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第1話「ポスターの赤ちゃん」
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花村蘭子は、生まれながらにして街の看板娘であった。
昭和六年、春まだ浅き三月の末。
房州の海沿い南部の商店街「菊見通り」の一角、老舗呉服屋「花村屋」の奥座敷にて、蘭子は一発の産声を上げた。
外では菜の花が咲き始め、燕が低く飛び交っていたが、そんな風景を眺める余裕もなく、花村家の者たちは全員、産婆の「産んだよォ!」という一声に、歓声と溜息を同時に吐き出した。
「女の子か……美人になるぞ、こりゃ!」
産婆の顔が笑いジワで満ち、取り上げられた赤子は、まだ湿った髪を頭にべっとり貼り付けながらも、なぜか
――いや、まるで演出されたかのように
――ぱちりと目を開けた。
あれが後に、“最初のポスター笑顔”と言われる伝説の一瞬である。
産声から笑顔へのこの流れが見事すぎたのか、後日、写真館「キクヤ」の主人が、花村家に写真機を担いでやってきた。
「奥様、この娘さんはねぇ……撮らせておいたほうがよござんす。いや、これはね、神の与えたタイミングってもんでして。まだ湿ったおでこがキラリと、いやもう、奇跡的な構図ですよ」
「湿ったおでこ」などと聞かされて母の伊都子は一瞬むっとしたが、店の将来の看板になるならと説得され、仕方なく赤子に襦袢のような布を被せて写真に収まらせた。
これが、「初代・花村屋赤子広告ポスター」となった。
だが、これが思わぬ評判を呼ぶ。
ポスターを貼り出した途端、商店街の奥様方が集まり、
「まあまあ、なんてハイカラなお顔!」
「これ、本当に呉服屋の赤ちゃん?ええ!?」
「芸者の子でもこんな子いないわよ!」
と、連日蘭子のポスターの前で井戸端会議が開かれる始末である。
蘭子本人はというと、生後半年を過ぎた頃には、抱っこされるたびに小首をかしげて笑う技を身につけた。
笑顔を向ければ誰かが「あら、まあ!」と手を叩く。
拍手と反応があるのがたまらなく嬉しくて、よだれを垂らしながらも“演技”を始めるのだった。
――それが、蘭子にとっての「舞台」の始まりだった。
三歳の蘭子は、商店街を歩くとき必ず帽子を被っていた。
小さな丸い帽子で、祖母が洋傘屋から貰ってきた外国製の子供用サンハットだったが、蘭子はこれを「シネマのレディの帽子」と呼び、朝から晩まで被りたがった。
「お母様、これ、もう少し深く被ったほうが目元が陰になって素敵よ」
そう言って鏡の前で自分の顔をじっと見つめる三歳児。
母・伊都子は笑いながらも、なんとも言えぬ不安を覚えた。
「この子、大丈夫かしら……お転婆でおしゃまって、これからどうなるのやら」
心配しても仕方ない。
蘭子は一人っ子で、家にはいつも大人しかいなかったから、自然と話し方も言葉遣いも、大人びてしまったのだ。
呉服屋の看板娘として、毎朝「いらっしゃいませ~」と大きな声で店頭に立つ。
まだ字も読めないのに、「本日は絹ちりめんの半額市でございますの」と看板の前で言い切ってしまう。
そのうえ、近所の肉屋や八百屋のポスターにも登場するようになると、「蘭子ちゃん、ちょっとこっち向いて~!」とあちこちで声が飛んだ。
特に人気だったのが、魚屋「江本鮮魚店」のポスターだ。
蘭子が鯛を抱いて微笑む図が商店街中に貼られ、「蘭子と鯛でめでたい市!」という、駄洒落きわまりないキャッチフレーズが踊った。
蘭子自身も、魚屋の息子・晋平の存在が気になっていた。
晋平は年が二つ上で、がっしりとした体つきの寡黙な少年だった。
蘭子が魚屋に入って「今日のイワシ、いい匂いがするわ」と言えば、晋平はただ「……うん」とだけ答えた。
だがある日、蘭子がつまずいて店先の箱に倒れ込み、イワシをひっくり返したときのことだった。
「きゃっ……!」
泣きそうな蘭子の手を取って、晋平はそっと立たせた。
そして、何も言わずに手に持っていたタオルで蘭子の膝の泥を拭ったのだ。
その瞬間、蘭子は確信した。
――この男、きっと私の王子様になる。
三歳の少女が胸に刻んだ「未来の王子様」は、魚臭い手をしていたけれど、蘭子にとってそれはまるで映画のワンシーンだった。
