて宗真が通っていた茶事の席でもあり、志乃が“勝負の場”として選ぶ特別な場所だった。
(志乃様……あなたは何を、語るつもりですか)
◇ ◇ ◇
白金の屋敷は、雨に煙って静まり返っていた。
門をくぐると、人の気配は少なく、まるで澪一人のために空けられているようだった。
志乃は、庭に面した座敷で待っていた。
薄紅の地に金糸の椿が散らされた小袖。
その姿は変わらぬ華やぎと気品に満ちていたが、どこか――翳りがあった。
「お忙しい中、よくお越しくださいましたわね」
「お招き、ありがとうございます。……志乃様」
挨拶を交わしたあと、二人の間に沈黙が落ちた。
畳に響く雨音だけが、長い間を埋めていく。
「澪様。……私はね、ずっと、あなたを憎んでいたの」
志乃は急にそう言った。穏やかな口調のまま、まるで世間話のように。
「憎いのは、宗真様を奪ったからではないの。
あなたが、私より“先に諦めなかった”からよ」
澪は、静かに志乃の瞳を見た。
そこには怒りも羨望もなく、ただ――疲れ切った女の諦念があった。
「私は、“名家の御台”として生きるために、心を差し出した。
感情よりも家格、恋よりも権威を選んだ。
そのことを、誰にも咎められたくはなかったのよ」
「……それで、“帳”を受け取ったのですか?」
志乃は笑った。
「帳? 神田屋の金かしら。
……ええ、確かに受け取ったわ。“篠原”という家の存続のために。
私個人の欲など、とうに枯れていた」
「それが“義”とお思いですか?」
「“女の義”よ。……家を守るために、私たちは何を選べるの?
嫁いだ家に仕え、跡取りを産み、声高に笑わず、陰では血を流す。
それが、“武家の女”の生き方でしょう?」
その言葉に、澪の胸は騒いだ。
――たしかに、それは正論だった。
そして、自分がかつて信じていた“奥向きの美徳”でもあった。
けれど今の自分は、もう違っていた。
「私は、“家”のために生きることをやめました」
澪は、はっきりと告げた。
「宗真様の名を、家の道具にさせたくなかった。
だから私は、戦っています。あなたのように、誰かに“正しさ”をゆだねるのではなく、私自身の言葉で」
志乃は黙って澪を見ていた。
まるで、その言葉を、ずっと待っていたかのように。
◇ ◇ ◇
「……結城宗真という男は、愚かでした」
そう言って、志乃は立ち上がり、庭の椿を見つめた。
「家に尽くしても、真は届かず、正しさは踏みにじられる。
あの人は最後まで、自分の“理想”の中に生きていた。
けれどあなたは――現実の中でそれを守ろうとしている」
澪は、少しだけ目を伏せた。
「……宗真様を、いまも憎んでおられますか?」
「いいえ。
私は、もう憎むこともできない。
ただ、あの人の正しさに、“自分の人生が及ばなかった”のが……悔しかった」
その声は、かつての女としての“敗北宣言”に聞こえた。
「この文を、お持ちなさい」
志乃は、文机の引き出しから一通の文を出した。
それは、彼女自身が認めた――神田屋との金の受け渡しを示す内帳の一片だった。
「これは、私自身が記したもの。
あなたに渡すのは……“女としての約定”。
私が正しさから逃げた分、あなたに届けるのが、せめてもの償い」
澪は、その文を受け取った。
「ありがとう……ございます」
◇ ◇ ◇
雨が止んだ。
庭の椿がひとつ、音もなく落ちた。
女たちはそれぞれの立場を背負い、
それぞれの“義”を生きている。
澪は、志乃という鏡の中に、自らの姿を見た。
そして、ようやく自分の“女としての選択”に、迷いがなくなっていった。
(宗真様。私はあなたの正しさを、いまこの手で証明します)
そして、その時だった。
門のほうから、慌ただしい足音。
雨上がりの道を濡らしながら、伊織の使者が走ってきた。
「結城宗真殿が……見つかりました!」
澪の胸が大きく波打った。
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