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第1話『恋を忘れた月曜日』
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月曜の朝は、いつもより5分早く目覚ましをかける。
理由は一つ。
週の始まりに遅刻するわけにはいかない。
それだけで、他人の評価がガタつく気がしてしまうから。
(ああ、また始まる)
スーツの襟を整え、髪の毛を低めの位置でまとめる。
顔色を明るく見せるために、ピンクベージュの口紅だけは欠かさない。
完璧な外装を身につけて、私は「広報課・課長」としてのスイッチを入れる。
都内にあるPR会社「株式会社リヴェール」。
広報という立場上、社内外から目を向けられる機会は多い。
だから、私はいつでも“整った姿”でいなければならない。
誰よりも冷静で、ミスなく、感情を顔に出さない。
そういう「役割」を、私はもう7年近く続けている。
◆◇◆
「美園課長、おはようございます!」
エントランスを抜けた先のオフィスで、声をかけてきたのは、今期配属された新入社員の一人。
…いや、正確には中途採用だ。
まだ若いが、前職が出版社だったという経歴の持ち主。
「おはよう、瀬戸くん」
「今日は朝イチから定例会議でしたよね?
資料、昨日のうちに確認しておきました」
「ありがとう。助かるわ」
にこりと笑うその顔は、まだどこかあどけなさが残っていて、どこか頼りなく感じてしまう。
……けれど、仕事ぶりは丁寧で、こちらが予想するより一歩先を見て動くところがある。
(年下ってだけで甘く見てはいけないわね)
そんなことを思いながら、私は自席へと歩を進める。
◆◇◆
定例会議は、まぁ、可もなく不可もなく。
今期のプレス対応の件で少し口論もあったけれど、それもいつものこと。
私は、必要な時にだけ口を開き、的確な指摘を投げ、空気を凍らせることなく収束させた。
それが「私の仕事」だ。
昼休みも、上司との社外ミーティングも、午後のプレゼンも滞りなく終了。
そして、気づけば時刻は18時半。
「麗華~、今日あれだよね?セミナーってやつ」
ふいに声をかけてきたのは、同期の史佳だった。
総務部に異動してからも彼女とはよくランチを共にする仲。
既婚、二児の母。
恋愛にも結婚にも夢を抱かないリアリストで、口調は辛辣だけど、誰よりも温かい目で私を見てくれる人。
「……正直、帰りたい」
「わかる。でも、上から“参加者の一人として体験してこい”って指示でしょ?
麗華がやらないと説得力ないよ」
「まったく、なんで私なのよ……」
「まあまあ。恋愛系のセミナーなんて、むしろ楽しんできたら?
麗華、恋から遠ざかって久しいでしょ」
「余計なお世話よ」
「へぇ、じゃあ最近好きな人でもいた?」
「……」
「ね、黙る~。あーわかった、あたしが代表して言っとく。
“恋しようぜ!”」
「うるさい」
私はバッグを取り上げ、ため息をつく。
恋愛セミナーだなんて。
広報部の取り組みの一環とはいえ、なぜ私が?
企画名は――『大人の恋愛再教育プログラム』。
(なんて名前……)
恋愛を再教育されなきゃいけないほど、私は何かを失っているの?
いや、別に恋を否定しているわけじゃない。
ただ、仕事に全力で向き合っていたら、いつの間にか「恋愛」から遠ざかっていただけで。
(別に困ってなかったはずなのに)
◆◇◆
セミナー会場は、表参道のビルの一角。
エレベーターを上がると、まるで美容サロンのような洒落た空間が広がっていた。
受付を済ませると、スリッパに履き替え、名前のバッジを手渡される。
「美園 麗華さん、ですね。お席はこちらです」
通されたのは、半円状にイスが並ぶ円卓形式の会場。
参加者は男女半々。
年齢層はバラバラだけれど、みんな同じようにどこか緊張している。
(……みんな、恋を忘れた人たち?)
