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第一話「紅梅香る日」
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春がようやく都に訪れた。だが、それは誰もが一斉に口にするような明るい歓びではなかった。
冷たい風が名残惜しげに路地を吹き抜け、まだ土の匂いを纏った朝露が庭の苔にしがみついている。
それでも、梅は咲いた。紅の濃い、まるで血潮のような一輪が、藤原高子の小さな邸の庭に咲いていた。
「姫様、着付けの支度が整いましたぞ」
小野いとの明るい声が障子の向こうから響く。高子は、静かに返事をして立ち上がった。
十二単を身につけるのは、何度経験しても息が詰まる。重ねた衣の重さよりも、それを身にまとう自分自身が、何者であるべきかを問われているようで、心のどこかがいつも疼いた。
今日の和歌会は、北の邸――父の遠縁にあたる藤原宗輔の屋敷で催される。
中流貴族の娘として生まれた高子には、そう頻繁に宮中の文芸に触れる機会はなかった。
だが、今回ばかりは別である。
「お父様のご縁も、たまには役に立つものですね」
高子は、苦笑まじりに呟いた。
父・藤原貞通は、決して高位ではなかったが、学問と文芸に通じた知識人として知られていた。
その名を通じて、ようやく娘である高子にも、都の文人たちが集う場が開かれたのである。
「姫様、本日は薄紅の表着でございます。下襲には白梅。これぞまさに“紅梅の装い”にございます」
いとがにこやかに声をかけながら、手早く装束を整えていく。
紅梅――春を告げる花の中でも、もっとも古く、もっとも艶やかで、そして儚い。
「…わたしの歌も、香るでしょうか」
「香りますとも。姫様のお歌は、きっとあの方の胸をうちますよ」
「…あの方、とは?」
「お忘れですか? 宗輔様のお孫君――藤原実通様。去年の賀状で詠まれた“冬木の枝に花咲きぬる”の一首、お見事でしたねえ」
高子は、わずかに顔を背けた。
たしかに、あの一首は心に残っていた。淡雪のような声で、静かに読み上げられた青年の歌。
華美ではない、だが端正で深く、まるで枯木にひとひらの希望を灯すようなあの言葉が、記憶にこびりついて離れない。
「…わたしとは、きっと違う」
高子はぽつりと呟いた。
「え?」
「いえ、なんでもないわ。行きましょう。春が…待っている」
邸を出ると、都の町はすでに賑わいを見せていた。
牛車の軋む音、庶民の笑い声、遠くから聞こえる琵琶の調べ――。
春の陽はまだ淡く、空は霞を帯びている。だが、光は確実に柔らかく、世界を少しずつ塗り替えていた。
宗輔の邸は、かつて公卿が暮らした広大な屋敷をそのまま受け継いでいる。
庭は手入れが行き届き、池には早くも蓮の葉が顔を覗かせ、紅白の梅が交互に咲いている。
和歌会は書院の座敷で催されていた。
部屋にはすでに十人近い男女が集まり、思い思いの装束を身にまとい、香を焚いて静かに言葉を交わしていた。
「ようこそ、おいでくださった」
宗輔が微笑んで迎え、高子は深々と礼をする。
その視線の先、ふと目が合った一人の青年がいた。
墨染めの直衣に、控えめな金の縁取り。
切れ長の目に、あくまで静かな瞳。
そう、まさしく、あの時の――。
藤原実通。
高子は、無意識に視線を逸らしていた。
和歌会は、「春風」を題に詠むというものであった。
参加者は順に一首ずつ詠み、それに対して宗輔が講評を述べる形式。
若者から女房、老いた文人まで、それぞれの「春」を歌に託していた。
やがて、高子の番が回ってきた。
その瞬間、心がざわめく。衣の下、指先まで冷えた感覚が走る。
けれど、口を開いたとき、不思議と声は震えていなかった。
「しら風に ほころぶ梅の 色よりも 胸に咲きけり 春のけはひは」
一瞬、室内が静まった。
誰かの吐息が、香の香りとともに微かに揺れる。
宗輔が、ゆっくりと頷いた。
「見事なり。春を感じるのは目でも、鼻でもなく、心なり。
これは――ただの娘歌とは申せぬ。奥ゆかしくも、艶やかな香を漂わせた秀歌じゃ」
「お褒めにあずかり、光栄に存じます」
高子は頭を垂れたまま、その向こうから視線を感じた。
静かに、穏やかに、しかし確実に自分を見つめている目。
実通だった。
やがて、彼も一首を詠む。
「紅梅の 香にしみわたる 風の音 とどめし想い またも匂ひぬ」
それはまるで、返歌のようだった。
高子は、思わず顔を上げた。
彼の唇に、かすかな笑みが浮かんでいた。
だが、それは優しさというより、挑戦だった。
「君の春、私は受け取ったよ」と告げるような――。
高子の胸に、なにか熱いものが宿る。
