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第四話「ささやく風」
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その夜、風が強かった。
軒先に吊るされた竹風鈴が、しきりに鳴っていた。桜の花びらが風に吹かれて舞い、庭の砂利を細く滑る音すら、耳に残る。
高子は、硯の前に座っていた。筆は握っていたが、和歌は生まれなかった。
心の中に、言葉が降りてこない。
昼間、文机の抽斗にそっとしまった返歌――
「桜舞ふ 夢の間に見し ひとの背に 言の葉までも とどかざりけり」
あの一首すら、今では夢の残り香のように感じられた。
何をしていても、頭の片隅には実通のことが浮かぶ。
あの眼差し、あの声、宴で交わしたたった数句のやりとりが、まるで永遠にも感じられる。
(……わたしは、どうしてしまったのだろう)
かつて、和歌は高子にとって“避難所”だった。
外の世界がどれほど騒がしくても、己の内にある言葉を紙に落とせば、それだけで平穏を保てた。
けれど今は――
書こうとすればするほど、想いがこぼれ出して、形にならない。
そんなときだった。
ふすまが、控えめに音を立てて開いた。
「姫様。お部屋に灯を持ってまいりました」
小野いとの声だった。彼女は両手に燈台を持ち、部屋の隅に灯を置くと、そっと高子の傍に座った。
「……お歌が進まないのですね」
「ええ。まるで、風が心の中をかき乱しているようで」
「春の風は、恋の風でもありますもの」
いとは微笑んだが、その眼差しはどこか真剣だった。
「姫様。ひとつ、お訊ねしてもよろしいでしょうか」
「なに?」
「――実通様と結ばれたい、と本気でお思いですか?」
高子は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく首を振った。
「……“結ばれる”という言葉が、よくわからないの。
歌を交わしたいとは思う。声を聞きたいとも思う。顔を見たいとも……でも、それが“結ばれる”ということなのか、わたしにはまだ」
「それは……きっと、姫様が“真剣に”お想いだからですよ」
いとは、遠くを見つめるように言った。
「世の中には、手に入らぬと分かっていても、心がどうしようもなく惹かれてしまう人がいます。そういう人に出会ってしまったとき、人は“恋”に変わるんです。
でも……女という立場では、その恋を、抱き続けるわけにはいきません」
「……それは、経験から?」
「ええ。私にも、昔そういう人がいました。
私には何もないから、ただ見ていることしかできなかった。けれど、姫様は違う」
いとは、真っすぐな眼差しで高子を見た。
「姫様には、言葉があります。歌があります。
だから……どうか、心をしまいこまないでください。思っていることを、きちんと詠んでください。そうすれば、たとえ……実らぬ恋であっても、歌だけは残ります」
「……歌だけが、真実になるのね」
「はい。姫様が詠めば、それは永遠になります」
高子は、ふっと微笑んだ。
「……わたしの心のうちを、いとは本当によくわかるのね」
「それが、侍女というものです」
ふたりは笑った。灯の火が、微かに揺れた。まるで、その火が小さな恋の心を象っているようだった。
翌朝。
風は止んでいたが、空はやや曇っていた。
高子は装束を着替え、筆を携えて、久々に師である恵遍尼の庵を訪ねた。
賀茂川を越えた先、杉林の奥にひっそりと建つその庵は、かつて高子が和歌の道へ入るきっかけとなった場所でもあった。
「久しゅうございますな、高子殿」
恵遍尼は、齢七十を越えるとは思えぬほど凛とした声で迎えた。
白髪を高く結い、深い紫の袿を着て座すその姿には、世俗を離れながらも一線を引いた迫力があった。
「……歌が、詠めなくなりました」
高子はそう告げた。
「恋をしておりますの」
「ほう……それは、めでたい」
「……苦しゅうございます」
恵遍尼は静かに頷き、盃に白湯を注いだ。
「恋は、心を溶かす。だからこそ、言葉が流れにくくなる。
だが、いったん溶けてしまえば――その後は、泉のように湧く」
「それまでに、わたしの心が乾ききってしまったら?」
「そのときは、わたしがまた汲みに参ろうぞ」
高子は、ふと笑った。涙の代わりに、笑みが漏れた。
「師は……どうして、すべてをわかってくださるのでしょう」
「おまえはわたしの、歌の娘じゃ。
おまえの歌は、わたしの若き日を思い出させる。
――だから、迷いなさい。揺れなさい。
そして、歌で立ちなさい」
その帰り道、桜の花が一枚、肩に落ちた。
高子はその花びらを拾い、じっと見つめた。
柔らかく、薄く、はかなく、だが美しい。
その姿は、まるで自分の今の心のようだった。
邸に戻った高子は、硯を開いた。
その筆は、もう震えていなかった。
恋といふ 名にしをえぬも 春の風
ささやくごとに 香ぞ乱れゆく
心がようやく、言葉になった。
恋という名を知らぬままに揺れた日々。
