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第十三話「背中に咲く花」
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その夜、御所の一角――北の控えの間で火事が起きた。
風のない蒸し暑い夜だった。
突然の煙と火の気配に、女房たちは薄衣のまま走り出し、水を汲み、軒下の几帳を外し、掛け襖を避けて逃げ惑った。
火の勢いは思ったより早く収まり、建物の一部と几帳、巻物が焼けただけで大事には至らなかった。
だが、火の元とされたのが――「歌の短冊」が納められた文箱であったことが、事態を一変させた。
翌朝、高子は呼び出された。
御所の香の間――そこに居並ぶのは、白河院と、院付きの筆頭女房・橘典子(たちばな の のりこ)。
典子は四十手前、院の寵を長らく受けてきた知性派の女であり、女房内では実質的な序列の筆頭。
その目は、決して表情を崩さない冷ややかさを持っていた。
「藤原高子殿、あなたの書いた短冊が、昨夜の出火の場にございました」
「……はい」
高子はひとつ頭を下げた。
「香の儀で詠んだ和歌でございます。
私の部屋から手写しして提出したものであり、出火の原因とは関わりございません」
「それはもちろん心得ております」
と、院が低く口を挟んだ。
「だが、燃えたのが“その短冊”であったこと――
そして、その歌が**“火”を詠んでいたこと**――これは、偶然にしては因縁が過ぎると思わぬか?」
高子は一瞬、呼吸を止めた。
(まさか……)
その短冊には、こう記していたのだ。
うつせみの 身を焦がしける ほむらこそ
ひとのこころに ひそむ焔なれ
それは、御所での暮らしの“濃さ”に感じた情熱と怖れを、詠んだ一首だった。
情念を“焔”としてたとえた、いわば比喩表現でしかない。
だが――「火」が出た今、その歌は“予告”にも、“呪い”にも見える。
「院様……」
高子は、まっすぐに前を見た。
「和歌は現象ではございません。
感じたことを詠んだまでにて、それが現実と結びつくのは……読む人の心次第にございます」
院はしばし沈黙し、やがて頷いた。
「わしは、そのとおりだと思う。
だが、女たちの世界では――歌は“武器”にも、“矢”にもなる。
……高子、お前は矢を放った覚えはないか?」
その問いに、高子は一瞬だけ言葉を失った。
それは、ある人物――橘典子に対して暗に問われていると、はっきりと感じたからだった。
火事のあった部屋は、偶然にも典子の配下の女房が寝泊まりしていた控えの一角だった。
高子の和歌が“火”を詠み、そこに実際の火が起き、かつてから水面下で静かな敵意を向けていた典子の名が……今、うっすらと“被害者”として浮かび上がっている。
それはまるで、高子が典子を狙って焔を焚いた――
そんな「構図」が、密やかに作られているかのようだった。
その夜。
高子は部屋の燈を落とし、いとと対面していた。
「……これは、誰かが“仕組んだ”火かもしれません」
いとは低く言った。
「火の起きた部屋の女房は、歌を書き写す役目も兼ねていた者。
出火の直前、急に“香を変えた”という話もございます」
「……つまり、わたしの歌を焼かせた上で、“火の女”にするつもりだった?」
「はい。
そして、それはおそらく――姫様を“御所から遠ざける”ための、仕掛けです」
「……橘典子様ね」
高子は静かに言った。
口に出すこと自体、すでに何かを踏み越える行為だった。
「院様の信頼、女房内での評判……
長年の蓄積が、わたしの和歌ひとつで脅かされたように見えるのなら、彼女は動く。
冷たい人ほど、動く時は冷静ね」
「どうなさいますか?」
高子は黙っていた。
だが数刻後、机に向かい、筆を取ると、一首だけを記した。
おもてには 咲かぬ花こそ いとしけれ
背(せ)に咲くうらの 香は深かりき
これは、自らの“背”――見えないところで咲かされる“花”を、皮肉と憐れみで包んだ一首だった。
だが、それは攻撃ではなく、“理解”の歌でもあった。
翌日、この歌を写した短冊が、御所の回廊にさりげなく掲げられた。
誰が置いたのか、誰が許したのか――それは曖昧にされたまま。
けれど、それを見た女房たちは、言葉を交わさずに、何かを感じ取った。
(高子は、退かない)
それだけは、誰の目にも明らかだった。
その夜、白河院が自らの寝殿で高子に向けて、ぽつりと呟いた。
「……お前は、矢を使わぬのに、人を刺す」
「歌を、槍にはしたくありません」
「だが、刃にはしておるな。――わしは、それが好きだ」
その声には、寵愛だけではない、“危うい愉しみ”の色が混ざっていた。
高子は夜空を見上げながら、胸の奥で一首を抱えた。
さかしらの 風にほだされ 散る花を
いとしと思ふ 心こそ咎
愛も、言葉も、才能も――
