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第三話「桜の宴」
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春の陽は、ますます柔らかさを増し、都のあちこちに桜が咲き誇っていた。
山桜、吉野桜、八重桜――どれもが空の青と混じりあい、まるで雲の切れ間に咲く幻のようだ。
今上天皇の御前にて催される「桜の宴」――それは、上級貴族から女房、そして才ある詩人たちまでもが招かれる一大文雅の祭典である。
高子のような中流貴族の娘が出席できるのは極めて稀なことだったが、今回は宗輔の推挙によって、女房の末席として参列が許された。
「姫様、今日は桃花襲(ももはながさね)で整えました。これが桜の宴にふさわしいと聞きまして」
いとは嬉しそうにそう言いながら、重ねた衣の襲ね色を整えていく。
表は淡い紅梅色、裏は白――桃の花と桜の花の中間のような、儚くも華やかな装いだった。
「……夢の中にいるようね」
「夢でも良いじゃありませんか。姫様がその真ん中にいるのですもの」
着付けを終えると、高子はふと庭に目をやった。
庭の桜はまだ五分咲きだったが、朝露を纏ったその花々は、どこか静かな艶を湛えていた。
宴が開かれる清涼殿の庭には、すでに数多くの客が集まっていた。
桜は満開で、風が吹くたびにひとひら、ふたひらと、白と薄紅の花びらが舞う。
緩やかな雅楽の音に乗って、香が焚かれ、春の空気が甘やかに満ちていた。
高子は、庭の隅に敷かれた薄紅の御簾の内に案内された。
見上げれば、枝垂桜が天から垂れてくるように咲いている。
「おや……お噂通りの、お姿ですね」
とつぜん、隣から聞き覚えのある声がした。
(……実通?)
振り向くと、そこには藤原実通がいた。
今日は直衣ではなく、桜色に金襴を縫い取った礼服姿。控えめながら、格の高さと洗練がにじむ装いだった。
「おひさしゅうございます、藤原高子様」
「……こちらこそ」
高子は自然と頭を垂れていた。
数日ぶりの再会。だが、互いに文を交わし、和歌を詠みあった仲としての再会は、これが初めてだった。
「先日の歌、見事でした」
実通はそう言いながら、目を細めた。
その瞳の奥に、静かな熱がある。高子は一瞬、目を逸らした。
「……お返事がなかったので、わたくしの歌は、届かなかったのかと思いました」
「いいえ。あれは、胸にしまいました。あまりにも……美しかったので」
(……ずるい人)
高子は、そんな言葉を胸の中で呟いた。
返事をしないことで期待をもたせ、再会の場でこうして胸を打つような一言を放つ。
それが計算であるにせよ、素であるにせよ、やはり彼は人を惹きつける。
「恋を詠むことと、恋をすることは、似ているようで違います」
「どういう意味でしょう?」
「歌は、どこまでいっても“言葉”です。でも、恋は――言葉では届かぬものを、時に望んでしまう」
高子の言葉に、実通はしばし沈黙した。
そして、低く呟いた。
「……では、私は言葉でしかあなたに触れられないのでしょうか」
その瞬間、風が吹いた。
桜の花びらがふたりの間を舞い、一瞬、視界が白と紅に染まる。
「実通様……」
「――和歌で、また、お会いしましょう」
そう言って、彼は静かに去っていった。
後ろ姿はどこか背中が重たく、それが高子の胸に引っかかった。
まるで、なにかを抱えているような――。
その日の夕暮れ、高子は邸に戻り、筆を取った。
宴で受けた感情を、どこかに閉じ込めておくには、和歌しかなかった。
桜舞ふ 夢の間に見し ひとの背に
言の葉までも とどかざりけり
(わたしは、触れたいのだ)
彼の「言葉」ではなく、「心」に。
けれど、それがどれほど難しいかも、今では少しずつ分かってきていた。
いとがそっとお茶を差し出しながら言った。
「姫様。実通様には……縁談の話があると、噂で聞きました」
「……そう」
高子は、予感していたその言葉に、大きく心を動かすことなく、ただ静かに頷いた。
「でも、まだ“噂”です。藤原家は家柄が多くて、どこも話だけ先に出るものですから」
いとの言葉に、慰めの色はあったが、確かな希望はなかった。
それで良いと思った。希望があるほど、心は乱れる。
「歌を詠むには、余白がいるわ。心の中に余白がないと、美しい言葉は生まれない」
高子は、そう言いながら、自身の胸に少しの余白を作ろうとしていた。
