唐紅の風 ~平安の女流歌人の一生

naomikoryo

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第九話「紅の裾」

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夏の気配が、都の空気に混じり始めた。

早朝の庭に立てば、梅雨の湿気が襲ってくる前の、いっときの静けさ。
高子は朝露に濡れた石畳を裸足で踏みながら、ぼんやりと立ち尽くしていた。

淡い紅の小袿の裾が、地面を引きずる。
風もなく、音もなく――まるで、紅の裾が自身の重さだけで、地に染み込んでいくようだった。

そのとき、いとが控えの方から早足でやってきた。

「姫様。……お知らせがございます」

「なにかしら?」

「……白河院様より、紅の裾を染めた衣が届きました。
“御前にまいる折に、これを着されよ”との仰せです」

高子の手が、ぴたりと止まった。
その一言が、胸にずしりと沈んだ。

「紅の……裾」

それは、後宮で用いられる特別な装束のひとつだった。
とくに、“帝や院の寵を受けた女”に下される衣には、はっきりとした意図がある。

――これはもう、“私の女”であると、世に示すための色だった。

「いと……わたしは、まだなにも……なにもしていないのよ?」

「ええ、姫様は身体を差し出してなどおられません。
けれど、この衣は……院様が“そうあるように”望まれている証でございます」

「それは、命令?」

いとは少しだけ口ごもった。

「……強制ではありません。
ただ――拒めば、“詠む場”は、遠のくことでしょう」

高子は、しばらく沈黙した。
静かな庭に、鳥の声が遠く響く。朝の涼しさが、逆に胸に沁みる。

「わたしの言葉は、わたしのものだと思っていた。
けれど、こんなにも容易く“誰かのもの”にされてしまうのね」

いとは何も言わなかった。
彼女には、主人の心の痛みが、痛いほど分かっていたからだ。

 

その夜、紅の裾の衣が届けられた。
和紙に包まれたそれは、手に取るとわずかに重みがあり、紅の染めが深く艶やかだった。

高子は静かにその衣を膝に載せ、指先で触れた。
滑らかな絹の肌理。その柔らかさの奥に、見えない鎖のような重みがあった。

「――これは、衣ではなく、“誓い”のようなものね」

「姫様……」

「わたしが、この裾をまとったとき。
それは、和歌がわたしのものでなくなる“第一歩”になるのかもしれない」

「……いいえ。
姫様がそうと決めない限り、言葉はきっと、姫様のままでございます」

いとの声には、静かな強さがあった。

「衣を着ても、歌が奪われたわけではありません。
身体を差し出しても、心まで誰かに渡す必要はありません」

「……それでも、世はそう見ない。
この衣を着たとたんに、“藤原高子は寵を得た”と、そう思われる」

「では――思わせておけばよろしゅうございます。
真実は、姫様と、歌だけが知っていれば良いのです」

高子は目を伏せ、微かに笑った。

「……あなたは、本当に強いのね。いと」

「いいえ。弱いからこそ、笑い方を覚えただけです」

 

夜更け、高子はひとりで衣をまとった。

紅の裾は、肌に馴染みすぎるほど滑らかで、まるで自分の内にある“紅”が外に現れたような錯覚を覚えた。

鏡に映る自分は、もはや「歌の女」ではなかった。
それは、“選ばれた女”の装い――栄光か、呪縛か、まだ定かではない。

そして、高子は、白紙に一首を記した。

 

紅の裾 引きずるごとく 重き夜
声にせぬまま 言葉よ流れ

 

やがて、その衣のまま御所へと赴く日が来る。

そこに待つのは、白河院という男であり、
そして、すべてのまなざしが集う「都の目」であった。

今、彼女の裾は紅く染まり、
それと引き換えに、彼女の歌は――ゆっくりと、紅に染まっていく。

 

(続く)
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