けれど今、その名を受け入れたとき、風のように静かに、強く、高子の中で何かが芽吹いた。
(続く)
軒先に吊るされた竹風鈴が、しきりに鳴っていた。桜の花びらが風に吹かれて舞い、庭の砂利を細く滑る音すら、耳に残る。
高子は、硯の前に座っていた。筆は握っていたが、和歌は生まれなかった。
心の中に、言葉が降りてこない。
昼間、文机の抽斗にそっとしまった返歌――
「桜舞ふ 夢の間に見し ひとの背に 言の葉までも とどかざりけり」
あの一首すら、今では夢の残り香のように感じられた。
何をしていても、頭の片隅には実通のことが浮かぶ。
あの眼差し、あの声、宴で交わしたたった数句のやりとりが、まるで永遠にも感じられる。
(……わたしは、どうしてしまったのだろう)
かつて、和歌は高子にとって“避難所”だった。
外の世界がどれほど騒がしくても、己の内にある言葉を紙に落とせば、それだけで平穏を保てた。
けれど今は――
書こうとすればするほど、想いがこぼれ出して、形にならない。
そんなときだった。
ふすまが、控えめに音を立てて開いた。
「姫様。お部屋に灯を持ってまいりました」
小野いとの声だった。彼女は両手に燈台を持ち、部屋の隅に灯を置くと、そっと高子の傍に座った。
「……お歌が進まないのですね」
「ええ。まるで、風が心の中をかき乱しているようで」
「春の風は、恋の風でもありますもの」
いとは微笑んだが、その眼差しはどこか真剣だった。
「姫様。ひとつ、お訊ねしてもよろしいでしょうか」
「なに?」
「――実通様と結ばれたい、と本気でお思いですか?」
高子は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく首を振った。
「……“結ばれる”という言葉が、よくわからないの。
歌を交わしたいとは思う。声を聞きたいとも思う。顔を見たいとも……でも、それが“結ばれる”ということなのか、わたしにはまだ」
「それは……きっと、姫様が“真剣に”お想いだからですよ」
いとは、遠くを見つめるように言った。
「世の中には、手に入らぬと分かっていても、心がどうしようもなく惹かれてしまう人がいます。そういう人に出会ってしまったとき、人は“恋”に変わるんです。
でも……女という立場では、その恋を、抱き続けるわけにはいきません」
「……それは、経験から?」
「ええ。私にも、昔そういう人がいました。
私には何もないから、ただ見ていることしかできなかった。けれど、姫様は違う」
いとは、真っすぐな眼差しで高子を見た。
「姫様には、言葉があります。歌があります。
だから……どうか、心をしまいこまないでください。思っていることを、きちんと詠んでください。そうすれば、たとえ……実らぬ恋であっても、歌だけは残ります」
「……歌だけが、真実になるのね」
「はい。姫様が詠めば、それは永遠になります」
高子は、ふっと微笑んだ。
「……わたしの心のうちを、いとは本当によくわかるのね」
「それが、侍女というものです」
ふたりは笑った。灯の火が、微かに揺れた。まるで、その火が小さな恋の心を象っているようだった。
翌朝。
風は止んでいたが、空はやや曇っていた。
高子は装束を着替え、筆を携えて、久々に師である恵遍尼の庵を訪ねた。
賀茂川を越えた先、杉林の奥にひっそりと建つその庵は、かつて高子が和歌の道へ入るきっかけとなった場所でもあった。
「久しゅうございますな、高子殿」
恵遍尼は、齢七十を越えるとは思えぬほど凛とした声で迎えた。
白髪を高く結い、深い紫の袿を着て座すその姿には、世俗を離れながらも一線を引いた迫力があった。
「……歌が、詠めなくなりました」
高子はそう告げた。
「恋をしておりますの」
「ほう……それは、めでたい」
「……苦しゅうございます」
恵遍尼は静かに頷き、盃に白湯を注いだ。
「恋は、心を溶かす。だからこそ、言葉が流れにくくなる。
だが、いったん溶けてしまえば――その後は、泉のように湧く」
「それまでに、わたしの心が乾ききってしまったら?」
「そのときは、わたしがまた汲みに参ろうぞ」
高子は、ふと笑った。涙の代わりに、笑みが漏れた。
「師は……どうして、すべてをわかってくださるのでしょう」
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そして、歌で立ちなさい」
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柔らかく、薄く、はかなく、だが美しい。
その姿は、まるで自分の今の心のようだった。
邸に戻った高子は、硯を開いた。
その筆は、もう震えていなかった。
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恋という名を知らぬままに揺れた日々。
けれど今、その名を受け入れたとき、風のように静かに、強く、高子の中で何かが芽吹いた。
(続く)
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