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第十話「風の中の誓い」
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夏を前にした都の風は、湿り気を帯びつつも、まだどこか春の名残を留めていた。
紅の裾をまとい始めてから、高子の周囲には目に見えぬ“重さ”が漂うようになった。
それは視線であり、噂であり、そして――無言の期待だった。
「姫様。今宵、宗輔様のお屋敷で私的な詠歌会が催されるそうです」
いとは、何気ない調子でそう言った。
けれど、高子はその背後にある“意図”をすぐに察した。
「……実通様も、来られるのね?」
「はい。先日、東国より戻られたとのこと。しばらくご静養を兼ねて、京にお戻りです」
高子は一度だけ目を伏せた。
胸の奥で、なにかが淡く揺れるのを感じた。それは恋の余韻というより、“物語の結び目”に触れるような感覚だった。
「――参りましょう」
そう答えた声は、静かで、決意に満ちていた。
宗輔邸の庭は、夕暮れの金色を受けて、緩やかに照らされていた。
青葉が風に揺れ、池に映る空が、時折その形を変えていく。
詠歌会は簡素な設えだった。集まったのは五名ほど。宗輔、実通、その友人、文人たち。
高子は一段下がった席に案内され、御簾の陰に座した。
そのとき――
「……ご無沙汰しております、藤原高子殿」
その声に、心臓が微かに跳ねた。
振り向けば、そこに藤原実通がいた。
衣はごく控えめな鼠の直衣。礼装ではなく、私的な場にふさわしい落ち着いた佇まい。
けれど、その眼差しには、かつてと変わらぬ深さがあった。
「ご無沙汰しております」
高子もまた、丁寧に頭を下げた。
ふたりの距離は、わずか数尺。
けれど、その数尺のあいだには、もう一度だけ触れたい“心の余白”が、たしかにあった。
詠歌会の題は「風」だった。
それは、偶然ではなかった。主催した宗輔が、あえて二人のために選んだのだろう。
一人ずつ順に詠み、言葉を交わしていく。
やがて、実通の番が回ってきた。
あはれなる 風のゆくへに まよひつつ
とどけぬこゑの 名残たづぬる
その一首を聞いたとき、高子の胸に、静かな風が吹いた。
それはまぎれもなく、あの手紙――言葉のなかった返礼――あの「桜香の包み」に対する返答だった。
時を経て、ようやく言葉となったその想い。
高子は目を伏せた。そして、口を開いた。
しるしなき 風にたぐへて おくる声
かへらぬものを 今ぞ知りける
その瞬間、庭に風が吹いた。
夏の兆しを孕んだ強い風。それが、二人の裾を揺らし、葉を鳴らし、そして静かにすべてを攫っていった。
やがて会が終わり、参加者が三々五々に去っていく中――
実通が、高子のもとへ静かに歩み寄った。
「――変わられましたね」
「……そうでしょうか」
「以前は、もっと……迷っておられた。
今のあなたは、もう“誰のものにもならない”気がする」
高子は微笑んだ。
「もう、誰のものにも“ならない”のではなく――
誰のものにも“されない”と決めたのです」
「……そのほうが、よほど強いですね」
ふたりの間には、それ以上の言葉はなかった。
けれど、ふと高子が視線を逸らしたとき、実通が小さな包みを差し出した。
「これは……?」
「あなたの初歌――“風にほころぶ梅”――
あれを書き写して、肌守りにしておりました。
もう、私には必要ありません。
これからは、あなたの歌が、誰よりもあなたを護るのでしょう」
高子は、そっとそれを受け取った。
「ありがとう。……では、これで」
「ええ。さようなら、高子様。
あなたの歌が、都を照らす光となりますように」
それが、本当の“終わり”だった。
帰路、いとは高子の傍らを歩きながら、ぽつりと問うた。
「……お別れ、でしたか?」
「ええ。もう、ふたりで詠む歌は、終わりました」
「おつらくは?」
高子は首を横に振った。
「違うの。ただ、風の中に“自分の声”が消えなかったことが、嬉しいの」
そして、懐に収めた包みを指で押さえながら、一首、つぶやいた。
風のなか たしかに残る ひとのこゑ
忘るることの ちからを知れり
