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番外編① 志乃の選んだ夜
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襖の向こうに、風の音がかすかに通り抜けていた。
春とはいえ夜の気温はまだ肌寒く、白金の別邸の庭には椿が数輪、冷えた空気の中で咲き残っている。
その下を歩く気配が、ひとつ。
静かに灯された行灯の明かりの下、篠原志乃は硯に墨を落とし、文机の上で小さな一筆を認めていた。
「結城澪様。ご機嫌うるわしゅう――」
筆を止めた。
宛名に迷いがあったのではない。
ただ、自分がこれから何を記そうとしているのか、その意味を問い直す必要があった。
「……おまえは、どうして、まだ立っていられるの」
声にはならない声が、胸の内でふとこぼれた。
*
結城宗真。
志乃が生涯で、ただ一人、心の奥に“名を宿した”男。
幼い頃から互いを知っていた。
文の筆跡も、弓の構えも、癖の強い沈黙も――
彼の不器用な真面目さを、誰よりもよく知っていた。
けれど、志乃は選んだ。
宗真ではなく、家を。
恋ではなく、御台としての道を。
その選択に迷いはなかった。
誰のせいでもない。女であり、篠原の娘である自分にとって、それは当然の務めだった。
だが――
「澪」が、彼の隣に現れたとき。
その静かな微笑みが、志乃の胸をざわつかせた。
「この人は、愛を知らずとも、宗真様を想うのか」
「この人には、私が差し出したものが見えていない」
「なのに、宗真様はこの人に……心を」
その問いと、苛立ちと、嫉妬と、焦りが――
志乃の中で音もなく育っていった。
だが、澪は志乃に牙を向けなかった。
見下しも、はね返しもせず、ただ誠実に向き合ってきた。
その姿は、まるで“志乃がなれなかった志乃”のようだった。
*
帳面を手に入れたのは、偶然だった。
宗真が消える前夜、篠原家に届けられた荷の中に、一通の文が紛れていた。
家名の印もなく、送り手も不明――
けれどそこには、確かに宗真の筆跡があった。
「神田屋金入帳、篠原名義にて預かり記録あり」
それは、澪がやがて辿り着くことになる“第三の証”のひとつ。
本来なら、老中か町奉行に渡るはずのもの。
それが、自分の手元にある。
そして、そこには自らの名が記されていた。
「私が……宗真様の“敵”になったの?」
震える指で文を畳んだとき、志乃は初めて、自分の歩いてきた道の“意味”を見た。
守るべきは家で、名で、格式で――
それを選んだ結果が、“愛する者の命を奪う側”であること。
*
舞の会が明日に迫っていた。
家中の奥方たちが集まる場。
名家の女たちが舞を披露し、互いの「奥向きの格」を量る日。
その舞台に、志乃は澪を招いた。
――自らの意思で。
「私があなたを呼ばなければ、あなたはきっと、あのまま宗真様の傍に辿り着いた」
「でも、それでは……私は、ただ敗れるだけになる」
「だから、呼ぶ。
勝つためじゃない。――終えるために」
志乃は、筆を取った。
文はごく短く、丁寧で、何ひとつ感情を滲ませないように整えた。
> 「追憶の舞にて、皆様の御笑顔を賜りたく――」
文の終わりに添える言葉は、長く悩んだ。
だが、最後に記した一行がすべてだった。
「御寮人様の美しき所作、拝見叶いましたら幸甚に存じます」
それは、敗北を認める言葉ではない。
譲歩でもない。
ただ――敬意だった。
澪という女の、愛と誇りに向けた、唯一のまっすぐな敬意。
*
灯が落ちるころ、志乃は庭に出た。
椿の花が、ひとつ、音もなく落ちた。
それを拾い上げたとき、ふと宗真の声が聞こえた気がした。
「志乃。君は、今もあの頃のままだ」
――ちがう。
私は、もうあの頃の志乃ではない。
けれど、あの頃の志乃を“裏切った”わけでもない。
選び続けた。そのたびに、愛を殺し、名を生かし、誇りを隠し、微笑みだけを残してきた。
「澪様。
あなたがこの“文”を受け取るとき、どうか私を“敵”ではなく、“かつての女”として見てください」
「私は、ようやくあなたの強さを、受け入れられたのです」
◇ ◇ ◇
夜が明ける。
明日は舞の会。
それが、志乃が“武家の女”として人前に立つ、最後の舞になるだろう。
でも――悔いはない。
