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番外編④ 坂東伊織、春の残響
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江戸の春は、いつも唐突に始まる。
まだ空気の底には冷気が残っていたが、町には梅の香が漂い始めていた。
白い花が揺れるたびに、伊織の胸の奥にある何かが、ひっそりと疼いた。
彼は今日、奉行所に最後の登庁をする。
この春限りで町方与力の職を辞し、城下から離れるのだ。
(長かったな。……いや、あっという間だったのかもしれぬ)
坂東伊織、三十六。
若くして与力に取り立てられ、下町から北町、南町とあらゆる案件を手掛けてきた。
盗人、放火、辻斬り、密売、果ては役人の不正――
法の枠の中で、人の業と向き合い続けてきた年月。
だが、ある家の断絶が、彼にとっての一区切りとなった。
――結城家。
かつての旗本、結城宗英の家。
そして、宗英の子にして不正金調査の果てに姿を消し、再び現れた男――宗真の家。
(あの家が終わり、彼らが去ったとき。俺の中でも、何かが終わった)
彼は静かに支度を整え、筆記帳を懐に入れて、屋敷を出た。
◇ ◇ ◇
奉行所の裏手にある「報告文庫」。
案件ごとの記録を収める蔵のような部屋。
伊織は最後の報告書をそこに収めるべく、机に向かって筆を取った。
「件名:結城宗真・結城澪、並びに結城家断絶に関する記録」
「報告者:坂東伊織」
「……本件、全ての記録を以て終結とする」
筆は滑らかだった。
だが、筆先に乗る言葉は重かった。
「彼らは、義を貫いた。
その義は、幕法において正義とされなかった。
だが、人として守るべきものは、確かにそこにあった」
(俺が守るべきだったものは、いったい何だったのだろう)
同僚たちは誰も責めなかった。
むしろ、伊織が「自ら職を退いた」ことに驚きすら見せていた。
だが、彼にとってこれは贖罪でもあり、区切りでもあった。
報告書を収め、彼は机を後にする。
◇ ◇ ◇
午後、伊織は足を結城家の屋敷跡へ向けていた。
門は外され、瓦も落ち、屋敷の骨組みがあらわになっている。
そこには、かつての奥向きの気配も、女中たちの声もない。
ただ、風が通り抜け、庭の椿だけが変わらず咲いていた。
(まだ咲いているのか)
あの日、宗真が澪を連れてこの屋敷を後にした。
何も言わず、誰も振り返らず。
まるで、すべてを「赦し」と「決別」で包んで、静かに去っていった。
(結局、俺は何もできなかった)
宗真に帳面を託された夜、彼は自分の正義が試されたと感じていた。
法に従い、奉行に報告するべきか。
それとも、彼らの信念に寄り添うか。
伊織は「待つ」ことを選んだ。
その選択が正しかったかどうかは、今でもわからない。
(俺は彼を“見逃した”のか、“救った”のか)
屋敷の奥庭へ足を運ぶ。
そこには、紅椿の古木があった。
枝の影に、見覚えのある石がある。
澪が、よくその石の上に腰かけて手習い帳を読んでいた。
ときに宗真が、その背を見つめていた。
(……あれほどの愛が、あったのだ)
思わず指先で石を撫でる。
ひんやりとしているが、不思議とやさしい感触だった。
◇ ◇ ◇
日が傾きかけたころ、伊織は屋敷を離れ、茶屋に立ち寄った。
宗真と初めて対面した場所でもある。
店主はもう代替わりしていたが、伊織の顔を見ると静かに頷いて席に通してくれた。
「……あの方々は、いかがなさっておられるので?」
不意に、茶を出した女将が尋ねた。
「……山のほうの草庵で、静かに暮らしておられるようです」
「そうですか。お幸せなのでしょうね」
伊織は返事をしなかった。
だが、表情にはかすかな安堵が浮かんでいた。
(たしかに、彼らは幸福になったのかもしれない)
だが、それでも――
(俺の心には、まだ春が来ていない)
そう思うと、胸の奥がわずかに痛んだ。
◇ ◇ ◇
夜。
屋敷に戻った伊織は、長年使ってきた文机の引き出しを開けた。
そこには一通の文があった。
宗真が、去る前に託してきたもの。
「もし、おまえが俺を“正す”立場にあるなら、そうしてくれていい。
だが、もし“生きる者”として見るなら――
この帳面は、誰かを守るためのものにしてくれ」
伊織はそれを読み返し、深く息を吐いた。
(……俺は、“生きる者”として、おまえを見たのだ)
◇ ◇ ◇
その夜、灯火の前で伊織はひとつの文をしたためた。
宛名はなかった。
ただ、誰かのために書いた言葉が並んでいた。
「正しさと、優しさは、ときに相容れない。
だが、どちらも“人の生”に必要なものだ。
私は、君たちを見て、それを知った」
文を畳み、火にくべた。
炎は、すぐにすべてを包んだ。
(この春、俺もまた――終わるのだ)
そして始まる、新たな道へと。
