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第二十三話「冬の水鏡」
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初雪が降った夜。
御所の庭には、音もなく白が積もっていた。
屋敷の奥――白河院の離れにある庭の池は、薄く氷を張り、風の吹かぬ静けさのなか、鏡のように空を映していた。
高子は、その池の前に立っていた。
紅の小袿に、上から白の薄衣を重ねている。
紅と白――二色の重なりは、まるでこれまで出会ったすべての人々の“想い”を、自分の上に纏っているかのようだった。
手にしているのは、巻子と筆。
けれど今日は、まだ一文字も書かれていない。
「……わたしは、今、何を詠おうとしているのだろう」
高子は、小さく呟いた。
火の夜、紅の宴、白との邂逅、そして清子の死。
言葉を詠むたびに、誰かの想いを受け取り、
それを詞に変えて返してきた。
けれど――今、自分の詞が、自分のためにあるのかどうか。
それさえ、わからなくなっていた。
池の表面に目を落とす。
白い月が、鏡のような氷の上に浮かんでいる。
そしてその横に、紅を帯びた自分の影が映っていた。
それはどこか――自分ではない誰かの姿のようにも見えた。
そのとき、後ろからいとがそっと近づいてきた。
「……姫様。お寒くはありませんか」
「いいえ。……でも、少しだけ、冷たい」
「それは、冬のせいではなく……?」
高子は首をふった。
「わたし、今まで“誰か”のために詠んでいたのかもしれない。
院のため、実通のため、清子のため、女房たちのため――
でも、“わたし自身”のために詠んだ詞が、ひとつでもあったかしら」
いとは、少し考えてから言った。
「姫様は、いつも誰かの心をうつす詞を詠まれていました。
けれど、それは姫様の目で見た“誰か”でした」
「……それは、“わたし”なのかしら」
「はい。それは、間違いなく姫様ご自身です。
“鏡にうつすもの”を選ぶのは、鏡ではなく、“見る者”の目だから」
高子は、氷の池に映る月を見つめながら、静かに頷いた。
その夜、高子は御所の書院で一首をしたためた。
それは、自分に向けた初めての歌だった。
みずかがみ みるたびごとに たずねけり
うつるは誰か わが影ならむ
詞にしてはじめて、「問い」が立つ。
それが彼女の癖であり、また、救いだった。
その歌は女房たちの間に静かに広まり、
「高子様が、ようやくご自身を詠んだ」と囁かれた。
そしてそれを読んだ白河院が、翌日、高子に一首を返した。
かげをみて かげをしるなよ ことの葉は
あらはれぬものを うつすものぞと
(“詞とは、見えぬものを映す鏡である”――)
高子はその返歌を読んで、深く頭を垂れた。
たしかに、ことばは“記録”であり“影”だ。
だがそれは、鏡がうつす姿ではなく、
自分の奥にあるかたちのないものを、ことばにすること。
だからこそ、
ことばの底にあるものを知ろうとする限り、
たとえ揺れようとも、それは“わたしのことば”になるのだ。
その夜、高子は再び筆を取り、もう一首を綴った。
うつしゑに かたちをもとむ わがまよひ
ことばのなかに とほき月みつ
形ではなく、光を。
姿ではなく、声を。
記録ではなく、記憶を――。
それが、わたしの詠う“鏡”なのだと。
翌朝、池の氷は深くなっていた。
だが、空は晴れ、風は静かだった。
高子は池の前に立ち、氷の上の自分に向かって、
そっと笑ってみせた。
(続く)
御所の庭には、音もなく白が積もっていた。
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高子は、その池の前に立っていた。
紅の小袿に、上から白の薄衣を重ねている。
紅と白――二色の重なりは、まるでこれまで出会ったすべての人々の“想い”を、自分の上に纏っているかのようだった。
手にしているのは、巻子と筆。
けれど今日は、まだ一文字も書かれていない。
「……わたしは、今、何を詠おうとしているのだろう」
高子は、小さく呟いた。
火の夜、紅の宴、白との邂逅、そして清子の死。
言葉を詠むたびに、誰かの想いを受け取り、
それを詞に変えて返してきた。
けれど――今、自分の詞が、自分のためにあるのかどうか。
それさえ、わからなくなっていた。
池の表面に目を落とす。
白い月が、鏡のような氷の上に浮かんでいる。
そしてその横に、紅を帯びた自分の影が映っていた。
それはどこか――自分ではない誰かの姿のようにも見えた。
そのとき、後ろからいとがそっと近づいてきた。
「……姫様。お寒くはありませんか」
「いいえ。……でも、少しだけ、冷たい」
「それは、冬のせいではなく……?」
高子は首をふった。
「わたし、今まで“誰か”のために詠んでいたのかもしれない。
院のため、実通のため、清子のため、女房たちのため――
でも、“わたし自身”のために詠んだ詞が、ひとつでもあったかしら」
いとは、少し考えてから言った。
「姫様は、いつも誰かの心をうつす詞を詠まれていました。
けれど、それは姫様の目で見た“誰か”でした」
「……それは、“わたし”なのかしら」
「はい。それは、間違いなく姫様ご自身です。
“鏡にうつすもの”を選ぶのは、鏡ではなく、“見る者”の目だから」
高子は、氷の池に映る月を見つめながら、静かに頷いた。
その夜、高子は御所の書院で一首をしたためた。
それは、自分に向けた初めての歌だった。
みずかがみ みるたびごとに たずねけり
うつるは誰か わが影ならむ
詞にしてはじめて、「問い」が立つ。
それが彼女の癖であり、また、救いだった。
その歌は女房たちの間に静かに広まり、
「高子様が、ようやくご自身を詠んだ」と囁かれた。
そしてそれを読んだ白河院が、翌日、高子に一首を返した。
かげをみて かげをしるなよ ことの葉は
あらはれぬものを うつすものぞと
(“詞とは、見えぬものを映す鏡である”――)
高子はその返歌を読んで、深く頭を垂れた。
たしかに、ことばは“記録”であり“影”だ。
だがそれは、鏡がうつす姿ではなく、
自分の奥にあるかたちのないものを、ことばにすること。
だからこそ、
ことばの底にあるものを知ろうとする限り、
たとえ揺れようとも、それは“わたしのことば”になるのだ。
その夜、高子は再び筆を取り、もう一首を綴った。
うつしゑに かたちをもとむ わがまよひ
ことばのなかに とほき月みつ
形ではなく、光を。
姿ではなく、声を。
記録ではなく、記憶を――。
それが、わたしの詠う“鏡”なのだと。
翌朝、池の氷は深くなっていた。
だが、空は晴れ、風は静かだった。
高子は池の前に立ち、氷の上の自分に向かって、
そっと笑ってみせた。
(続く)
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