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第二話「薄紅の恋」
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その夜、高子はなかなか寝つけなかった。
障子の外に射す月の光が、夜具の白布に淡く映る。まるで雪の上に紅の衣が広がっているようで、思わず手を伸ばした。
「紅梅の 香にしみわたる 風の音 とどめし想い またも匂ひぬ」
あの歌が、胸の内を巡って離れない。
まるで自分の歌への返礼のようでありながら、それ以上に、自分という「人間」に向けて詠まれたような――そんな、錯覚にも似た確信。
(返歌だったのかしら?)
高子は枕元に置かれた小さな紙片をそっと開いた。
和歌会のあと、宗輔が贈ってくれた歌の控えの一部である。参加者それぞれの歌が墨で丁寧に書き写されていた。
高子の目は、自然と実通の一首に向かう。
筆の勢いは控えめで、端正な文字が並ぶ。が、末尾の「匂ひぬ」の三文字だけ、ほんのわずかに筆が滲んでいた。
まるで、迷いの末に強く置いたような。
「……想い、とどめし……」
呟いた言葉が、胸の奥をくすぐる。
いとがいれば、すぐに茶化しただろう。「これはきっと、姫様にぞっこんですな」と。
でも今は、自分の心のざわめきだけが、部屋に漂っていた。
それは恋なのか、それとも……憧れなのか。
高子には、まだよくわからなかった。
翌朝、邸の庭では梅がさらに花開いていた。春の陽は、昨日よりも少しだけ強い。
高子は装束も簡素なものにし、濃茶の表着に白の小袿(こうちき)を羽織って筆を取っていた。
障子の向こうから、控えめに声がする。
「姫様。文が届いておりまする」
「文?」
高子は首を傾げる。
身内からの手紙なら、父か、叔母か、あるいは和歌の師である恵遍尼からか。
けれど、手渡された文を見て、胸が強く高鳴った。
――封に、香があった。
紅梅の香。あの夜、和歌会で焚かれていたのと同じもの。
高子は手を震わせながら封を切った。
風にまかせて心ひらけぬは
あまりに花の惜しきかな
実通
五七五七七の歌ではない。四行の、短い言葉。
だが、そこにははっきりと、「高子の心を知りたい」という意志があった。
高子は、筆を取った。けれど、すぐには書けなかった。
自分が何を感じているのか、自分でも分からないままだったからだ。
(わたしは……)
実通は美しい青年だ。和歌の才もある。家柄も申し分ない。
だが、高子とは違う。彼は、光の中にいる。
自分は……陰の側にいる人間ではないか。
「姫様、お返事なさるのですか?」
いとがいつのまにか部屋の片隅に座っていた。
その問いに、高子は迷いなく首を横に振った。
「いいえ。今は……返せないの」
「……では、お気持ちはあるということで?」
「……わからない。ただ……胸が、騒ぐの」
いとは小さく微笑んだ。それは大人びた、けれど優しい微笑だった。
「恋って、そういうもんです」
「恋、なのかしら……」
「恋ですよ。胸が騒ぐなら、間違いなく、恋です」
「……いとは、恋をしたことがあるの?」
「ええ、まぁ……一度くらいは。でも、叶いませんでした」
その言葉に、高子は顔を上げた。いとの目は、どこか遠くを見ていた。
侍女として、女房として、常に主を支える立場でありながら、彼女にもひとつの人生があったのだと、改めて感じた。
「だからこそ、姫様には……胸にしまわずに、ちゃんと詠ってほしいのです」
その日の夕暮れ、高子はついに一首を綴った。
風さそう 紅の花に まどひつつ
たれに香るや 春のけしきは
「…これで、よかったのでしょうか」
「ええ、十分すぎるほど、恋していますよ」
いとはに文を託し、実通のもとへ届けさせた。
返事が来るかどうか、それはもう、高子の手の届かないところにある。
三日後。
邸に戻ってきたいとの手には、返事はなかった。
「お屋敷の方によれば、御使いは受け取ったものの……実通様は、今日中には戻られぬとか。京極の方へ、急な用が入ったそうで」
高子は、無言でうなずいた。
返事がなかったことが、こんなにも胸に突き刺さるとは思わなかった。
(ああ、わたしは……もう、恋をしていたのだ)
知ってしまった。
言葉にすれば、自分の気持ちがどうしようもなく現実のものになってしまう。
けれど、それを表現する術を高子は持っている。
――和歌という名の、刃を。
その夜、高子はひとりで歌を詠んだ。誰にも見せない、誰にも渡さない、心の奥底に沈んだ一首。
しのぶれど 言の葉さえも 見えぬまま
風に散るなり 紅の初花
やがて夜が明ける。
薄紅の光が、また一日を照らす。
恋は、始まったばかり。
けれど、その色は――すでに、少しだけ切なかった。
(続く)
障子の外に射す月の光が、夜具の白布に淡く映る。まるで雪の上に紅の衣が広がっているようで、思わず手を伸ばした。
「紅梅の 香にしみわたる 風の音 とどめし想い またも匂ひぬ」
あの歌が、胸の内を巡って離れない。
まるで自分の歌への返礼のようでありながら、それ以上に、自分という「人間」に向けて詠まれたような――そんな、錯覚にも似た確信。
(返歌だったのかしら?)