この日、この時、この和歌を交わした瞬間に。
ひとつの「恋」と、ひとつの「運命」が、静かに動き始めていた。
(続く)
冷たい風が名残惜しげに路地を吹き抜け、まだ土の匂いを纏った朝露が庭の苔にしがみついている。
それでも、梅は咲いた。紅の濃い、まるで血潮のような一輪が、藤原高子の小さな邸の庭に咲いていた。
「姫様、着付けの支度が整いましたぞ」
小野いとの明るい声が障子の向こうから響く。高子は、静かに返事をして立ち上がった。
十二単を身につけるのは、何度経験しても息が詰まる。重ねた衣の重さよりも、それを身にまとう自分自身が、何者であるべきかを問われているようで、心のどこかがいつも疼いた。
今日の和歌会は、北の邸――父の遠縁にあたる藤原宗輔の屋敷で催される。
中流貴族の娘として生まれた高子には、そう頻繁に宮中の文芸に触れる機会はなかった。
だが、今回ばかりは別である。
「お父様のご縁も、たまには役に立つものですね」
高子は、苦笑まじりに呟いた。
父・藤原貞通は、決して高位ではなかったが、学問と文芸に通じた知識人として知られていた。
その名を通じて、ようやく娘である高子にも、都の文人たちが集う場が開かれたのである。
「姫様、本日は薄紅の表着でございます。下襲には白梅。これぞまさに“紅梅の装い”にございます」
いとがにこやかに声をかけながら、手早く装束を整えていく。
紅梅――春を告げる花の中でも、もっとも古く、もっとも艶やかで、そして儚い。
「…わたしの歌も、香るでしょうか」
「香りますとも。姫様のお歌は、きっとあの方の胸をうちますよ」
「…あの方、とは?」
「お忘れですか? 宗輔様のお孫君――藤原実通様。去年の賀状で詠まれた“冬木の枝に花咲きぬる”の一首、お見事でしたねえ」
高子は、わずかに顔を背けた。
たしかに、あの一首は心に残っていた。淡雪のような声で、静かに読み上げられた青年の歌。
華美ではない、だが端正で深く、まるで枯木にひとひらの希望を灯すようなあの言葉が、記憶にこびりついて離れない。
「…わたしとは、きっと違う」
高子はぽつりと呟いた。
「え?」
「いえ、なんでもないわ。行きましょう。春が…待っている」
邸を出ると、都の町はすでに賑わいを見せていた。
牛車の軋む音、庶民の笑い声、遠くから聞こえる琵琶の調べ――。
春の陽はまだ淡く、空は霞を帯びている。だが、光は確実に柔らかく、世界を少しずつ塗り替えていた。
宗輔の邸は、かつて公卿が暮らした広大な屋敷をそのまま受け継いでいる。
庭は手入れが行き届き、池には早くも蓮の葉が顔を覗かせ、紅白の梅が交互に咲いている。
和歌会は書院の座敷で催されていた。
部屋にはすでに十人近い男女が集まり、思い思いの装束を身にまとい、香を焚いて静かに言葉を交わしていた。
「ようこそ、おいでくださった」
宗輔が微笑んで迎え、高子は深々と礼をする。
その視線の先、ふと目が合った一人の青年がいた。
墨染めの直衣に、控えめな金の縁取り。
切れ長の目に、あくまで静かな瞳。
そう、まさしく、あの時の――。
藤原実通。
高子は、無意識に視線を逸らしていた。
和歌会は、「春風」を題に詠むというものであった。
参加者は順に一首ずつ詠み、それに対して宗輔が講評を述べる形式。
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やがて、高子の番が回ってきた。
その瞬間、心がざわめく。衣の下、指先まで冷えた感覚が走る。
けれど、口を開いたとき、不思議と声は震えていなかった。
「しら風に ほころぶ梅の 色よりも 胸に咲きけり 春のけはひは」
一瞬、室内が静まった。
誰かの吐息が、香の香りとともに微かに揺れる。
宗輔が、ゆっくりと頷いた。
「見事なり。春を感じるのは目でも、鼻でもなく、心なり。
これは――ただの娘歌とは申せぬ。奥ゆかしくも、艶やかな香を漂わせた秀歌じゃ」
「お褒めにあずかり、光栄に存じます」
高子は頭を垂れたまま、その向こうから視線を感じた。
静かに、穏やかに、しかし確実に自分を見つめている目。
実通だった。
やがて、彼も一首を詠む。
「紅梅の 香にしみわたる 風の音 とどめし想い またも匂ひぬ」
それはまるで、返歌のようだった。
高子は、思わず顔を上げた。
彼の唇に、かすかな笑みが浮かんでいた。
だが、それは優しさというより、挑戦だった。
「君の春、私は受け取ったよ」と告げるような――。
高子の胸に、なにか熱いものが宿る。
この日、この時、この和歌を交わした瞬間に。
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