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第2話『ルールの外側で』
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「はぁ……」
火曜日の朝。
会社のエレベーターに乗り込んだ私は、小さく息をついた。
疲れているわけじゃない。ただ、昨夜のことがまだ心の中でくすぶっている。
(まさか、あんな場所で瀬戸くんに会うなんて)
社外セミナーで同席した、職場の後輩——瀬戸幸輝。
社内ではいつも丁寧で、年下ながらも礼儀正しい印象だった。
けれど、あの恋愛セミナーで見せた彼は、少し違っていた。
冗談を軽く口にしながらも、人の心を見抜くような目。
それに、私の診断結果を覗き見て、悪びれもせずこう言ったのだ。
『自己犠牲型、か……ああ、なんかわかる気がします。
美園さんって、いつも“与える側”っぽいですよね』
(……なんでそんなこと言えるのよ)
一瞬、図星を突かれた気がして、思わず目をそらしてしまった。
「美園課長、おはようございます」
「……おはよう」
会議室で資料を整理していると、背後から瀬戸くんの声が聞こえる。
昨日のセミナーで会ったばかりだというのに、なぜかその声がやけに近く感じる。
「昨日は、びっくりしましたね。まさか社外でお会いするなんて」
「……本当にね。偶然、というか」
「偶然でも、なんかよかったです。知ってる人がいた方が心強いですから」
彼の声はいつも通り柔らかく、自然体だった。
でも、私はどこかぎこちない笑みしか返せなかった。
(仕事中は、普通にして。職場では“課長”なんだから)
そう思っていたはずなのに、彼の「美園さん」という呼び方が耳に残って離れない。
◆◇◆
そして、次の月曜日。
セミナー第2回目の日がやってきた。
今週のテーマは「恋愛における自己理解」。
つまり、自分がどんな恋をして、どんな別れを経験してきたか、そこから何を学んだのかを知るという。
「皆さん、前回の診断結果、どうでしたか?」
椎名 寿の静かな声が会場に響く。
「自分では“恋愛に向いていない”と思っている方も多いでしょう。
でも、本当は“傷つくのが怖い”だけかもしれません」
(傷つくのが、怖い……)
私は手元のメモに視線を落とした。
思い返せば、私はいつも、相手に合わせてばかりだった。
笑って、許して、譲って、それで“いい彼女”を演じていた。
だけど最後には、「重い」「一緒にいると疲れる」と言われ、捨てられる。
(……そうやって、どこかで諦めた)
「では次に、“他者からの印象”を知るワークを行います」
椎名の声で、私は顔を上げる。
「お隣の方とペアを組んで、お互いに第一印象と“恋愛においてどんな人に見えるか”を言い合ってください」
(……え)
「え~と、では、はい、美園さんと瀬戸さん、ペアになってくださいね」
(まさかの、ここでも……)
横に座っていた瀬戸くんが、にこりと微笑む。
「よろしくお願いします、“美園さん”」
彼の声が、どこかいたずらっぽい。
「……こちらこそ」
私は目をそらしながら、うっすらと頷いた。
まずは、私が彼を評価する番。
「えっと……瀬戸くんは、穏やかで、距離感を大切にする人。
たぶん、恋愛でも相手の意見を尊重してくれそう」
「へぇ、そう見えるんですね。ありがとうございます」
「それに、柔らかい雰囲気があって……安心感がある。
近くにいて、疲れなさそう」
すると彼は少しだけ黙り、首をかしげた。
「なんか、褒めすぎじゃないですか?」
「事実を言ったまでよ」
「じゃあ、次は僕の番ですね」
私は内心(いやな予感)と思いながらも、黙って待つ。
「美園さんは……一見クールだけど、本当はすごく優しい人だと思います。
自分のことは後回しで、相手を優先しちゃう。
恋愛でもそうなんじゃないですか?」
(またそれ……)
「そして、たぶん……“我慢しすぎる人”」
(……)
言葉が喉に詰まる。
否定したかった。でも、できなかった。
「でも、それって素敵なことでもありますよ。
そんな風に誰かを思える人、そういないですから」
その言葉に、胸の奥が少しだけ、温かくなった気がした。
椎名が言っていた。
「他者からどう見えているかを知ることで、自分の恋愛のパターンがわかる」と。
(瀬戸くんには、私がどう見えているんだろう)
そう思った瞬間、自分の表情が少しだけ緩んでいることに気づいた。
◆◇◆
セミナーの終わり、会場を出ると、瀬戸くんが隣に並んできた。
「よかったら、このままコーヒーでもどうですか?
セミナーの復習も兼ねて」
私は一瞬、答えをためらう。
(……こうやって、恋が始まるの?)
