唐紅の風 ~平安の女流歌人の一生

naomikoryo

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第十二話「風を聴く庭」

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初夏の夜、御所の庭には虫の音とともに風が流れていた。
その風は決して強くはなかったが、葉を揺らし、水面を撫で、奥まった襖の隙間にまで入り込んで、耳元で「聴け」と囁いているようだった。

高子は西廂の自室にて、筆を休めていた。
日中に催された和歌会の選定を任され、十数首の歌を読み比べた後であった。
香の焚かれた部屋の中、彼女の心だけが妙に落ち着かなかった。

理由は、たしかにある。

――何者かの「視線」を、最近しきりに感じるのだ。

御所という場所は、静寂に包まれながらも、誰かが常に誰かを見ている。
それは決して目に見える「監視」ではない。女房たちのすれ違いざまの沈黙、
紙の裏にほんの少しだけ余白を残す筆遣い、香の種類が一夜ごとにわずかに変化すること――

そういったささやかな“気配”のなかに、「何か」が潜んでいるのだ。

 

「姫様、風が強うございます。障子を閉めましょうか?」

いとが控えめに声をかける。

「いいえ。……この風を、今夜は聴いていたいの」

高子はそう答えて、庭の方に向き直った。

風が吹くたび、枝が揺れ、ひそひそと木々が話すような音が響く。

(この風は、どこから吹いてくるのだろう)

そんなことを思っていると、不意に戸口から一枚の文が差し入れられた。
無言のまま、女房が置いていく。

高子はそれを取り、封を切った。

 

――このところ、姫様の香が、常より濃く感じられます。
風に乗せるものは、時に毒ともなりますれば、ご自愛を。

匿名

 

「……風に、毒」

紙を伏せ、目を閉じた。
これは、あからさまな忠告だった。
だが、それが「誰から」「何に対して」なのかは書かれていない。

いとに見せると、彼女はすぐに顔を強張らせた。

「……これは、警告です」

「ええ。わたしが“見られすぎている”ということ」

「あるいは、“誰かの目障りになっている”ということです」

「……ふふ、ようやくわたしも“都の女”の一人に数えられたようね」

高子は苦笑しながら言ったが、その内心は穏やかではなかった。

(わたしの香が“濃い”という言葉――それは、“存在を消せ”という遠まわしな言い方)

誰かが、わたしを“目立ちすぎている”と感じている。

では、それは――女か。男か。
同輩か。上位か。
あるいは、院の御前に近すぎることに、誰かが危機感を抱いているのか――

 

その夜、高子は部屋の灯を落とし、筆を取った。

そして一首を記した。

 

たれが手に まがふ香もまた ことの葉に
しのぶる風の さきはしらねど

 

この歌は、自分への“答え”であると同時に、誰かへの“問い”でもあった。

香は、たしかに甘く、強く、人の記憶に残る。
だが、それがどこまで届くのか、どこで毒と変わるのか、それは誰にも分からない。

 

翌日。
朝の香の儀にて、高子が選んだ香は、ほとんど無臭に近い白檀の軽い焚き方だった。
それに気づいた女房たちの目が、一瞬だけ彼女に集まる。

それは、「わたしは気づいている」と告げるささやかな“返歌”だった。

 

その夜、思いがけず白河院が高子を呼んだ。
書院の一間、風が吹き抜ける縁側にて、院は香の壺を前にしていた。

「今宵の風は、心を洗うな」

院は、そう言いながら香の小壺を指先で撫でる。

「人は、見えぬものに怯える。
風も、香も、歌も……すべて、形なきものは、“己の弱さ”を写す鏡になる」

高子は膝を折り、静かに答えた。

「では、歌もまた――怖れの対象となるのですね」

「お前の歌は、ときに人の“秘密”に触れる。
それを、良しとする者もいれば、忌む者もおる」

高子は、目を細めた。

「院は、それをどうなさるのです?」

院は小さく笑った。

「――わしは、“歌を恐れる女”より、“歌を信じる女”を側に置く」

その言葉に、重みはなかった。だがそれは、たしかな“選別”だった。

 

部屋を下がったあと、いとがそっと問うた。

「……院様は、何かおっしゃいましたか?」

「“歌を信じる女”を側に置く、ですって」

「……つまり、姫様が“恐れていないか”をお確かめになりたかったのですね」

「ええ。試されたのね」

高子は笑った。

「ならば、わたしも応えましょう。
“歌で生きる女”である限り、恐れてなどいないと」

そして、また一首を詠む。

 

こゝろ風 よむることばは しらぬまに
ひとの影さへ そよがせにけり

 

風の音に、意味はない。
だが、それを“意味あり”と感じてしまうのは、風に耳を傾ける者自身の心ゆえ。

ならばわたしは、聴く。

風の中に混じるものの正体を――

 

(続く)
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