伊織は灯を落とし、深く静かに頭を垂れた。
夜は、なおも静かに江戸を包んでいた。
まだ空気の底には冷気が残っていたが、町には梅の香が漂い始めていた。
白い花が揺れるたびに、伊織の胸の奥にある何かが、ひっそりと疼いた。
彼は今日、奉行所に最後の登庁をする。
この春限りで町方与力の職を辞し、城下から離れるのだ。
(長かったな。……いや、あっという間だったのかもしれぬ)
坂東伊織、三十六。
若くして与力に取り立てられ、下町から北町、南町とあらゆる案件を手掛けてきた。
盗人、放火、辻斬り、密売、果ては役人の不正――
法の枠の中で、人の業と向き合い続けてきた年月。
だが、ある家の断絶が、彼にとっての一区切りとなった。
――結城家。
かつての旗本、結城宗英の家。
そして、宗英の子にして不正金調査の果てに姿を消し、再び現れた男――宗真の家。
(あの家が終わり、彼らが去ったとき。俺の中でも、何かが終わった)
彼は静かに支度を整え、筆記帳を懐に入れて、屋敷を出た。
◇ ◇ ◇
奉行所の裏手にある「報告文庫」。
案件ごとの記録を収める蔵のような部屋。
伊織は最後の報告書をそこに収めるべく、机に向かって筆を取った。
「件名:結城宗真・結城澪、並びに結城家断絶に関する記録」
「報告者:坂東伊織」
「……本件、全ての記録を以て終結とする」
筆は滑らかだった。
だが、筆先に乗る言葉は重かった。
「彼らは、義を貫いた。
その義は、幕法において正義とされなかった。
だが、人として守るべきものは、確かにそこにあった」
(俺が守るべきだったものは、いったい何だったのだろう)
同僚たちは誰も責めなかった。
むしろ、伊織が「自ら職を退いた」ことに驚きすら見せていた。
だが、彼にとってこれは贖罪でもあり、区切りでもあった。
報告書を収め、彼は机を後にする。
◇ ◇ ◇
午後、伊織は足を結城家の屋敷跡へ向けていた。
門は外され、瓦も落ち、屋敷の骨組みがあらわになっている。
そこには、かつての奥向きの気配も、女中たちの声もない。
ただ、風が通り抜け、庭の椿だけが変わらず咲いていた。
(まだ咲いているのか)
あの日、宗真が澪を連れてこの屋敷を後にした。
何も言わず、誰も振り返らず。
まるで、すべてを「赦し」と「決別」で包んで、静かに去っていった。
(結局、俺は何もできなかった)
宗真に帳面を託された夜、彼は自分の正義が試されたと感じていた。
法に従い、奉行に報告するべきか。
それとも、彼らの信念に寄り添うか。
伊織は「待つ」ことを選んだ。
その選択が正しかったかどうかは、今でもわからない。
(俺は彼を“見逃した”のか、“救った”のか)
屋敷の奥庭へ足を運ぶ。
そこには、紅椿の古木があった。
枝の影に、見覚えのある石がある。
澪が、よくその石の上に腰かけて手習い帳を読んでいた。
ときに宗真が、その背を見つめていた。
(……あれほどの愛が、あったのだ)
思わず指先で石を撫でる。
ひんやりとしているが、不思議とやさしい感触だった。
◇ ◇ ◇
日が傾きかけたころ、伊織は屋敷を離れ、茶屋に立ち寄った。
宗真と初めて対面した場所でもある。
店主はもう代替わりしていたが、伊織の顔を見ると静かに頷いて席に通してくれた。
「……あの方々は、いかがなさっておられるので?」
不意に、茶を出した女将が尋ねた。
「……山のほうの草庵で、静かに暮らしておられるようです」
「そうですか。お幸せなのでしょうね」
伊織は返事をしなかった。
だが、表情にはかすかな安堵が浮かんでいた。
(たしかに、彼らは幸福になったのかもしれない)
だが、それでも――
(俺の心には、まだ春が来ていない)
そう思うと、胸の奥がわずかに痛んだ。
◇ ◇ ◇
夜。
屋敷に戻った伊織は、長年使ってきた文机の引き出しを開けた。
そこには一通の文があった。
宗真が、去る前に託してきたもの。
「もし、おまえが俺を“正す”立場にあるなら、そうしてくれていい。
だが、もし“生きる者”として見るなら――
この帳面は、誰かを守るためのものにしてくれ」
伊織はそれを読み返し、深く息を吐いた。
(……俺は、“生きる者”として、おまえを見たのだ)
◇ ◇ ◇
その夜、灯火の前で伊織はひとつの文をしたためた。
宛名はなかった。
ただ、誰かのために書いた言葉が並んでいた。
「正しさと、優しさは、ときに相容れない。
だが、どちらも“人の生”に必要なものだ。
私は、君たちを見て、それを知った」
文を畳み、火にくべた。
炎は、すぐにすべてを包んだ。
(この春、俺もまた――終わるのだ)
そして始まる、新たな道へと。
伊織は灯を落とし、深く静かに頭を垂れた。
夜は、なおも静かに江戸を包んでいた。
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