「皆さま、ようこそお越しくださいました」
ふと、前方から響いたのは、穏やかな声。
そこに立っていたのは、長身で細身、グレージュのジャケットを羽織った中性的な人物。
肌は透けるように白く、目はどこか無機質。
「わたくしが、今回のプログラムを担当する講師――椎名 寿(しいな・ひさし)と申します」
(あの人が……講師?)
軽く会釈をしただけで、場の空気が一瞬にして静まった。
この人、何者?
「この講座は、“恋愛に対して少し距離を置いている大人たち”のためのものです。
あなたが悪いわけでも、誰かが正しいわけでもありません。
ただ、“もう一度、自分を知る時間”を作っていただきます」
ふうん、と私は少しだけ興味を持った。
思ったより、マトモなことを言うのね。
「今日は初回なので、まずは簡単な恋愛タイプ診断から始めましょう」
◆◇◆
各席に配られたタブレットを使って、20問ほどの質問に答える形式。
「相手に好かれるより、嫌われないことを優先するか?」
「自分から感情を伝えるのは得意ですか?」
どれも微妙に答えにくい。
けれど、どこか私の心を突く。
(……ふざけてる。でも、ちょっと本当のこと言われてる気がする)
診断結果が表示される。
あなたの恋愛タイプ:自己犠牲型・回避傾向強め
(……は?)
その一言に、胸の奥がざらりとした。
恋愛を「面倒」と思うくせに、いざ誰かに求められれば断れない。
相手の顔色を見て、自分を抑えて、最後は疲れて終わる。
(……図星だ)
その瞬間、背中をとんと叩かれた気がして振り向く。
そこには、見慣れた顔があった。
「美園課長……あ、美園さん、ですね。やっぱり来てたんですね」
「瀬戸くん……どうして?」
「僕も“社外活動の一環で参加してみろ”って言われまして。
初日でまさか上司と遭遇するとは……運命ですかね?」
さらりと笑う顔に、私の胸がほんの少しだけ、ざわめいた。
(なに、この感じ……)
月曜の19時。
いつもなら、疲れた体を家に引きずるだけの時間。
でも、今日は違う。
私の中で、何かがほんの少し、動き出した気がした。
理由は一つ。
週の始まりに遅刻するわけにはいかない。
それだけで、他人の評価がガタつく気がしてしまうから。
(ああ、また始まる)
スーツの襟を整え、髪の毛を低めの位置でまとめる。
顔色を明るく見せるために、ピンクベージュの口紅だけは欠かさない。
完璧な外装を身につけて、私は「広報課・課長」としてのスイッチを入れる。
都内にあるPR会社「株式会社リヴェール」。
広報という立場上、社内外から目を向けられる機会は多い。
だから、私はいつでも“整った姿”でいなければならない。
誰よりも冷静で、ミスなく、感情を顔に出さない。
そういう「役割」を、私はもう7年近く続けている。
◆◇◆
「美園課長、おはようございます!」
エントランスを抜けた先のオフィスで、声をかけてきたのは、今期配属された新入社員の一人。
…いや、正確には中途採用だ。
まだ若いが、前職が出版社だったという経歴の持ち主。
「おはよう、瀬戸くん」
「今日は朝イチから定例会議でしたよね?
資料、昨日のうちに確認しておきました」
「ありがとう。助かるわ」
にこりと笑うその顔は、まだどこかあどけなさが残っていて、どこか頼りなく感じてしまう。
……けれど、仕事ぶりは丁寧で、こちらが予想するより一歩先を見て動くところがある。
(年下ってだけで甘く見てはいけないわね)
そんなことを思いながら、私は自席へと歩を進める。
◆◇◆
定例会議は、まぁ、可もなく不可もなく。
今期のプレス対応の件で少し口論もあったけれど、それもいつものこと。
私は、必要な時にだけ口を開き、的確な指摘を投げ、空気を凍らせることなく収束させた。
それが「私の仕事」だ。
昼休みも、上司との社外ミーティングも、午後のプレゼンも滞りなく終了。
そして、気づけば時刻は18時半。
「麗華~、今日あれだよね?セミナーってやつ」
ふいに声をかけてきたのは、同期の史佳だった。
総務部に異動してからも彼女とはよくランチを共にする仲。
既婚、二児の母。
恋愛にも結婚にも夢を抱かないリアリストで、口調は辛辣だけど、誰よりも温かい目で私を見てくれる人。
「……正直、帰りたい」
「わかる。でも、上から“参加者の一人として体験してこい”って指示でしょ?
