唐紅の風 ~平安の女流歌人の一生

naomikoryo

文字の大きさ
2 / 31

第二話「薄紅の恋」

しおりを挟む
その夜、高子はなかなか寝つけなかった。
障子の外に射す月の光が、夜具の白布に淡く映る。まるで雪の上に紅の衣が広がっているようで、思わず手を伸ばした。

「紅梅の 香にしみわたる 風の音 とどめし想い またも匂ひぬ」

あの歌が、胸の内を巡って離れない。
まるで自分の歌への返礼のようでありながら、それ以上に、自分という「人間」に向けて詠まれたような――そんな、錯覚にも似た確信。

(返歌だったのかしら?)

高子は枕元に置かれた小さな紙片をそっと開いた。
和歌会のあと、宗輔が贈ってくれた歌の控えの一部である。参加者それぞれの歌が墨で丁寧に書き写されていた。

高子の目は、自然と実通の一首に向かう。
筆の勢いは控えめで、端正な文字が並ぶ。が、末尾の「匂ひぬ」の三文字だけ、ほんのわずかに筆が滲んでいた。
まるで、迷いの末に強く置いたような。

「……想い、とどめし……」

呟いた言葉が、胸の奥をくすぐる。

いとがいれば、すぐに茶化しただろう。「これはきっと、姫様にぞっこんですな」と。
でも今は、自分の心のざわめきだけが、部屋に漂っていた。

それは恋なのか、それとも……憧れなのか。
高子には、まだよくわからなかった。

 

 

翌朝、邸の庭では梅がさらに花開いていた。春の陽は、昨日よりも少しだけ強い。
高子は装束も簡素なものにし、濃茶の表着に白の小袿(こうちき)を羽織って筆を取っていた。

障子の向こうから、控えめに声がする。

「姫様。文が届いておりまする」

「文?」

高子は首を傾げる。
身内からの手紙なら、父か、叔母か、あるいは和歌の師である恵遍尼からか。
けれど、手渡された文を見て、胸が強く高鳴った。

――封に、香があった。

紅梅の香。あの夜、和歌会で焚かれていたのと同じもの。

高子は手を震わせながら封を切った。

 

風にまかせて心ひらけぬは
あまりに花の惜しきかな

実通

 

五七五七七の歌ではない。四行の、短い言葉。
だが、そこにははっきりと、「高子の心を知りたい」という意志があった。

高子は、筆を取った。けれど、すぐには書けなかった。
自分が何を感じているのか、自分でも分からないままだったからだ。

(わたしは……)

実通は美しい青年だ。和歌の才もある。家柄も申し分ない。
だが、高子とは違う。彼は、光の中にいる。
自分は……陰の側にいる人間ではないか。

「姫様、お返事なさるのですか?」

いとがいつのまにか部屋の片隅に座っていた。
その問いに、高子は迷いなく首を横に振った。

「いいえ。今は……返せないの」

「……では、お気持ちはあるということで?」

「……わからない。ただ……胸が、騒ぐの」

いとは小さく微笑んだ。それは大人びた、けれど優しい微笑だった。

「恋って、そういうもんです」

「恋、なのかしら……」

「恋ですよ。胸が騒ぐなら、間違いなく、恋です」

「……いとは、恋をしたことがあるの?」

「ええ、まぁ……一度くらいは。でも、叶いませんでした」

その言葉に、高子は顔を上げた。いとの目は、どこか遠くを見ていた。
侍女として、女房として、常に主を支える立場でありながら、彼女にもひとつの人生があったのだと、改めて感じた。

「だからこそ、姫様には……胸にしまわずに、ちゃんと詠ってほしいのです」

 

その日の夕暮れ、高子はついに一首を綴った。

風さそう 紅の花に まどひつつ
たれに香るや 春のけしきは

「…これで、よかったのでしょうか」

「ええ、十分すぎるほど、恋していますよ」

いとはに文を託し、実通のもとへ届けさせた。
返事が来るかどうか、それはもう、高子の手の届かないところにある。

 

 

三日後。

邸に戻ってきたいとの手には、返事はなかった。

「お屋敷の方によれば、御使いは受け取ったものの……実通様は、今日中には戻られぬとか。京極の方へ、急な用が入ったそうで」

高子は、無言でうなずいた。
返事がなかったことが、こんなにも胸に突き刺さるとは思わなかった。

(ああ、わたしは……もう、恋をしていたのだ)

知ってしまった。
言葉にすれば、自分の気持ちがどうしようもなく現実のものになってしまう。

けれど、それを表現する術を高子は持っている。
――和歌という名の、刃を。

その夜、高子はひとりで歌を詠んだ。誰にも見せない、誰にも渡さない、心の奥底に沈んだ一首。

 

しのぶれど 言の葉さえも 見えぬまま
風に散るなり 紅の初花

 

やがて夜が明ける。
薄紅の光が、また一日を照らす。

恋は、始まったばかり。
けれど、その色は――すでに、少しだけ切なかった。

 

(続く)
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

 【最新版】  日月神示

蔵屋
歴史・時代
 最近日月神示の予言本に不安を抱いている方もあると思うがまったく心配いらない。  何故なら日月神示では「取り越し苦労や過ぎ越し苦労はするな!」 「今に生きよ!」  「善一筋で生きよ!」  「身魂磨きをせよ!」  「人間の正しい生き方」  「人間の正しい食生活」  「人間の正しい夫婦のあり方」  「身も心も神さまからお借りしているのじゃから夜になって寝る前に神さまに一旦お返しするのじゃ。そうしたら身と心をどのようにしたらよいか、分かるじゃろ!」  たったのこれだけを守れば良いということだ。  根拠のない書籍や情報源等に惑わされてはダメだ。  日月神示も出口王仁三郎もそのようなことは一切言っていない。  これらの書籍や情報源は「日月神示」が警告する「臣民を惑わすものが出てくるから気をつけよ!」 という言葉に注目して欲しい。  今回、私は読者の皆さんに間違った解釈をされている日月神示を分かりやすく解説していくことにしました。  どうか、最後までお読み下さい。  日月神示の予言については、私が執筆中の「神典日月神示の真実」をお読み下さい。    

【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

蔵屋
歴史・時代
 わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。  何故、甲斐国なのか?  それは、日本を象徴する富士山があるからだ。     さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。  そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。  なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。  それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。  読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。  

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。 舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。 結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。 失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。 やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。 男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。 これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。 静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。 全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。

古書館に眠る手記

猫戸針子
歴史・時代
革命前夜、帝室図書館の地下で、一人の官僚は“禁書”を守ろうとしていた。 十九世紀オーストリア、静寂を破ったのは一冊の古手記。 そこに記されたのは、遠い宮廷と一人の王女の物語。 寓話のように綴られたその記録は、やがて現実の思想へとつながってゆく。 “読む者の想像が物語を完成させる”記録文学。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...