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番外編② 結城家、最後の一日
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朝の空が淡く白みはじめた頃、結城家の屋敷では、いつもと変わらぬように井戸の水を汲む音がしていた。
だが、その静けさは“いつもの朝”ではなかった。
台所には包丁の音がなく、表の掃除に出る者の声もない。
奥向きの女中たちは、誰からともなく手を止め、座敷の空気をただ見つめていた。
今日は、結城家が“終わる”日だった。
◇ ◇ ◇
「……ほんとうに、行かれてしまうのですね」
澪の前に座るのは、おふさ。
澪が嫁いで以来ずっと側に仕えていた女中頭である。
その手には、ひと包みの着物があった。
水浅葱色の地に、控えめな椿模様。
結城家の御寮人として最初に誂えた、澪の“迎え小袖”であった。
「……もうお使いにはなりませんでしょうけど、
私のなかでは、御寮人様といえば、これなのです」
「ありがとう。――おふさ。ずっと、私を支えてくださって」
おふさは、声もなく首を振った。
「支えていたのは、御寮人様の覚悟です。
最初のうちは、正直……“おっとりしたお嬢様”くらいにしか思っておりませんでした。
でも、宗真様がおいでにならなくなってから……
あの日から、すっかり、御寮人様の目が変わりました」
(“あの日”――)
澪は目を伏せた。
あの日、屋敷の奥で宗真の無言の出立を知り、何もできなかった自分。
声も上げず、追いもせず、ただ静かに膝を抱えた。
けれど、それを境に、自分は変わっていった。
女として、妻として、御寮人として――何かを選び、生き抜く者になった。
「おふさ。あなたがいてくれたから、私は立てました」
「いえ。私こそ、御寮人様の背で、“女中”という役目に誇りをもらったのです」
ふたりの言葉のあいだに、春の光が差し込んだ。
庭の紅椿が、音もなく揺れていた。
◇ ◇ ◇
中間頭の岡田仁兵衛は、屋敷の門前で長らく立ち尽くしていた。
その手には、木札が握られている。
「結城家邸 明日より召し上げ」と墨で書かれた札。
代々、武家奉公に生きた彼にとって、この家は“家族”であり“職場”であり“誇り”だった。
「……宗英様の代より、三十年。
まさか、こうもあっけなく屋敷が終わるとはな……」
仁兵衛は独りごちた。
家がなくなるということは、ただ建物が空になるのではない。
人々の“居場所”が消えるということ。
想い出も、矜持も、日々の規律も、行き場を失うということ。
「……せめて、宗真様と御寮人様が無事であれば……」
願いではなく、祈りだった。
男は小さく頭を垂れ、門札をそっと門に打ちつけた。
コトン、と乾いた音がした。
◇ ◇ ◇
一方、奥の間では、若い女中たちが小声で話し合っていた。
「……ねえ、私たち、これからどうなるのかな」
「田舎に帰るしかないわ。奉公先はもうないし……」
「でも、御寮人様がいなくなるって、まだ信じられない」
その中で、最年少の“おきよ”が、ぽつりと口を開いた。
「……ねえ。御寮人様って、幸せだったのかな」
沈黙が落ちた。
幸せ――
それを口にするには、あまりにも多くの涙と困難を見てきた。
嫁ぎ先で孤独に過ごし、夫は行方知れず。
家は断絶、世間の視線の中で、一人、家を支え続けた。
けれど――誰もその問いに「不幸だった」とは言えなかった。
「……私、もしあの人みたいになれるなら、
嫁ぐのも、悪くないって思う」
おきよの言葉に、皆が静かにうなずいた。
◇ ◇ ◇
澪は、ひとり座敷に座っていた。
婚礼の日から、日々を重ねたその空間。
床の間の掛け軸、庭に面した障子、香の染み付いた畳の匂い。
ここで、季節がいくつ巡っただろう。
ここで、幾度、夜を越えてきただろう。
襖が開く音。
そこに、宗真がいた。
かつての威風は削がれ、素朴な旅支度を身にまとった男。
だがその瞳には、どこまでも清らかな光が宿っていた。
「澪。――すまなかった」
「もう、いいのです」
澪は静かに微笑んだ。
「宗真様が、ここに戻ってくれただけで、私は十分です」
「もう一度、“夫婦”として歩めるだろうか」
「はい。いえ――
もう一度ではなく、ここからが“はじめて”なのだと思っています」
宗真の手が、澪の手に重ねられた。
その温もりは、どこまでも確かだった。
◇ ◇ ◇
やがて、日が傾いた。
屋敷には、静かに火がともされる。
それは、“結城家の灯”として最後のあかり。
女中たちは並び、澪と宗真を正座で見送った。
誰も声を上げなかった。
涙も抑えていた。
それは、別れではなく、“節目”として、胸に刻むべき瞬間だったから。
門が開かれたとき、庭の椿が一輪、ふたりの足元に落ちた。
澪はそれを拾い上げた。
「咲いていてくれて、ありがとう」
宗真がふと、手を伸ばした。
「この花の名を、私たちの“これから”に贈ろう」
「……紅椿」
「いや。――“再び咲くもの”という意味で、“更椿”と呼ぼう」
ふたりは笑った。
そして――結城家を、あとにした。
◇ ◇ ◇
翌朝。
屋敷には誰もいなかった。
紅椿の花だけが、静かに庭に咲いていた。
名家の最後の朝。
