花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

naomikoryo

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第十七話 灯の落ちる刻(とき)

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 風が変わった。
 冬の鋭さはとうに去り、春の風は草の匂いを運ぶ。

 宗真と澪の旅支度は、静かに整えられていた。
 目立たぬよう、名を伏せ、ただ僅かな衣と文を包んで。

 「向かう先は、北の湯治場。小藩の外れにある小さな村です」

 伊織がそう言ったとき、澪は微笑んだ。

 「宗真様が“静かに過ごせる”場所であれば、それで十分です」

 「……宗真殿に“静けさ”は似合わぬ気もするが」

 伊織の冗談に、宗真もわずかに笑みを返した。

 けれど、その空気を打ち破るように、ひとつの報が入った。

 ――大石勘解由、切腹。

 ――篠原志乃、出家。

 

◇ ◇ ◇

 澪は、志乃のいる寺へと足を運んだ。
 山門をくぐると、春の陽が苔を照らし、薄紅の山椿が静かに咲いていた。

 奥の庵。
 そこには、剃髪し、白衣をまとった志乃の姿があった。

 「……お会いに来てくださったのですね」

 「志乃様……」

 志乃の顔には、悲しみも悔いもなかった。
 ただ、すべてを終えた者の静けさがあった。

 「大石様は、自らの責を負って腹を切られました。
  最後の一筆には、こうありました――
  “己が利のために筆を振るえば、義も人も殺す。
   宗英殿、宗真殿に遅れて、今ようやく己が罪を知る”と」

 澪は、そっと目を閉じた。

 「……大石様もまた、宗真様の名の前に、立ち尽くされたのですね」

 「ええ。……私も、そうでした。
  澪様、あなたが舞の夜に見せた“あの眼差し”――
  あれは、かつて私が目指し、けれど届かなかった場所でした」

 「志乃様……」

 「この世の何もかもを手にしても、人は“誇り”を持てなければ滅ぶ。
  それを、あなたが教えてくれました」

 志乃は、小さな包みを澪に差し出した。

 「これは、私が若き日に使っていた櫛です。
  どうか、あの方とあなたの旅の無事を、祈らせてください」

 澪は受け取り、深く頭を下げた。

 「……どうか、あなたにも、静かな日々がありますように」

 志乃は微笑んだ。

 「ようやく、“家”という呪縛から、女に戻れた気がします。
  遅すぎたけれど、それでも、これが私の終わりではなく――
  “始まり”であれば、と」

 

◇ ◇ ◇

 その夜。
 宗真と澪は、江戸を発った。

 馬車の音が遠ざかる中、伊織はひとり、町を見下ろす高台に立っていた。
 空には満月。どこまでも静かで、やさしかった。

 (宗真、澪。おまえたちは、ようやく“自分の名”で生きられる)

 かつて、正しさとは“他人に認められること”だと伊織は思っていた。
 けれど今、彼は知っている。

 正しさとは、自分で選び、自分で抱えて、生きていくものだと。

 

◇ ◇ ◇

 朝。
 山道に差し込む光の中で、宗真がぽつりと言った。

 「……まさか、またおまえと、こうして歩くとは思わなかった」

 「私も。けれど、何度でも、あなたと歩き直せます」

 澪は、微笑んで手を握った。

 ふたりの足元には、道がある。
 それはまだ細く、狭く、曲がりくねっているけれど――

 まっすぐに、ふたりを先へと導いていた。
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