今、高子はもう「恋に生きる娘」ではなかった。
風の中を立つ、ひとりの「歌の女」だった。
(続く)
紅の裾をまとい始めてから、高子の周囲には目に見えぬ“重さ”が漂うようになった。
それは視線であり、噂であり、そして――無言の期待だった。
「姫様。今宵、宗輔様のお屋敷で私的な詠歌会が催されるそうです」
いとは、何気ない調子でそう言った。
けれど、高子はその背後にある“意図”をすぐに察した。
「……実通様も、来られるのね?」
「はい。先日、東国より戻られたとのこと。しばらくご静養を兼ねて、京にお戻りです」
高子は一度だけ目を伏せた。
胸の奥で、なにかが淡く揺れるのを感じた。それは恋の余韻というより、“物語の結び目”に触れるような感覚だった。
「――参りましょう」
そう答えた声は、静かで、決意に満ちていた。
宗輔邸の庭は、夕暮れの金色を受けて、緩やかに照らされていた。
青葉が風に揺れ、池に映る空が、時折その形を変えていく。
詠歌会は簡素な設えだった。集まったのは五名ほど。宗輔、実通、その友人、文人たち。
高子は一段下がった席に案内され、御簾の陰に座した。
そのとき――
「……ご無沙汰しております、藤原高子殿」
その声に、心臓が微かに跳ねた。
振り向けば、そこに藤原実通がいた。
衣はごく控えめな鼠の直衣。礼装ではなく、私的な場にふさわしい落ち着いた佇まい。
けれど、その眼差しには、かつてと変わらぬ深さがあった。
「ご無沙汰しております」
高子もまた、丁寧に頭を下げた。
ふたりの距離は、わずか数尺。
けれど、その数尺のあいだには、もう一度だけ触れたい“心の余白”が、たしかにあった。
詠歌会の題は「風」だった。
それは、偶然ではなかった。主催した宗輔が、あえて二人のために選んだのだろう。
一人ずつ順に詠み、言葉を交わしていく。
やがて、実通の番が回ってきた。
あはれなる 風のゆくへに まよひつつ
とどけぬこゑの 名残たづぬる
その一首を聞いたとき、高子の胸に、静かな風が吹いた。
それはまぎれもなく、あの手紙――言葉のなかった返礼――あの「桜香の包み」に対する返答だった。
時を経て、ようやく言葉となったその想い。
高子は目を伏せた。そして、口を開いた。
しるしなき 風にたぐへて おくる声
かへらぬものを 今ぞ知りける
その瞬間、庭に風が吹いた。
夏の兆しを孕んだ強い風。それが、二人の裾を揺らし、葉を鳴らし、そして静かにすべてを攫っていった。
やがて会が終わり、参加者が三々五々に去っていく中――
実通が、高子のもとへ静かに歩み寄った。
「――変わられましたね」
「……そうでしょうか」
「以前は、もっと……迷っておられた。
今のあなたは、もう“誰のものにもならない”気がする」
高子は微笑んだ。
「もう、誰のものにも“ならない”のではなく――
誰のものにも“されない”と決めたのです」
「……そのほうが、よほど強いですね」
ふたりの間には、それ以上の言葉はなかった。
けれど、ふと高子が視線を逸らしたとき、実通が小さな包みを差し出した。
「これは……?」
「あなたの初歌――“風にほころぶ梅”――
あれを書き写して、肌守りにしておりました。
もう、私には必要ありません。
これからは、あなたの歌が、誰よりもあなたを護るのでしょう」
高子は、そっとそれを受け取った。
「ありがとう。……では、これで」
「ええ。さようなら、高子様。
あなたの歌が、都を照らす光となりますように」
それが、本当の“終わり”だった。
帰路、いとは高子の傍らを歩きながら、ぽつりと問うた。
「……お別れ、でしたか?」
「ええ。もう、ふたりで詠む歌は、終わりました」
「おつらくは?」
高子は首を横に振った。
「違うの。ただ、風の中に“自分の声”が消えなかったことが、嬉しいの」
そして、懐に収めた包みを指で押さえながら、一首、つぶやいた。
風のなか たしかに残る ひとのこゑ
忘るることの ちからを知れり
今、高子はもう「恋に生きる娘」ではなかった。
風の中を立つ、ひとりの「歌の女」だった。
(続く)
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