だがそれは、静かに終わったのではない。
新たな始まりへと向かう者たちが、自らの意思で“幕を引いた”日だった。
だが、その静けさは“いつもの朝”ではなかった。
台所には包丁の音がなく、表の掃除に出る者の声もない。
奥向きの女中たちは、誰からともなく手を止め、座敷の空気をただ見つめていた。
今日は、結城家が“終わる”日だった。
◇ ◇ ◇
「……ほんとうに、行かれてしまうのですね」
澪の前に座るのは、おふさ。
澪が嫁いで以来ずっと側に仕えていた女中頭である。
その手には、ひと包みの着物があった。
水浅葱色の地に、控えめな椿模様。
結城家の御寮人として最初に誂えた、澪の“迎え小袖”であった。
「……もうお使いにはなりませんでしょうけど、
私のなかでは、御寮人様といえば、これなのです」
「ありがとう。――おふさ。ずっと、私を支えてくださって」
おふさは、声もなく首を振った。
「支えていたのは、御寮人様の覚悟です。
最初のうちは、正直……“おっとりしたお嬢様”くらいにしか思っておりませんでした。
でも、宗真様がおいでにならなくなってから……
あの日から、すっかり、御寮人様の目が変わりました」
(“あの日”――)
澪は目を伏せた。
あの日、屋敷の奥で宗真の無言の出立を知り、何もできなかった自分。
声も上げず、追いもせず、ただ静かに膝を抱えた。
けれど、それを境に、自分は変わっていった。
女として、妻として、御寮人として――何かを選び、生き抜く者になった。
「おふさ。あなたがいてくれたから、私は立てました」
「いえ。私こそ、御寮人様の背で、“女中”という役目に誇りをもらったのです」
ふたりの言葉のあいだに、春の光が差し込んだ。
庭の紅椿が、音もなく揺れていた。
◇ ◇ ◇
中間頭の岡田仁兵衛は、屋敷の門前で長らく立ち尽くしていた。
その手には、木札が握られている。
「結城家邸 明日より召し上げ」と墨で書かれた札。
代々、武家奉公に生きた彼にとって、この家は“家族”であり“職場”であり“誇り”だった。
「……宗英様の代より、三十年。
まさか、こうもあっけなく屋敷が終わるとはな……」
仁兵衛は独りごちた。
家がなくなるということは、ただ建物が空になるのではない。
人々の“居場所”が消えるということ。
想い出も、矜持も、日々の規律も、行き場を失うということ。
「……せめて、宗真様と御寮人様が無事であれば……」
願いではなく、祈りだった。
男は小さく頭を垂れ、門札をそっと門に打ちつけた。
コトン、と乾いた音がした。
◇ ◇ ◇
一方、奥の間では、若い女中たちが小声で話し合っていた。
「……ねえ、私たち、これからどうなるのかな」
「田舎に帰るしかないわ。奉公先はもうないし……」
「でも、御寮人様がいなくなるって、まだ信じられない」
その中で、最年少の“おきよ”が、ぽつりと口を開いた。
「……ねえ。御寮人様って、幸せだったのかな」
沈黙が落ちた。
幸せ――
それを口にするには、あまりにも多くの涙と困難を見てきた。
嫁ぎ先で孤独に過ごし、夫は行方知れず。
家は断絶、世間の視線の中で、一人、家を支え続けた。
けれど――誰もその問いに「不幸だった」とは言えなかった。
「……私、もしあの人みたいになれるなら、
嫁ぐのも、悪くないって思う」
おきよの言葉に、皆が静かにうなずいた。
◇ ◇ ◇
澪は、ひとり座敷に座っていた。
婚礼の日から、日々を重ねたその空間。
床の間の掛け軸、庭に面した障子、香の染み付いた畳の匂い。
ここで、季節がいくつ巡っただろう。
ここで、幾度、夜を越えてきただろう。
襖が開く音。
そこに、宗真がいた。
かつての威風は削がれ、素朴な旅支度を身にまとった男。
だがその瞳には、どこまでも清らかな光が宿っていた。
「澪。――すまなかった」
「もう、いいのです」
澪は静かに微笑んだ。
「宗真様が、ここに戻ってくれただけで、私は十分です」
「もう一度、“夫婦”として歩めるだろうか」
「はい。いえ――
もう一度ではなく、ここからが“はじめて”なのだと思っています」
宗真の手が、澪の手に重ねられた。
その温もりは、どこまでも確かだった。
◇ ◇ ◇
やがて、日が傾いた。
屋敷には、静かに火がともされる。
それは、“結城家の灯”として最後のあかり。
女中たちは並び、澪と宗真を正座で見送った。
誰も声を上げなかった。
涙も抑えていた。
それは、別れではなく、“節目”として、胸に刻むべき瞬間だったから。
門が開かれたとき、庭の椿が一輪、ふたりの足元に落ちた。
澪はそれを拾い上げた。
「咲いていてくれて、ありがとう」
宗真がふと、手を伸ばした。
「この花の名を、私たちの“これから”に贈ろう」
「……紅椿」
「いや。――“再び咲くもの”という意味で、“更椿”と呼ぼう」
ふたりは笑った。
そして――結城家を、あとにした。
◇ ◇ ◇
翌朝。
屋敷には誰もいなかった。
紅椿の花だけが、静かに庭に咲いていた。
名家の最後の朝。
だがそれは、静かに終わったのではない。
新たな始まりへと向かう者たちが、自らの意思で“幕を引いた”日だった。
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