花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

naomikoryo

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番外編② 結城家、最後の一日

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 朝の空が淡く白みはじめた頃、結城家の屋敷では、いつもと変わらぬように井戸の水を汲む音がしていた。

 だが、その静けさは“いつもの朝”ではなかった。
 台所には包丁の音がなく、表の掃除に出る者の声もない。
 奥向きの女中たちは、誰からともなく手を止め、座敷の空気をただ見つめていた。

 今日は、結城家が“終わる”日だった。

 
◇ ◇ ◇

 「……ほんとうに、行かれてしまうのですね」

 澪の前に座るのは、おふさ。
 澪が嫁いで以来ずっと側に仕えていた女中頭である。

 その手には、ひと包みの着物があった。
 水浅葱色の地に、控えめな椿模様。
 結城家の御寮人として最初に誂えた、澪の“迎え小袖”であった。

 「……もうお使いにはなりませんでしょうけど、
  私のなかでは、御寮人様といえば、これなのです」

 「ありがとう。――おふさ。ずっと、私を支えてくださって」

 おふさは、声もなく首を振った。

 「支えていたのは、御寮人様の覚悟です。
  最初のうちは、正直……“おっとりしたお嬢様”くらいにしか思っておりませんでした。
  でも、宗真様がおいでにならなくなってから……
  あの日から、すっかり、御寮人様の目が変わりました」

 (“あの日”――)

 澪は目を伏せた。
 あの日、屋敷の奥で宗真の無言の出立を知り、何もできなかった自分。
 声も上げず、追いもせず、ただ静かに膝を抱えた。

 けれど、それを境に、自分は変わっていった。
 女として、妻として、御寮人として――何かを選び、生き抜く者になった。

 「おふさ。あなたがいてくれたから、私は立てました」

 「いえ。私こそ、御寮人様の背で、“女中”という役目に誇りをもらったのです」

 ふたりの言葉のあいだに、春の光が差し込んだ。
 庭の紅椿が、音もなく揺れていた。

 
◇ ◇ ◇

 中間頭の岡田仁兵衛は、屋敷の門前で長らく立ち尽くしていた。

 その手には、木札が握られている。
 「結城家邸 明日より召し上げ」と墨で書かれた札。

 代々、武家奉公に生きた彼にとって、この家は“家族”であり“職場”であり“誇り”だった。

 「……宗英様の代より、三十年。
  まさか、こうもあっけなく屋敷が終わるとはな……」

 仁兵衛は独りごちた。

 家がなくなるということは、ただ建物が空になるのではない。
 人々の“居場所”が消えるということ。
 想い出も、矜持も、日々の規律も、行き場を失うということ。

 「……せめて、宗真様と御寮人様が無事であれば……」

 願いではなく、祈りだった。
 男は小さく頭を垂れ、門札をそっと門に打ちつけた。

 コトン、と乾いた音がした。

 
◇ ◇ ◇

 一方、奥の間では、若い女中たちが小声で話し合っていた。

 「……ねえ、私たち、これからどうなるのかな」
 「田舎に帰るしかないわ。奉公先はもうないし……」
 「でも、御寮人様がいなくなるって、まだ信じられない」

 その中で、最年少の“おきよ”が、ぽつりと口を開いた。

 「……ねえ。御寮人様って、幸せだったのかな」

 沈黙が落ちた。

 幸せ――
 それを口にするには、あまりにも多くの涙と困難を見てきた。

 嫁ぎ先で孤独に過ごし、夫は行方知れず。
 家は断絶、世間の視線の中で、一人、家を支え続けた。

 けれど――誰もその問いに「不幸だった」とは言えなかった。

 「……私、もしあの人みたいになれるなら、
  嫁ぐのも、悪くないって思う」

 おきよの言葉に、皆が静かにうなずいた。

 
◇ ◇ ◇

 澪は、ひとり座敷に座っていた。

 婚礼の日から、日々を重ねたその空間。
 床の間の掛け軸、庭に面した障子、香の染み付いた畳の匂い。

 ここで、季節がいくつ巡っただろう。
 ここで、幾度、夜を越えてきただろう。

 襖が開く音。

 そこに、宗真がいた。

 かつての威風は削がれ、素朴な旅支度を身にまとった男。
 だがその瞳には、どこまでも清らかな光が宿っていた。

 「澪。――すまなかった」

 「もう、いいのです」

 澪は静かに微笑んだ。

 「宗真様が、ここに戻ってくれただけで、私は十分です」

 「もう一度、“夫婦”として歩めるだろうか」

 「はい。いえ――
  もう一度ではなく、ここからが“はじめて”なのだと思っています」

 宗真の手が、澪の手に重ねられた。
 その温もりは、どこまでも確かだった。

 
◇ ◇ ◇

 やがて、日が傾いた。

 屋敷には、静かに火がともされる。
 それは、“結城家の灯”として最後のあかり。

 女中たちは並び、澪と宗真を正座で見送った。

 誰も声を上げなかった。
 涙も抑えていた。
 それは、別れではなく、“節目”として、胸に刻むべき瞬間だったから。

 門が開かれたとき、庭の椿が一輪、ふたりの足元に落ちた。

 澪はそれを拾い上げた。

 「咲いていてくれて、ありがとう」

 宗真がふと、手を伸ばした。

 「この花の名を、私たちの“これから”に贈ろう」

 「……紅椿」

 「いや。――“再び咲くもの”という意味で、“更椿”と呼ぼう」

 ふたりは笑った。

 そして――結城家を、あとにした。

◇ ◇ ◇

 翌朝。
 屋敷には誰もいなかった。

 紅椿の花だけが、静かに庭に咲いていた。
 名家の最後の朝。

 だがそれは、静かに終わったのではない。
 新たな始まりへと向かう者たちが、自らの意思で“幕を引いた”日だった。
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