春燈に咲く

naomikoryo

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第七話:はじめての意識、ぎこちない二人

朝靄が残る蓬莱屋の裏庭。
一日の始まりのはずなのに、うららはまだ自分の中の“夜”を引きずっていた。

昨晩――
大黒屋の若旦那が仕掛けた卑劣な“誘拐未遂”。
その真っ只中に現れ、自分を庇って怪我までしたのは、誰でもない慶次郎だった。

「……俺は、もう、お前を誰にもやらねぇ」

あのときの声が、まだ耳に残っている。
ただの怒りではなかった。
あれは、きっと――

(――特別な、気持ちだった)

そう気づいてしまったから。
うららの中で何かが、確実に変わった。

慶次郎を思い出すたび、胸がきゅっと締めつけられる。
声を聞くだけで、背中に熱が走る。

あの日までは、もっと気楽だった。
意地悪されても、心のどこかで笑っていられたのに。

今は、ほんの少し視線が交わっただけで、顔が火照る。

「うらら、味噌、落としちゃってる」

おふじの声に、はっと我に返る。

「あっ、ご、ごめんなさい……!」

慌てて味噌をすくい直す手が、微かに震えていた。

「……まだ、落ち着かない?」

「……うん」

「そりゃそうだよね。昨日のこと、普通なら一生分の出来事だもん」

おふじは微笑んだ。

「でも、うらら。あんた、守られたんだよ。ちゃんと、誰かに。……それ、誇っていいと思う」

「……うん」

(守られた。たしかに)

けれど、何かが違った。

あの夜、ただ守られただけじゃない。
自分の中にも、はっきりと彼を守りたくなる何かが芽生えていた。

(若さまが、怪我してまであたしを……)

(あんな目、したの……初めて見た)

◆◇◆

その日。
朝の仕度を終え、帳場へ入ったうららは、慶次郎と鉢合わせた。

(……来た)

心臓が、どくん、と鳴る。

慶次郎も、わずかに目を見開いたが、すぐに視線を逸らした。

「……傷、だいじょうぶですか?」

やっと絞り出せた声。
すると、彼はほんの少し口元をゆがめた。

「……あんなもん、かすりだ。騒ぐほどのことじゃねぇ」

「でも、血……すごく……」

「気にすんなって。お前が無事だったんなら、それでいい」

(それでいい、って……)

どこかぎこちない沈黙が落ちた。

会話の続きを探そうとして、口を開きかけるたびに喉が詰まる。

(どうしよう……)

(こんなに、何を話していいかわからないなんて)

あの日までは、もっと気楽だったのに。

慶次郎も、何かを言いかけたような素振りを見せたが、結局黙ったまま帳場を通り過ぎた。

ほんの数歩、すれ違っただけ。

けれど、そのすれ違いが、やけに長く感じた。

◆◇◆

夕方。
うららが反物の整理をしていた時のこと。

ふいに背後から、誰かが声をかけた。

「おい、うらら」

「っ……わ、わかさま……」

心の準備ができておらず、うららは慌てて振り返る。

「お前……最近、俺の顔見て、逃げてないか?」

「そ、そんなこと……!」

「じゃあ、目を見て答えてみろよ」

一歩、慶次郎が踏み出した。

近い。
とても近い。
あと数寸で、息が触れる距離。

反物の棚に押されるように、うららの背が壁に寄る。

(こ、これ……もしかして……!)

逃げ場がない。
顔も背中も、熱い。

「俺、お前が昨日から何考えてるか、だいたいわかるぞ」

「……な、なんですか、急に……っ」

「だって、俺といる時のお前、今までと全然ちげぇから」

声が低くなった。

耳元で囁くようなその声に、全身がびくっとなる。

(ああ、だめ……)

(この距離、なんなの……苦しい)

「……言っとくけど」

慶次郎が、うららの髪にかかる一房を、そっと指先でなぞる。

「俺も、変わったんだ。お前のこと、もう“子ども”とは思ってねぇ」

「……」

「だけど、だからって、焦るわけにもいかねぇんだよ」

「若……さま……」

唇が触れそうなほどに近づいて――

「うらら! ちょっとこっち来てくれるかい!」

女将の声が飛んできた。

「――っ!」

うららは、弾かれたように間を抜けて走り去った。

ぽかん、と取り残された慶次郎は、頭をガシガシとかきながら、つぶやいた。

「……くそっ、あと一歩だったのによ……」

◆◇◆

その晩。

湯上がりの布団の中。
うららは、まだ鼓動の高鳴りが治まらずにいた。

(触れられた……)

(あの距離で、あんな目で見られて)

(もう、“若さま”って呼ぶの、なんだかおかしいくらい……)

顔を枕にうずめて、思わず足をばたつかせた。

けれど、それでも――
悪い気は、しなかった。

むしろ、もっと近づいてしまいたかった。

(こんなの……ずるいよ、若さま)

でも、もう知ってしまった。
この気持ちの名前を。

それは、ただの憧れでも、感謝でもない。

――恋。
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