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30)月のない夜の通学路
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月のない夜が、嫌いだった。
高校二年の秋。自転車で片道30分、田舎の道を通って塾へ通っていた。山と畑に囲まれた町で、街灯はまばら、夜になると空は完全な闇に沈む。とくに新月の夜は、前を照らす自転車のライトの光だけが、唯一の頼りだった。
その夜もそうだった。天気は晴れ、風はなし。だが月はなかった。
塾を出たのは午後9時すぎ。問題演習の解説が長引いてしまい、帰りは一人になった。友人のタカは先に帰ったし、他の塾生たちはみな、車で迎えに来た親の助手席に乗り込んでいた。
コンビニで缶コーヒーを買い、自販機の明かりで顔を照らしてみる。自分の顔が、どこか“平面的”に感じる。闇が深い夜には、何かが距離感を奪うような、そんな奇妙な錯覚があった。
俺はゆっくりとペダルをこぎ、山裾にのびる農道へと進んだ。昼間なら田んぼや林の緑が広がっている道だ。けれど、夜はまるで別世界になる。
音がない。
いや、自分のタイヤがアスファルトを擦る音、遠くで蛙の鳴く声、木々がわずかに揺れる音——それらはたしかに“聞こえている”。だがどれも、まるで耳元にあるようで、実際には距離を感じない。目も耳も、闇に沈んでいく。
そして——。
チリン。
鈴の音が、した。
小さな、かすかな、金属音。風鈴のような、いや違う。どこか湿っていて、空気に馴染まない音。
俺は一度、自転車を止めた。
振り返る。だが、そこには何もいない。まっすぐ伸びるアスファルトの一本道。背後には誰もいないし、前にも誰もいない。
……幻聴か? そう思って、もう一度ペダルを踏む。
チリン。
今度は、はっきり聞こえた。耳のすぐ後ろで鳴った気がする。俺は反射的に立ちこぎでスピードを上げた。タイヤの回転が音をかき消していく。
——だが。
チリン、チリン。
鈴の音は、ぴたりと俺の背後についてくる。
決して追い抜かず、決して離れず。タイヤが地面を擦る音、心臓の音に混じって、一定のリズムで「それ」は鳴り続けていた。
恐怖というものには段階がある。最初は「気のせいかもしれない」と思う。しかし、それが確信に変わった瞬間、人は凍りつく。
俺の背後には、何かがいる。
視線の隅に、揺らめく何かが見えた。黒い影のような、半透明のような、形容しがたい“気配”。自転車を止めて振り返れば、何かがそこに「いる」と、確信があった。
だが、止まれなかった。
夜の農道は果てしなく続いている。左には田んぼ、右には竹林。その奥には、ただただ、闇。
息が荒くなる。自転車のスピードをさらに上げ、風を切る音で耳をふさぐ。
けれど——。
チリン……チリン……
音は、止まなかった。
家まであと10分。なぜか、その距離が果てしなく感じられる。途中で何度もライトの照らす先に何かがいるような錯覚に襲われる。電柱の陰が“人の形”に見える。竹の葉が風で揺れ、“誰かが歩いているように”見える。
心臓が喉の奥で跳ねる。顔中に汗が流れた。
そして、曲がり角に差し掛かった時——。
自転車のライトが、**“人の足”**を照らした。
白くて細くて、土まみれの裸足。
その先にあるはずの体は、闇に溶けていた。だが、確かにそこに“立って”いた。
俺は急ブレーキをかけ、体が投げ出されるように転んだ。膝が焼けるように痛む。だが、それ以上に、目の前の“足”が動いた。
チリン……
足首につけられた鈴が、風もないのに揺れた。
その瞬間、俺は立ち上がり、叫びながら逃げ出した。自転車は放り出したまま、ただひたすらに走る。畦道を突っ切り、草をかき分けて、家への近道をひたすらに駆け抜けた。
家の明かりが見えた時、泣きそうになった。玄関の扉を蹴り開け、泥まみれのまま中に駆け込んだ。
母が驚いた顔でこちらを見る。
「どうしたの、あんた!」
「……鈴が……」
そう言って、俺は気を失った。
*
翌朝、母に言われて、自転車を取りに行った。
誰かが盗んでいないかと不安だったが、自転車はそこにあった。夜に俺が見た“足”のあたりに、奇妙なものが落ちていた。
小さな、赤い鈴。
泥と枯葉にまみれていたが、確かにそれは**“昨夜の音”**だった。
俺はそれを蹴り飛ばし、二度とその道を通らないと決めた。
*
月のない夜。
それから何度もあった。
だが、俺は絶対に一人では外に出なかった。
なぜなら、ある噂をあとから知ったのだ。
「あの農道では、月のない夜になると、亡くなった女の子が歩いてる」
「鈴の音を聞いたら、絶対に振り向いてはならない」
振り向いた者は、「替わりに連れて行かれる」という——
あの時、もし俺が自転車を止めていたら?
振り向いていたら?
鈴に手を伸ばしていたら?
