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第二十話「秋の帳(とばり)」
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風が変わった。
夏の濃密な香を抱いていた空気が、朝ごとに薄くなり、冷えを帯びるようになってきた。
秋の帳――それは、季節の幕が静かに降りる合図。
御所の庭には、桔梗と薄(すすき)が植えられ、露が深くなるたびに草の香が強くなった。
高子は縁側で硯を磨きながら、耳を澄ましていた。風の音、遠くの笛、障子のきしむ音。
そのすべてが、静けさの中にひそむ“ざわめき”を運んでいた。
数日前から、御所内にある噂が広がっていた。
――橘典子、職を辞す。
白河院の側近であり、筆頭女房であり、高子にとっては“対等の敵”でもあった女。
その典子が、突然病と称して御所を去るという。
だが、高子はすぐに察した。
(これは、ただの“病”ではない。――排除されたのだ)
数日後。
白河院の私的な夜会で、高子は再び院の前に呼び出された。
秋の夜風が几帳を揺らす中、院は杯を傾けながらふと口にした。
「……典子は、潔かった。
自ら身を引きたいと言ってきたとき、わしは止めなかった。
あの女は“読む”力があったが、“詠む”力は弱かった」
高子は、しばし沈黙したのち、静かに答えた。
「読む者が退き、詠む者が残る。
それは、“詞”が強いということでしょうか」
「“詞”は、使える道具だ。
読む者は選ばねばならぬが、詠む者は、使い方次第で重宝する」
(――やはり)
その瞬間、高子の胸に冷たい何かが落ちた。
「……では、わたしは“使える詞”を持つゆえに、残されたのですね」
「お前は賢い。
その“使える詞”を、わしの傍で紡げばよい」
それは明言された。
自分がここにいる理由。
寵でもなく、情でもなく――ただ、“使い道がある”からだった。
その夜、高子は部屋に戻ると灯をすべて消し、暗がりの中に座った。
いとも何も言わなかった。
ただ隣に座り、少しだけ近くに寄った。
「姫様……お辛うございますか」
「いいえ」
高子は静かに答えた。
「いと。
わたしはこれまで“歌の力”を信じてきた。
けれど今夜、それが“力”として計算され、測られ、利用されていることを知ったの」
「それでも、姫様の歌は……姫様のものです」
「――ほんとうに、そうかしら」
声がわずかに震えた。
「わたしの詞は、もう“誰かの都合で意味を変えられる”ものではないかしら。
“火”の歌も、“月”の歌も、“別れ”の歌も……
すべて“配置”されていたとしたら、わたしの心はどこにあるの?」
いとは何も言わず、ただ茶を一口すすった。
その沈黙が、答えだった。
その夜、高子は一首だけ詠んだ。
まことなき ことの葉ならば 秋の帳
おろしの風に きえてしのばむ
それは、詞が嘘になることの悲しみ。
あるいは、自分の詞がすでに“まこと”ではなくなっているかもしれないという怖れ。
そして、それでも“ことばを詠む”ことへの祈り。
数日後、典子の邸に和歌一首が届けられた。差出人は記されていなかった。
みなそこの 底にぞ見ゆる 月影は
しづかなるこゝろ わすれぬために
典子はその歌を読み、しばらく動かなかったという。
そしてそれ以降、彼女の名は宮中から一切語られなくなった。
だが、高子はその沈黙の中に、“確かに言葉が届いた”ことを感じていた。
秋の帳は、少しずつ深まり、
夜の風が、言葉を包んで揺らしていた。
高子はその中で、もう一首だけ、自分に向けて歌を綴った。
たれがため と問はるゝことの あるうちは
わがことばこそ まことなりけり
――自問できるうちは、まだ詞はわたしのもの。
そう信じて、秋の夜を迎える。
(続く)
夏の濃密な香を抱いていた空気が、朝ごとに薄くなり、冷えを帯びるようになってきた。
秋の帳――それは、季節の幕が静かに降りる合図。
御所の庭には、桔梗と薄(すすき)が植えられ、露が深くなるたびに草の香が強くなった。
高子は縁側で硯を磨きながら、耳を澄ましていた。風の音、遠くの笛、障子のきしむ音。
そのすべてが、静けさの中にひそむ“ざわめき”を運んでいた。
数日前から、御所内にある噂が広がっていた。
――橘典子、職を辞す。
白河院の側近であり、筆頭女房であり、高子にとっては“対等の敵”でもあった女。
その典子が、突然病と称して御所を去るという。
だが、高子はすぐに察した。
(これは、ただの“病”ではない。――排除されたのだ)
数日後。
白河院の私的な夜会で、高子は再び院の前に呼び出された。
秋の夜風が几帳を揺らす中、院は杯を傾けながらふと口にした。
「……典子は、潔かった。
自ら身を引きたいと言ってきたとき、わしは止めなかった。
あの女は“読む”力があったが、“詠む”力は弱かった」
高子は、しばし沈黙したのち、静かに答えた。
「読む者が退き、詠む者が残る。
それは、“詞”が強いということでしょうか」
「“詞”は、使える道具だ。
読む者は選ばねばならぬが、詠む者は、使い方次第で重宝する」
(――やはり)
その瞬間、高子の胸に冷たい何かが落ちた。
「……では、わたしは“使える詞”を持つゆえに、残されたのですね」
「お前は賢い。
その“使える詞”を、わしの傍で紡げばよい」
それは明言された。
自分がここにいる理由。
寵でもなく、情でもなく――ただ、“使い道がある”からだった。
その夜、高子は部屋に戻ると灯をすべて消し、暗がりの中に座った。
いとも何も言わなかった。
ただ隣に座り、少しだけ近くに寄った。
「姫様……お辛うございますか」
「いいえ」
高子は静かに答えた。
「いと。
わたしはこれまで“歌の力”を信じてきた。
けれど今夜、それが“力”として計算され、測られ、利用されていることを知ったの」
「それでも、姫様の歌は……姫様のものです」
「――ほんとうに、そうかしら」
声がわずかに震えた。
「わたしの詞は、もう“誰かの都合で意味を変えられる”ものではないかしら。
“火”の歌も、“月”の歌も、“別れ”の歌も……
すべて“配置”されていたとしたら、わたしの心はどこにあるの?」
いとは何も言わず、ただ茶を一口すすった。
その沈黙が、答えだった。
その夜、高子は一首だけ詠んだ。
まことなき ことの葉ならば 秋の帳
おろしの風に きえてしのばむ
それは、詞が嘘になることの悲しみ。
あるいは、自分の詞がすでに“まこと”ではなくなっているかもしれないという怖れ。
そして、それでも“ことばを詠む”ことへの祈り。
数日後、典子の邸に和歌一首が届けられた。差出人は記されていなかった。
みなそこの 底にぞ見ゆる 月影は
しづかなるこゝろ わすれぬために
典子はその歌を読み、しばらく動かなかったという。
そしてそれ以降、彼女の名は宮中から一切語られなくなった。
だが、高子はその沈黙の中に、“確かに言葉が届いた”ことを感じていた。
秋の帳は、少しずつ深まり、
夜の風が、言葉を包んで揺らしていた。
高子はその中で、もう一首だけ、自分に向けて歌を綴った。
たれがため と問はるゝことの あるうちは
わがことばこそ まことなりけり
――自問できるうちは、まだ詞はわたしのもの。
そう信じて、秋の夜を迎える。
(続く)
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