「……じゃあ、少しだけ」
返事をした自分に、少しだけ驚いた。
カフェの灯りが温かくて、月曜の夜が、少しだけ優しく思えた。
火曜日の朝。
会社のエレベーターに乗り込んだ私は、小さく息をついた。
疲れているわけじゃない。ただ、昨夜のことがまだ心の中でくすぶっている。
(まさか、あんな場所で瀬戸くんに会うなんて)
社外セミナーで同席した、職場の後輩——瀬戸幸輝。
社内ではいつも丁寧で、年下ながらも礼儀正しい印象だった。
けれど、あの恋愛セミナーで見せた彼は、少し違っていた。
冗談を軽く口にしながらも、人の心を見抜くような目。
それに、私の診断結果を覗き見て、悪びれもせずこう言ったのだ。
『自己犠牲型、か……ああ、なんかわかる気がします。
美園さんって、いつも“与える側”っぽいですよね』
(……なんでそんなこと言えるのよ)
一瞬、図星を突かれた気がして、思わず目をそらしてしまった。
「美園課長、おはようございます」
「……おはよう」
会議室で資料を整理していると、背後から瀬戸くんの声が聞こえる。
昨日のセミナーで会ったばかりだというのに、なぜかその声がやけに近く感じる。
「昨日は、びっくりしましたね。まさか社外でお会いするなんて」
「……本当にね。偶然、というか」
「偶然でも、なんかよかったです。知ってる人がいた方が心強いですから」
彼の声はいつも通り柔らかく、自然体だった。
でも、私はどこかぎこちない笑みしか返せなかった。
(仕事中は、普通にして。職場では“課長”なんだから)
そう思っていたはずなのに、彼の「美園さん」という呼び方が耳に残って離れない。
◆◇◆
そして、次の月曜日。
セミナー第2回目の日がやってきた。
今週のテーマは「恋愛における自己理解」。
つまり、自分がどんな恋をして、どんな別れを経験してきたか、そこから何を学んだのかを知るという。
「皆さん、前回の診断結果、どうでしたか?」
椎名 寿の静かな声が会場に響く。
「自分では“恋愛に向いていない”と思っている方も多いでしょう。
でも、本当は“傷つくのが怖い”だけかもしれません」
(傷つくのが、怖い……)
私は手元のメモに視線を落とした。
思い返せば、私はいつも、相手に合わせてばかりだった。
笑って、許して、譲って、それで“いい彼女”を演じていた。
だけど最後には、「重い」「一緒にいると疲れる」と言われ、捨てられる。
(……そうやって、どこかで諦めた)
「では次に、“他者からの印象”を知るワークを行います」
椎名の声で、私は顔を上げる。
「お隣の方とペアを組んで、お互いに第一印象と“恋愛においてどんな人に見えるか”を言い合ってください」
(……え)
「え~と、では、はい、美園さんと瀬戸さん、ペアになってくださいね」
(まさかの、ここでも……)
横に座っていた瀬戸くんが、にこりと微笑む。
「よろしくお願いします、“美園さん”」
彼の声が、どこかいたずらっぽい。
「……こちらこそ」
私は目をそらしながら、うっすらと頷いた。
まずは、私が彼を評価する番。
「えっと……瀬戸くんは、穏やかで、距離感を大切にする人。
たぶん、恋愛でも相手の意見を尊重してくれそう」
「へぇ、そう見えるんですね。ありがとうございます」
「それに、柔らかい雰囲気があって……安心感がある。
近くにいて、疲れなさそう」
すると彼は少しだけ黙り、首をかしげた。
「なんか、褒めすぎじゃないですか?」
「事実を言ったまでよ」
「じゃあ、次は僕の番ですね」
私は内心(いやな予感)と思いながらも、黙って待つ。
「美園さんは……一見クールだけど、本当はすごく優しい人だと思います。
自分のことは後回しで、相手を優先しちゃう。
恋愛でもそうなんじゃないですか?」
(またそれ……)
「そして、たぶん……“我慢しすぎる人”」
(……)
言葉が喉に詰まる。
否定したかった。でも、できなかった。
「でも、それって素敵なことでもありますよ。
そんな風に誰かを思える人、そういないですから」
その言葉に、胸の奥が少しだけ、温かくなった気がした。
椎名が言っていた。
「他者からどう見えているかを知ることで、自分の恋愛のパターンがわかる」と。
(瀬戸くんには、私がどう見えているんだろう)
そう思った瞬間、自分の表情が少しだけ緩んでいることに気づいた。
◆◇◆
セミナーの終わり、会場を出ると、瀬戸くんが隣に並んできた。
「よかったら、このままコーヒーでもどうですか?
セミナーの復習も兼ねて」
私は一瞬、答えをためらう。
(……こうやって、恋が始まるの?)
「……じゃあ、少しだけ」
返事をした自分に、少しだけ驚いた。
カフェの灯りが温かくて、月曜の夜が、少しだけ優しく思えた。
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