高子は枕元に置かれた小さな紙片をそっと開いた。
和歌会のあと、宗輔が贈ってくれた歌の控えの一部である。参加者それぞれの歌が墨で丁寧に書き写されていた。
高子の目は、自然と実通の一首に向かう。
筆の勢いは控えめで、端正な文字が並ぶ。が、末尾の「匂ひぬ」の三文字だけ、ほんのわずかに筆が滲んでいた。
まるで、迷いの末に強く置いたような。
「……想い、とどめし……」
呟いた言葉が、胸の奥をくすぐる。
いとがいれば、すぐに茶化しただろう。「これはきっと、姫様にぞっこんですな」と。
でも今は、自分の心のざわめきだけが、部屋に漂っていた。
それは恋なのか、それとも……憧れなのか。
高子には、まだよくわからなかった。
翌朝、邸の庭では梅がさらに花開いていた。春の陽は、昨日よりも少しだけ強い。
高子は装束も簡素なものにし、濃茶の表着に白の小袿(こうちき)を羽織って筆を取っていた。
障子の向こうから、控えめに声がする。
「姫様。文が届いておりまする」
「文?」
高子は首を傾げる。
身内からの手紙なら、父か、叔母か、あるいは和歌の師である恵遍尼からか。
けれど、手渡された文を見て、胸が強く高鳴った。
――封に、香があった。
紅梅の香。あの夜、和歌会で焚かれていたのと同じもの。
高子は手を震わせながら封を切った。
風にまかせて心ひらけぬは
あまりに花の惜しきかな
実通
五七五七七の歌ではない。四行の、短い言葉。
だが、そこにははっきりと、「高子の心を知りたい」という意志があった。
高子は、筆を取った。けれど、すぐには書けなかった。
自分が何を感じているのか、自分でも分からないままだったからだ。
(わたしは……)
実通は美しい青年だ。和歌の才もある。家柄も申し分ない。
だが、高子とは違う。彼は、光の中にいる。
自分は……陰の側にいる人間ではないか。
「姫様、お返事なさるのですか?」
いとがいつのまにか部屋の片隅に座っていた。
その問いに、高子は迷いなく首を横に振った。
「いいえ。今は……返せないの」
「……では、お気持ちはあるということで?」
「……わからない。ただ……胸が、騒ぐの」
いとは小さく微笑んだ。それは大人びた、けれど優しい微笑だった。
「恋って、そういうもんです」
「恋、なのかしら……」
「恋ですよ。胸が騒ぐなら、間違いなく、恋です」
「……いとは、恋をしたことがあるの?」
「ええ、まぁ……一度くらいは。でも、叶いませんでした」
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「だからこそ、姫様には……胸にしまわずに、ちゃんと詠ってほしいのです」
その日の夕暮れ、高子はついに一首を綴った。
風さそう 紅の花に まどひつつ
たれに香るや 春のけしきは
「…これで、よかったのでしょうか」
「ええ、十分すぎるほど、恋していますよ」
いとはに文を託し、実通のもとへ届けさせた。
返事が来るかどうか、それはもう、高子の手の届かないところにある。
三日後。
邸に戻ってきたいとの手には、返事はなかった。
「お屋敷の方によれば、御使いは受け取ったものの……実通様は、今日中には戻られぬとか。京極の方へ、急な用が入ったそうで」
高子は、無言でうなずいた。
返事がなかったことが、こんなにも胸に突き刺さるとは思わなかった。
(ああ、わたしは……もう、恋をしていたのだ)
知ってしまった。
言葉にすれば、自分の気持ちがどうしようもなく現実のものになってしまう。
けれど、それを表現する術を高子は持っている。
――和歌という名の、刃を。
その夜、高子はひとりで歌を詠んだ。誰にも見せない、誰にも渡さない、心の奥底に沈んだ一首。
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やがて夜が明ける。
薄紅の光が、また一日を照らす。
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けれど、その色は――すでに、少しだけ切なかった。
(続く)
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