けれど、それはあまりに小さく、細く、桜の花びらの一片ほどの儚さしかなかった。
その夜、夢を見た。
桜の木の下で、実通が立っていた。
けれど、彼の背中には薄い白布がかかっていた。まるで、婚礼の装束のような。
高子は、言葉を発そうとした。けれど、声が出なかった。
声の代わりに、花びらが舞った。
それは言葉にもならぬ――恋のかたち。
(続く)
山桜、吉野桜、八重桜――どれもが空の青と混じりあい、まるで雲の切れ間に咲く幻のようだ。
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高子のような中流貴族の娘が出席できるのは極めて稀なことだったが、今回は宗輔の推挙によって、女房の末席として参列が許された。
「姫様、今日は桃花襲(ももはながさね)で整えました。これが桜の宴にふさわしいと聞きまして」
いとは嬉しそうにそう言いながら、重ねた衣の襲ね色を整えていく。
表は淡い紅梅色、裏は白――桃の花と桜の花の中間のような、儚くも華やかな装いだった。
「……夢の中にいるようね」
「夢でも良いじゃありませんか。姫様がその真ん中にいるのですもの」
着付けを終えると、高子はふと庭に目をやった。
庭の桜はまだ五分咲きだったが、朝露を纏ったその花々は、どこか静かな艶を湛えていた。
宴が開かれる清涼殿の庭には、すでに数多くの客が集まっていた。
桜は満開で、風が吹くたびにひとひら、ふたひらと、白と薄紅の花びらが舞う。
緩やかな雅楽の音に乗って、香が焚かれ、春の空気が甘やかに満ちていた。
高子は、庭の隅に敷かれた薄紅の御簾の内に案内された。
見上げれば、枝垂桜が天から垂れてくるように咲いている。
「おや……お噂通りの、お姿ですね」
とつぜん、隣から聞き覚えのある声がした。
(……実通?)
振り向くと、そこには藤原実通がいた。
今日は直衣ではなく、桜色に金襴を縫い取った礼服姿。控えめながら、格の高さと洗練がにじむ装いだった。
「おひさしゅうございます、藤原高子様」
「……こちらこそ」
高子は自然と頭を垂れていた。
数日ぶりの再会。だが、互いに文を交わし、和歌を詠みあった仲としての再会は、これが初めてだった。
「先日の歌、見事でした」
実通はそう言いながら、目を細めた。
その瞳の奥に、静かな熱がある。高子は一瞬、目を逸らした。
「……お返事がなかったので、わたくしの歌は、届かなかったのかと思いました」
「いいえ。あれは、胸にしまいました。あまりにも……美しかったので」
(……ずるい人)
高子は、そんな言葉を胸の中で呟いた。
返事をしないことで期待をもたせ、再会の場でこうして胸を打つような一言を放つ。
それが計算であるにせよ、素であるにせよ、やはり彼は人を惹きつける。
「恋を詠むことと、恋をすることは、似ているようで違います」
「どういう意味でしょう?」
「歌は、どこまでいっても“言葉”です。でも、恋は――言葉では届かぬものを、時に望んでしまう」
高子の言葉に、実通はしばし沈黙した。
そして、低く呟いた。
「……では、私は言葉でしかあなたに触れられないのでしょうか」
その瞬間、風が吹いた。
桜の花びらがふたりの間を舞い、一瞬、視界が白と紅に染まる。
「実通様……」
「――和歌で、また、お会いしましょう」
そう言って、彼は静かに去っていった。
後ろ姿はどこか背中が重たく、それが高子の胸に引っかかった。
まるで、なにかを抱えているような――。
その日の夕暮れ、高子は邸に戻り、筆を取った。
宴で受けた感情を、どこかに閉じ込めておくには、和歌しかなかった。
桜舞ふ 夢の間に見し ひとの背に
言の葉までも とどかざりけり
(わたしは、触れたいのだ)
彼の「言葉」ではなく、「心」に。
けれど、それがどれほど難しいかも、今では少しずつ分かってきていた。
いとがそっとお茶を差し出しながら言った。
「姫様。実通様には……縁談の話があると、噂で聞きました」
「……そう」
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けれど、それはあまりに小さく、細く、桜の花びらの一片ほどの儚さしかなかった。
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それは言葉にもならぬ――恋のかたち。
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