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第十六話 雪解けの道
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夜明けの空に、淡い光が差しはじめていた。
春の訪れを知らせるかのように、朝の風はやわらかく、どこか湿り気を含んでいる。
澪は、小石混じりの路地を歩いていた。
踏みしめるごとに、草の芽がかすかに擦れる音がする。
その先には――宗真がいる。
宗真。
名を呼ぶことすら躊躇っていた日々が、澪の背中に幾重にも重なっていた。
逃げたとも、死んだとも知れぬ夫。
だが今は、ただ一つの事実がある。
――生きて、そこにいる。
◇ ◇ ◇
本所の旧寺。
薄曇りの朝の中、破れた障子と傾いた山門が、時の流れを物語っていた。
伊織が案内する奥の部屋。
扉を開けると、そこには、紺の羽織をまとったひとりの男が、静かに座っていた。
「……宗真様」
澪がその名を呼んだ瞬間、男の背がわずかに震えた。
ゆっくりと振り返る。
その顔は、変わっていた。
やせていた。
頬はこけ、髭が伸び、目元には疲労の色がにじんでいた。
だが、目だけは――何ひとつ変わっていなかった。
「……澪」
宗真が、確かにそう呼んだ。
◇ ◇ ◇
二人は、向かい合って座った。
間に何も置かず、言葉も交わさず、ただしばらくは静寂の中にあった。
最初に口を開いたのは、宗真だった。
「……会ってはならぬと思っていた。
私に下された“命”は、そう遠くないうちに執行される。
その前に、おまえの顔を見れば――気が揺れると、思っていた」
「揺れても構いません。人の命が懸かっているのです」
澪の声は静かだった。
「私は、あなたの証を見ました。蔵に残された帳面。
そして志乃様から託された文。
あなたが何を見て、何を守ろうとしたのか……全部、わかりました」
宗真は目を閉じた。
それは、何かから目をそらすためではなく、過去と現在をひとつに結ぶための静寂だった。
「澪……おまえは、変わったな」
「変わりました。あなたが、そうさせたのです」
「おまえは、静かな庭の花だった。
風に揺れず、雨に濡れても崩れず、ただ咲き続けるような……」
「でも、今は風の中に立っています」
その言葉に、宗真の目がかすかに潤んだ。
◇ ◇ ◇
「老中の裁可は?」
「まだ下っていません。けれど、伊織様が“文”を渡してくれました。
あなたの証は、しかと届いたのです」
「……ならば、私は生き延びてしまうかもしれぬな」
「生きてください。――生きて、私の隣に立ってください」
その瞬間、宗真の指が、澪の手に触れた。
冷たい手だった。けれど、そのぬくもりは確かにあった。
「私は、おまえに“生きる義”を見せることができただろうか」
「ええ。十分すぎるほどに」
ふたりの間に、春の光が差し込んだ。
それは、雪解けの兆し。
長く凍てついていた時が、ゆっくりと溶け始める瞬間だった。
◇ ◇ ◇
だが――その帰り道、伊織が静かに言った。
「……裁可が下りた」
「……どう、なりましたか」
「宗真殿は、“流罪”となる」
澪の足が止まった。
死ではない。だが、再び江戸には戻れない。
名も捨て、家も捨て、遠国で静かに余生を送る――それが幕府の出した“情け”だった。
「……御寮人様」
「私は行きます」
澪の答えは即答だった。
「宗真様の妻としてではなく、ひとりの“女”として。
共に生きる。それが、私の選んだ道です」
◇ ◇ ◇
再び肩を並べたふたりの背を、春風が優しく押していた。
もう、帰る屋敷も、仕える家もない。
けれど、その足元には――確かに“ふたりの道”が延びていた。
椿の花が、咲き始めていた。
春の訪れを知らせるかのように、朝の風はやわらかく、どこか湿り気を含んでいる。
澪は、小石混じりの路地を歩いていた。
踏みしめるごとに、草の芽がかすかに擦れる音がする。
その先には――宗真がいる。
宗真。
名を呼ぶことすら躊躇っていた日々が、澪の背中に幾重にも重なっていた。
逃げたとも、死んだとも知れぬ夫。
だが今は、ただ一つの事実がある。
――生きて、そこにいる。
◇ ◇ ◇
本所の旧寺。
薄曇りの朝の中、破れた障子と傾いた山門が、時の流れを物語っていた。
伊織が案内する奥の部屋。
扉を開けると、そこには、紺の羽織をまとったひとりの男が、静かに座っていた。
「……宗真様」
澪がその名を呼んだ瞬間、男の背がわずかに震えた。
ゆっくりと振り返る。
その顔は、変わっていた。
やせていた。
頬はこけ、髭が伸び、目元には疲労の色がにじんでいた。
だが、目だけは――何ひとつ変わっていなかった。
「……澪」
宗真が、確かにそう呼んだ。
◇ ◇ ◇
二人は、向かい合って座った。
間に何も置かず、言葉も交わさず、ただしばらくは静寂の中にあった。
最初に口を開いたのは、宗真だった。
「……会ってはならぬと思っていた。
私に下された“命”は、そう遠くないうちに執行される。
その前に、おまえの顔を見れば――気が揺れると、思っていた」
「揺れても構いません。人の命が懸かっているのです」
澪の声は静かだった。
「私は、あなたの証を見ました。蔵に残された帳面。
そして志乃様から託された文。
あなたが何を見て、何を守ろうとしたのか……全部、わかりました」
宗真は目を閉じた。
それは、何かから目をそらすためではなく、過去と現在をひとつに結ぶための静寂だった。
「澪……おまえは、変わったな」
「変わりました。あなたが、そうさせたのです」
「おまえは、静かな庭の花だった。
風に揺れず、雨に濡れても崩れず、ただ咲き続けるような……」
「でも、今は風の中に立っています」
その言葉に、宗真の目がかすかに潤んだ。
◇ ◇ ◇
「老中の裁可は?」
「まだ下っていません。けれど、伊織様が“文”を渡してくれました。
あなたの証は、しかと届いたのです」
「……ならば、私は生き延びてしまうかもしれぬな」
「生きてください。――生きて、私の隣に立ってください」
その瞬間、宗真の指が、澪の手に触れた。
冷たい手だった。けれど、そのぬくもりは確かにあった。
「私は、おまえに“生きる義”を見せることができただろうか」
「ええ。十分すぎるほどに」
ふたりの間に、春の光が差し込んだ。
それは、雪解けの兆し。
長く凍てついていた時が、ゆっくりと溶け始める瞬間だった。
◇ ◇ ◇
だが――その帰り道、伊織が静かに言った。
「……裁可が下りた」
「……どう、なりましたか」
「宗真殿は、“流罪”となる」
澪の足が止まった。
死ではない。だが、再び江戸には戻れない。
名も捨て、家も捨て、遠国で静かに余生を送る――それが幕府の出した“情け”だった。
「……御寮人様」
「私は行きます」
澪の答えは即答だった。
「宗真様の妻としてではなく、ひとりの“女”として。
共に生きる。それが、私の選んだ道です」
◇ ◇ ◇
再び肩を並べたふたりの背を、春風が優しく押していた。
もう、帰る屋敷も、仕える家もない。
けれど、その足元には――確かに“ふたりの道”が延びていた。
椿の花が、咲き始めていた。
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