そう思うたび、背中に冷たい汗が流れる。
そして今夜も——月は、出ていない。
高校二年の秋。自転車で片道30分、田舎の道を通って塾へ通っていた。山と畑に囲まれた町で、街灯はまばら、夜になると空は完全な闇に沈む。とくに新月の夜は、前を照らす自転車のライトの光だけが、唯一の頼りだった。
その夜もそうだった。天気は晴れ、風はなし。だが月はなかった。
塾を出たのは午後9時すぎ。問題演習の解説が長引いてしまい、帰りは一人になった。友人のタカは先に帰ったし、他の塾生たちはみな、車で迎えに来た親の助手席に乗り込んでいた。
コンビニで缶コーヒーを買い、自販機の明かりで顔を照らしてみる。自分の顔が、どこか“平面的”に感じる。闇が深い夜には、何かが距離感を奪うような、そんな奇妙な錯覚があった。
俺はゆっくりとペダルをこぎ、山裾にのびる農道へと進んだ。昼間なら田んぼや林の緑が広がっている道だ。けれど、夜はまるで別世界になる。
音がない。
いや、自分のタイヤがアスファルトを擦る音、遠くで蛙の鳴く声、木々がわずかに揺れる音——それらはたしかに“聞こえている”。だがどれも、まるで耳元にあるようで、実際には距離を感じない。目も耳も、闇に沈んでいく。
そして——。
チリン。
鈴の音が、した。
小さな、かすかな、金属音。風鈴のような、いや違う。どこか湿っていて、空気に馴染まない音。
俺は一度、自転車を止めた。
振り返る。だが、そこには何もいない。まっすぐ伸びるアスファルトの一本道。背後には誰もいないし、前にも誰もいない。
……幻聴か? そう思って、もう一度ペダルを踏む。
チリン。
今度は、はっきり聞こえた。耳のすぐ後ろで鳴った気がする。俺は反射的に立ちこぎでスピードを上げた。タイヤの回転が音をかき消していく。
——だが。
チリン、チリン。
鈴の音は、ぴたりと俺の背後についてくる。
決して追い抜かず、決して離れず。タイヤが地面を擦る音、心臓の音に混じって、一定のリズムで「それ」は鳴り続けていた。
恐怖というものには段階がある。最初は「気のせいかもしれない」と思う。しかし、それが確信に変わった瞬間、人は凍りつく。
俺の背後には、何かがいる。
視線の隅に、揺らめく何かが見えた。黒い影のような、半透明のような、形容しがたい“気配”。自転車を止めて振り返れば、何かがそこに「いる」と、確信があった。
だが、止まれなかった。
夜の農道は果てしなく続いている。左には田んぼ、右には竹林。その奥には、ただただ、闇。
息が荒くなる。自転車のスピードをさらに上げ、風を切る音で耳をふさぐ。
けれど——。
チリン……チリン……
音は、止まなかった。
家まであと10分。なぜか、その距離が果てしなく感じられる。途中で何度もライトの照らす先に何かがいるような錯覚に襲われる。電柱の陰が“人の形”に見える。竹の葉が風で揺れ、“誰かが歩いているように”見える。
心臓が喉の奥で跳ねる。顔中に汗が流れた。
そして、曲がり角に差し掛かった時——。
自転車のライトが、**“人の足”**を照らした。
白くて細くて、土まみれの裸足。
その先にあるはずの体は、闇に溶けていた。だが、確かにそこに“立って”いた。
俺は急ブレーキをかけ、体が投げ出されるように転んだ。膝が焼けるように痛む。だが、それ以上に、目の前の“足”が動いた。
チリン……
足首につけられた鈴が、風もないのに揺れた。
その瞬間、俺は立ち上がり、叫びながら逃げ出した。自転車は放り出したまま、ただひたすらに走る。畦道を突っ切り、草をかき分けて、家への近道をひたすらに駆け抜けた。
家の明かりが見えた時、泣きそうになった。玄関の扉を蹴り開け、泥まみれのまま中に駆け込んだ。
母が驚いた顔でこちらを見る。
「どうしたの、あんた!」
「……鈴が……」
そう言って、俺は気を失った。
*
翌朝、母に言われて、自転車を取りに行った。
誰かが盗んでいないかと不安だったが、自転車はそこにあった。夜に俺が見た“足”のあたりに、奇妙なものが落ちていた。
小さな、赤い鈴。
泥と枯葉にまみれていたが、確かにそれは**“昨夜の音”**だった。
俺はそれを蹴り飛ばし、二度とその道を通らないと決めた。
*
月のない夜。
それから何度もあった。
だが、俺は絶対に一人では外に出なかった。
なぜなら、ある噂をあとから知ったのだ。
「あの農道では、月のない夜になると、亡くなった女の子が歩いてる」
「鈴の音を聞いたら、絶対に振り向いてはならない」
振り向いた者は、「替わりに連れて行かれる」という——
あの時、もし俺が自転車を止めていたら?
振り向いていたら?
鈴に手を伸ばしていたら?
そう思うたび、背中に冷たい汗が流れる。
そして今夜も——月は、出ていない。
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