唐紅の風 ~平安の女流歌人の一生

naomikoryo

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第七話「月を抱く夢」

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その晩の月は、雲の切れ間から覗くようにして、蒼く輝いていた。

高子は几帳の陰に身を置き、夜風を避けるようにして座っていた。
空気は澄み渡り、木々の間を抜ける風が涼やかな音を立てている。

かつては、月を見ると実通の横顔を思い出した。
だが今は、月の光そのものが、言葉のように感じられる。

「……歌って、不思議ね」

ぽつりと、ひとりごとのように呟いた。

「花を見ても、月を見ても、誰かのことを思ってしまう」

返事はない。だが、そこには沈黙があった。
言葉にならぬ想いを受け止めるような、夜の静けさ。

そのとき、遠くから控えの女房が駆け足でやってきた。
手には小さな巻紙が握られている。

「姫様……今夜、白河院様がお召しでございます」

高子は顔を上げた。

「……わたくしを?」

「はい。宗輔様からのご内意にて、歌の才を御前にて披露していただきたいとのこと」

それは、ただの「お召し」ではなかった。
貴人が女を呼ぶとき、そこには三つの意味がある。
一は才を愛でるため。二は政を読むため。三は――人として、関心を抱いたため。

どれであるかは、会ってみなければわからない。

けれど高子の胸には、冷たい波が立っていた。
もはや少女ではない。実通との恋を終えた今、自分がこれから向かう場所がどういう世界であるか、うすうす感づいていた。

「参りましょう」

高子は静かに立ち上がった。

 

白河院の御所は、夜でも香が焚かれ、池の水に月が映るように設えられていた。
御簾の奥から聞こえる琴の音は、女性の指によるものではなく、若い楽士によるものだろう。だが、その響きには情念があった。

高子は女房に先導されて、月見の間へと通された。
灯りは抑えられ、燭台の火が揺れている。奥には白河院が一人、紫地に金糸を織り込んだ狩衣姿で座していた。

「……来たか」

院の声は、驚くほど低く、静かだった。
それでいて、どこか獣を思わせる響きがあった。

「高子にございます。お召しを賜り、光栄に存じます」

深く頭を垂れると、院はしばらく沈黙し、やがてひとつ息を吐いた。

「……あの歌、我がもとに届いたとき、久方ぶりに心が動いた。
“言の葉の奥に咲くものを、見た”と思うた」

「恐れ入ります」

「高子。お前は、何を思って歌を詠む」

「……言葉では、語れぬものが、心にあるからです」

「ほう。では、今ここで、わしを思うて一首詠んでみよ。
偽りなく、飾りなく。――心のままに」

静かな命だった。

だが、その一言に込められた力は、圧倒的だった。

高子は、わずかに息を吸い込み、目を伏せたまま、口を開いた。

 

さやけき月 しづかに胸を 照らしけり
よるべなき風 あつめてそよぐ

 

詠み終えた後も、しばらく沈黙が続いた。

やがて院が、低く笑った。

「……よろしい。まことに、よろしい。
これは“恋”ではない。“心の居場所”を詠んだのだな」

「はい」

「わしは、こういう女が好きだ」

その一言が、重く落ちた。
それは褒め言葉ではなかった。
審美でもなければ、賞賛でもない。

――選ばれた、ということだった。

「今宵は帰るがよい。だが、また呼ぶ。お前の和歌は、わしの心に灯を灯した」

高子は深く一礼し、部屋を下がった。

 

帰り道、いとは何も問わなかった。
ただ、御所の門を出たあと、小さく口を開いた。

「……お疲れになったでしょう」

「……ええ。でも、変な話ね。怖いという気持ちより、静かな波が胸にあるの」

「それは……受け入れた、ということですか?」

「わからない。
ただ、今夜の月は、少しだけわたしを許してくれた気がするの」

いとは、小さく微笑んだ。

「姫様は、もう“少女”ではなく、“歌の女”になったのです」

「……そうね」

高子は、空を見上げた。月はまだ雲の中にいた。

けれど、その光は確かに地上に届いていた。

 

さまよへど 月のひかりを まとひつつ
こころのいろを 知るは今なり

 

夜は深まる。
月を抱きしめた夢のような一夜が、確かに、高子の運命を変え始めていた。

 

(続く)
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