すべてが「咎」となる場所で、
彼女はそれでも、詠み続ける。
(続く)
風のない蒸し暑い夜だった。
突然の煙と火の気配に、女房たちは薄衣のまま走り出し、水を汲み、軒下の几帳を外し、掛け襖を避けて逃げ惑った。
火の勢いは思ったより早く収まり、建物の一部と几帳、巻物が焼けただけで大事には至らなかった。
だが、火の元とされたのが――「歌の短冊」が納められた文箱であったことが、事態を一変させた。
翌朝、高子は呼び出された。
御所の香の間――そこに居並ぶのは、白河院と、院付きの筆頭女房・橘典子(たちばな の のりこ)。
典子は四十手前、院の寵を長らく受けてきた知性派の女であり、女房内では実質的な序列の筆頭。
その目は、決して表情を崩さない冷ややかさを持っていた。
「藤原高子殿、あなたの書いた短冊が、昨夜の出火の場にございました」
「……はい」
高子はひとつ頭を下げた。
「香の儀で詠んだ和歌でございます。
私の部屋から手写しして提出したものであり、出火の原因とは関わりございません」
「それはもちろん心得ております」
と、院が低く口を挟んだ。
「だが、燃えたのが“その短冊”であったこと――
そして、その歌が**“火”を詠んでいたこと**――これは、偶然にしては因縁が過ぎると思わぬか?」
高子は一瞬、呼吸を止めた。
(まさか……)
その短冊には、こう記していたのだ。
うつせみの 身を焦がしける ほむらこそ
ひとのこころに ひそむ焔なれ
それは、御所での暮らしの“濃さ”に感じた情熱と怖れを、詠んだ一首だった。
情念を“焔”としてたとえた、いわば比喩表現でしかない。
だが――「火」が出た今、その歌は“予告”にも、“呪い”にも見える。
「院様……」
高子は、まっすぐに前を見た。
「和歌は現象ではございません。
感じたことを詠んだまでにて、それが現実と結びつくのは……読む人の心次第にございます」
院はしばし沈黙し、やがて頷いた。
「わしは、そのとおりだと思う。
だが、女たちの世界では――歌は“武器”にも、“矢”にもなる。
……高子、お前は矢を放った覚えはないか?」
その問いに、高子は一瞬だけ言葉を失った。
それは、ある人物――橘典子に対して暗に問われていると、はっきりと感じたからだった。
火事のあった部屋は、偶然にも典子の配下の女房が寝泊まりしていた控えの一角だった。
高子の和歌が“火”を詠み、そこに実際の火が起き、かつてから水面下で静かな敵意を向けていた典子の名が……今、うっすらと“被害者”として浮かび上がっている。
それはまるで、高子が典子を狙って焔を焚いた――
そんな「構図」が、密やかに作られているかのようだった。
その夜。
高子は部屋の燈を落とし、いとと対面していた。
「……これは、誰かが“仕組んだ”火かもしれません」
いとは低く言った。
「火の起きた部屋の女房は、歌を書き写す役目も兼ねていた者。
出火の直前、急に“香を変えた”という話もございます」
「……つまり、わたしの歌を焼かせた上で、“火の女”にするつもりだった?」
「はい。
そして、それはおそらく――姫様を“御所から遠ざける”ための、仕掛けです」
「……橘典子様ね」
高子は静かに言った。
口に出すこと自体、すでに何かを踏み越える行為だった。
「院様の信頼、女房内での評判……
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冷たい人ほど、動く時は冷静ね」
「どうなさいますか?」
高子は黙っていた。
だが数刻後、机に向かい、筆を取ると、一首だけを記した。
おもてには 咲かぬ花こそ いとしけれ
背(せ)に咲くうらの 香は深かりき
これは、自らの“背”――見えないところで咲かされる“花”を、皮肉と憐れみで包んだ一首だった。
だが、それは攻撃ではなく、“理解”の歌でもあった。
翌日、この歌を写した短冊が、御所の回廊にさりげなく掲げられた。
誰が置いたのか、誰が許したのか――それは曖昧にされたまま。
けれど、それを見た女房たちは、言葉を交わさずに、何かを感じ取った。
(高子は、退かない)
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「……お前は、矢を使わぬのに、人を刺す」
「歌を、槍にはしたくありません」
「だが、刃にはしておるな。――わしは、それが好きだ」
その声には、寵愛だけではない、“危うい愉しみ”の色が混ざっていた。
高子は夜空を見上げながら、胸の奥で一首を抱えた。
さかしらの 風にほだされ 散る花を
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彼女はそれでも、詠み続ける。
(続く)
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