唐紅の風 ~平安の女流歌人の一生

naomikoryo

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第十六話「火の夜」

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その夜、御所に火が出た。

再び、風のない、湿った夏の宵だった。
だが、前回とは違う――今度は、高子の部屋だった。

火は広がることなく、障子の縁と床の一部を焼くだけで消えた。
だが、焦げたのは、文机の上に置かれていた和歌帳。

幸い、部屋にいたいとがすぐに水をかけ、火元を押さえたため、大事には至らなかった。

だが、なぜ机の上が燃えたのか。
火の気は見当たらず、香炉は使用していなかった。

「……おかしい。誰かが、灯心を仕込んでいたとしか思えない」

いとはそう言って、焼け跡を拡げた。

紙の端が黒く焦げ、その一部に灰になりきらない薄紅の繊維が混ざっていた。

それは、数日前に院から贈られた**紅の衣の“端切れ”**だった。

「これは……」

「ええ。……“わたし自身が燃えるべきだ”と、言っているようなものです」

高子は、燃え残った和歌帳の一枚を手に取り、目を閉じた。

 

ひとの手に もゆる炎の さだめなら
わが身もことばも あまねく焼かれよ

 

焼けたのは、実際には紙と衣の切れ端だけ。
だが、そこには明確な意志があった。

この火は、脅しだ。
言葉を、香を、紅を、纏う女――その存在を“消す”代わりに、“燃やして見せる”。

「御所のどこかで、この火を“当然”と思った誰かがいるのね」

「……あるいは、“望んだ”誰かが」

いとは低く言った。

「紅の衣をまとい、院の側にあり、和歌を詠む。
これほど、目障りなものもございません」

「……典子様?」

「可能性はあります。ですが、彼女だけではありません。
御所の外――院の政敵や、御堂流の筆頭女房など、姫様をよしとしない勢力は少なくない」

「わたしがただ“歌を詠む”だけの女であっても?」

「いいえ。
“詠むだけ”の女だからこそ、怖れられるのです」

いとの言葉に、高子は思わず息をのんだ。

(そう……わたしは“何もしていない”。
なのに、これだけの火が起こる)

それはつまり――“歌”そのものが、火種であるということだ。

 

翌朝、火事は「香の不始末による小火」として処理された。
いとは、御所の女房たちが何事もなかったように振る舞っていることに、背筋が寒くなったという。

「火の騒ぎのあとに、これほど無言の空気が流れるのは、異様です」

「……この沈黙は、“知っていて口にしない”者たちのものね」

高子は鏡の前に座り、焼け残った和歌帳を見つめながら言った。

その中には、半分だけ焦げた一首があった。

 

こゝろにも ささぬあかしを さすものは
うつし世ならぬ ひとのねがひか

 

(“映し世”ではない――それは、目に見えぬ世界。
見えぬ世界で、見えぬ手が、わたしを焼こうとしている)

その夜、白河院のもとに呼ばれた。

院は静かに香を焚きながら、こう言った。

「――お前の部屋で火が出たと聞いた」

「はい。文机と、少しの書。紅の衣の端も焼けておりました」

「……歌を詠む女は、得てして“火の女”となる。
だが――焼かれてはならぬ」

「では、焼かれそうになったとき、どうすれば?」

院は、しばし沈黙したのち、重々しく言った。

「……炎に負けぬ“言葉”を持て。
それが、お前の“盾”であり、“剣”だ」

高子は目を伏せた。

その言葉は、慰めではなかった。
それは、戦えという命令だった。

 

部屋に戻ったあと、高子は一枚の紙を取り、黙って筆を走らせた。

 

たが火種 たが吹く風ぞ さだめなく
わがうたの灯は きえずともあれ

 

そしてそれを、院のもとへは送らず、御所の廊下の柱にそっと掛けた。

それを見た女房たちは、また何も言わなかった。
けれど、その目には確かなものが宿っていた。

(彼女は、“やり返した”)

 

火の夜は終わった。

だが、それは新たな幕開けだった。

炎が照らし出したのは、敵の顔ではない。
――それは、都そのものの“姿”だった。

 

高子は、すでにその中で言葉の火を灯してしまった女。
後には、もう引けない。

ならば――燃やすのではない。

燃えながら、照らすのだ。

 

(続く)

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