唐紅の風 ~平安の女流歌人の一生

naomikoryo

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第六話「花散る宵に」

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夜の帳(とばり)が下りる頃、都の空は霞を含んだ薄墨色に染まり、遠く比叡の峰も輪郭をぼかしていた。
高子は几帳の向こう、灯りを落とした部屋でひとり、和歌の帳面を広げていた。

数日前に届いた小さな桜香の包み――返歌なき返礼。
それが彼からの「最後のことば」であるように、どこかで感じていた。
だが、それでもなお筆を置けぬのは、想いがまだ心に残っていたからだ。

そんな時、障子の外から足音が近づいてきた。控えめな音。いとだった。

「姫様……少し、よろしいでしょうか」

「ええ」

高子が顔を上げると、いとはいつになく真面目な面持ちで膝を折った。

「今夜、北の屋敷から、噂が参りました」

「……どなたの?」

いとはほんの一瞬、口を噤んだ。

「藤原実通様に……縁談がまとまりました、と」

高子は眉一つ動かさなかった。
だが、その沈黙は深く、長く、室内の空気をすうっと冷やしていった。

「……そう。どこの方?」

「賀陽(かや)家の姫君。従三位で、帝の遠縁にあたるそうです」

「立派な家柄ね。お似合いの方でしょう」

声は落ち着いていた。
けれど、いとはそれが作られたものだとすぐに分かった。

「姫様……」

「いと。わたしの心は、すでに“もらわれた”わけではないのよ。
たとえ手紙を出し、歌を送り、返事がなかったとしても――」

「でも、“あの方”もきっと……」

「わかってるわ」

高子は静かに言った。

「わたしは、実通様の心のすべてを欲したわけじゃない。
ただ――ほんの少しでも、あの方の言の葉のなかに、わたしが咲けたのなら、それでいい」

灯がゆらゆらと揺れ、几帳の陰に高子の横顔を映していた。
その顔には、哀しみと、どこか充足にも似た諦めが宿っていた。

 

それでも、夜は長い。

灯りを消しても、眠りは来なかった。
まぶたの裏に浮かぶのは、あの宴の夜――桜の下、実通が高子に向けて放った言葉。

『――和歌で、また、お会いしましょう』

あれはたしかに約束だった。けれど、「和歌で」と添えられたその一言は、言外にすでに距離を含んでいた。

(わたしは、それに気づきながら、気づかぬふりをしていた)

恋に落ちるとき、人は言葉を信じる。
だが、恋が終わるとき、人は言葉の“言わなかったこと”に気づくのだ。

 

翌朝、都に春の雨が降った。
桜はもう散り際を迎えており、道には白と薄紅の花びらが幾重にも積もっていた。

高子は、庭に下りて傘も差さずに花を見た。
地面に落ちた花弁には香も色も残っていたが、それはもう枝に咲いていた頃の華やかさではなかった。

いとが小さな包みを抱えてやって来た。

「姫様。昨日の和歌を、筆者に清書させました。……お納めください」

高子は頷き、受け取るとそっと包みを開いた。
昨日、彼の婚約を聞いた夜に綴った一首。心を整えるために、ただ己のためだけに詠んだ歌。

 

さだめなき 春の夜風に まどひつつ
花はただちに 土へとかへる

 

「……この歌、どこにも出さず、ただここに留めましょう」

「はい」

「それでも、歌は残る。心が咲いていた証に」

「姫様……」

いとは何も言わなかった。ただ、深く頭を下げた。

それは一つの終わりを認める礼だった。
恋の終わりは、必ずしも涙で閉じられるわけではない。
ときに、それは静けさの中で、花が土へと帰るように――美しく、そして静謐に幕を引くものだ。

 

その日の夕方、邸の奥で小さな和歌会が開かれた。
女房たちが集まり、それぞれ春の終わりを詠むという趣向。

高子はその末席で一首を詠んだ。

 

見し夢の 名残に香る 花の端(は)に
あやなく落ちし 色のさびしさ

 

その歌を聞いた誰もが、何かを感じ取ったようだったが、誰ひとり何も問わなかった。
それで良かった。歌は、答えを持たずに語るものである。

 

夜。
高子は机に向かい、筆を手に取った。
一枚の白紙に、そっと記す。

――藤原高子、ここにひとつの恋、結び終えたり。

言葉は、花のようなものだ。
咲くときも、散るときも、香りを残す。

高子は、その香りを胸に、また新たな歌を詠むのだろう。

 

(続く)

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