麗華がやらないと説得力ないよ」
「まったく、なんで私なのよ……」
「まあまあ。恋愛系のセミナーなんて、むしろ楽しんできたら?
麗華、恋から遠ざかって久しいでしょ」
「余計なお世話よ」
「へぇ、じゃあ最近好きな人でもいた?」
「……」
「ね、黙る~。あーわかった、あたしが代表して言っとく。
“恋しようぜ!”」
「うるさい」
私はバッグを取り上げ、ため息をつく。
恋愛セミナーだなんて。
広報部の取り組みの一環とはいえ、なぜ私が?
企画名は――『大人の恋愛再教育プログラム』。
(なんて名前……)
恋愛を再教育されなきゃいけないほど、私は何かを失っているの?
いや、別に恋を否定しているわけじゃない。
ただ、仕事に全力で向き合っていたら、いつの間にか「恋愛」から遠ざかっていただけで。
(別に困ってなかったはずなのに)
◆◇◆
セミナー会場は、表参道のビルの一角。
エレベーターを上がると、まるで美容サロンのような洒落た空間が広がっていた。
受付を済ませると、スリッパに履き替え、名前のバッジを手渡される。
「美園 麗華さん、ですね。お席はこちらです」
通されたのは、半円状にイスが並ぶ円卓形式の会場。
参加者は男女半々。
年齢層はバラバラだけれど、みんな同じようにどこか緊張している。
(……みんな、恋を忘れた人たち?)
「皆さま、ようこそお越しくださいました」
ふと、前方から響いたのは、穏やかな声。
そこに立っていたのは、長身で細身、グレージュのジャケットを羽織った中性的な人物。
肌は透けるように白く、目はどこか無機質。
「わたくしが、今回のプログラムを担当する講師――椎名 寿(しいな・ひさし)と申します」
(あの人が……講師?)
軽く会釈をしただけで、場の空気が一瞬にして静まった。
この人、何者?
「この講座は、“恋愛に対して少し距離を置いている大人たち”のためのものです。
あなたが悪いわけでも、誰かが正しいわけでもありません。
ただ、“もう一度、自分を知る時間”を作っていただきます」
ふうん、と私は少しだけ興味を持った。
思ったより、マトモなことを言うのね。
「今日は初回なので、まずは簡単な恋愛タイプ診断から始めましょう」
◆◇◆
各席に配られたタブレットを使って、20問ほどの質問に答える形式。
「相手に好かれるより、嫌われないことを優先するか?」
「自分から感情を伝えるのは得意ですか?」
どれも微妙に答えにくい。
けれど、どこか私の心を突く。
(……ふざけてる。でも、ちょっと本当のこと言われてる気がする)
診断結果が表示される。
あなたの恋愛タイプ:自己犠牲型・回避傾向強め
(……は?)
その一言に、胸の奥がざらりとした。
恋愛を「面倒」と思うくせに、いざ誰かに求められれば断れない。
相手の顔色を見て、自分を抑えて、最後は疲れて終わる。
(……図星だ)
その瞬間、背中をとんと叩かれた気がして振り向く。
そこには、見慣れた顔があった。
「美園課長……あ、美園さん、ですね。やっぱり来てたんですね」
「瀬戸くん……どうして?」
「僕も“社外活動の一環で参加してみろ”って言われまして。
初日でまさか上司と遭遇するとは……運命ですかね?」
さらりと笑う顔に、私の胸がほんの少しだけ、ざわめいた。
(なに、この感じ……)
月曜の19時。
いつもなら、疲れた体を家に引きずるだけの時間。
でも、今日は違う。
私の中で、何かがほんの少し、動き出した気がした。
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