なぜなら、この夜をもって、志乃はようやく「己の名」を取り戻せた気がしたのだから。
春とはいえ夜の気温はまだ肌寒く、白金の別邸の庭には椿が数輪、冷えた空気の中で咲き残っている。
その下を歩く気配が、ひとつ。
静かに灯された行灯の明かりの下、篠原志乃は硯に墨を落とし、文机の上で小さな一筆を認めていた。
「結城澪様。ご機嫌うるわしゅう――」
筆を止めた。
宛名に迷いがあったのではない。
ただ、自分がこれから何を記そうとしているのか、その意味を問い直す必要があった。
「……おまえは、どうして、まだ立っていられるの」
声にはならない声が、胸の内でふとこぼれた。
*
結城宗真。
志乃が生涯で、ただ一人、心の奥に“名を宿した”男。
幼い頃から互いを知っていた。
文の筆跡も、弓の構えも、癖の強い沈黙も――
彼の不器用な真面目さを、誰よりもよく知っていた。
けれど、志乃は選んだ。
宗真ではなく、家を。
恋ではなく、御台としての道を。
その選択に迷いはなかった。
誰のせいでもない。女であり、篠原の娘である自分にとって、それは当然の務めだった。
だが――
「澪」が、彼の隣に現れたとき。
その静かな微笑みが、志乃の胸をざわつかせた。
「この人は、愛を知らずとも、宗真様を想うのか」
「この人には、私が差し出したものが見えていない」
「なのに、宗真様はこの人に……心を」
その問いと、苛立ちと、嫉妬と、焦りが――
志乃の中で音もなく育っていった。
だが、澪は志乃に牙を向けなかった。
見下しも、はね返しもせず、ただ誠実に向き合ってきた。
その姿は、まるで“志乃がなれなかった志乃”のようだった。
*
帳面を手に入れたのは、偶然だった。
宗真が消える前夜、篠原家に届けられた荷の中に、一通の文が紛れていた。
家名の印もなく、送り手も不明――
けれどそこには、確かに宗真の筆跡があった。
「神田屋金入帳、篠原名義にて預かり記録あり」
それは、澪がやがて辿り着くことになる“第三の証”のひとつ。
本来なら、老中か町奉行に渡るはずのもの。
それが、自分の手元にある。
そして、そこには自らの名が記されていた。
「私が……宗真様の“敵”になったの?」
震える指で文を畳んだとき、志乃は初めて、自分の歩いてきた道の“意味”を見た。
守るべきは家で、名で、格式で――
それを選んだ結果が、“愛する者の命を奪う側”であること。
*
舞の会が明日に迫っていた。
家中の奥方たちが集まる場。
名家の女たちが舞を披露し、互いの「奥向きの格」を量る日。
その舞台に、志乃は澪を招いた。
――自らの意思で。
「私があなたを呼ばなければ、あなたはきっと、あのまま宗真様の傍に辿り着いた」
「でも、それでは……私は、ただ敗れるだけになる」
「だから、呼ぶ。
勝つためじゃない。――終えるために」
志乃は、筆を取った。
文はごく短く、丁寧で、何ひとつ感情を滲ませないように整えた。
> 「追憶の舞にて、皆様の御笑顔を賜りたく――」
文の終わりに添える言葉は、長く悩んだ。
だが、最後に記した一行がすべてだった。
「御寮人様の美しき所作、拝見叶いましたら幸甚に存じます」
それは、敗北を認める言葉ではない。
譲歩でもない。
ただ――敬意だった。
澪という女の、愛と誇りに向けた、唯一のまっすぐな敬意。
*
灯が落ちるころ、志乃は庭に出た。
椿の花が、ひとつ、音もなく落ちた。
それを拾い上げたとき、ふと宗真の声が聞こえた気がした。
「志乃。君は、今もあの頃のままだ」
――ちがう。
私は、もうあの頃の志乃ではない。
けれど、あの頃の志乃を“裏切った”わけでもない。
選び続けた。そのたびに、愛を殺し、名を生かし、誇りを隠し、微笑みだけを残してきた。
「澪様。
あなたがこの“文”を受け取るとき、どうか私を“敵”ではなく、“かつての女”として見てください」
「私は、ようやくあなたの強さを、受け入れられたのです」
◇ ◇ ◇
夜が明ける。
明日は舞の会。
それが、志乃が“武家の女”として人前に立つ、最後の舞になるだろう。
でも――悔いはない。
なぜなら、この夜をもって、志乃はようやく「己の名」を取り戻せた気がしたのだから。
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