五歳の春、商店街の喫茶店「モダン亭」が開店した。
ここはハイカラな雰囲気で、ガラス窓越しに見る内装もすべて洋風。
蘭子はすぐにその外観に恋をした。
「ここ、わたくしのお城にいたしましょう」
そう宣言した蘭子は、帽子を整えて母の手を引き、開店初日のモダン亭に乗り込んだ。
店の奥にいたマダム・お照さんは、蘭子の小さな姿を見るなり、口元に笑みを浮かべた。
「まあまあ、なんて目のきれいな子。貴婦人のおもちゃみたいじゃない」
「わたくし、いつかスクリーンの中に入るの。映画の中で、あなたのように珈琲を飲むのが夢よ」
「ふふ、そう……それなら、ポスターガールにしてあげましょうか?」
こうして、蘭子の“ポスター伝説”はますます広がっていく。
夜になると、蘭子は天井を見上げながら、ひとりぶつぶつと夢を語る。
「晋平さま、あなたがわたくしの手を取ってくれたあの日、わたくし、花の姫になると決めました。だから、どんなに魚臭くても、あなたのこと……」
ここで、突然部屋の隅でゴトリと音がして、蘭子は叫んだ。
「きゃっ、ネズミ!? ……あ、違った、猫か。うふふ、演技しちゃった。さっきの顔、鏡で見ておこうかしら」
少女はすでに、スクリーンの女優になった気分だった。
夢と現実の区別などつかなくても、いい。
大切なのは、自分の中にある“物語”を信じること。
そう、蘭子はもう、自分自身という物語の主演女優だったのだ。
――そして、王子様は、魚屋の裏口から、今日も黙って蘭子の家に鯛を届けていた。
昭和六年、春まだ浅き三月の末。
房州の海沿い南部の商店街「菊見通り」の一角、老舗呉服屋「花村屋」の奥座敷にて、蘭子は一発の産声を上げた。
外では菜の花が咲き始め、燕が低く飛び交っていたが、そんな風景を眺める余裕もなく、花村家の者たちは全員、産婆の「産んだよォ!」という一声に、歓声と溜息を同時に吐き出した。
「女の子か……美人になるぞ、こりゃ!」
産婆の顔が笑いジワで満ち、取り上げられた赤子は、まだ湿った髪を頭にべっとり貼り付けながらも、なぜか
――いや、まるで演出されたかのように
――ぱちりと目を開けた。
あれが後に、“最初のポスター笑顔”と言われる伝説の一瞬である。
産声から笑顔へのこの流れが見事すぎたのか、後日、写真館「キクヤ」の主人が、花村家に写真機を担いでやってきた。
「奥様、この娘さんはねぇ……撮らせておいたほうがよござんす。いや、これはね、神の与えたタイミングってもんでして。まだ湿ったおでこがキラリと、いやもう、奇跡的な構図ですよ」
「湿ったおでこ」などと聞かされて母の伊都子は一瞬むっとしたが、店の将来の看板になるならと説得され、仕方なく赤子に襦袢のような布を被せて写真に収まらせた。
これが、「初代・花村屋赤子広告ポスター」となった。
だが、これが思わぬ評判を呼ぶ。
ポスターを貼り出した途端、商店街の奥様方が集まり、
「まあまあ、なんてハイカラなお顔!」
「これ、本当に呉服屋の赤ちゃん?ええ!?」
「芸者の子でもこんな子いないわよ!」
と、連日蘭子のポスターの前で井戸端会議が開かれる始末である。
蘭子本人はというと、生後半年を過ぎた頃には、抱っこされるたびに小首をかしげて笑う技を身につけた。
笑顔を向ければ誰かが「あら、まあ!」と手を叩く。
拍手と反応があるのがたまらなく嬉しくて、よだれを垂らしながらも“演技”を始めるのだった。
――それが、蘭子にとっての「舞台」の始まりだった。
三歳の蘭子は、商店街を歩くとき必ず帽子を被っていた。
小さな丸い帽子で、祖母が洋傘屋から貰ってきた外国製の子供用サンハットだったが、蘭子はこれを「シネマのレディの帽子」と呼び、朝から晩まで被りたがった。
「お母様、これ、もう少し深く被ったほうが目元が陰になって素敵よ」
そう言って鏡の前で自分の顔をじっと見つめる三歳児。
母・伊都子は笑いながらも、なんとも言えぬ不安を覚えた。
「この子、大丈夫かしら……お転婆でおしゃまって、これからどうなるのやら」
心配しても仕方ない。
蘭子は一人っ子で、家にはいつも大人しかいなかったから、自然と話し方も言葉遣いも、大人びてしまったのだ。
呉服屋の看板娘として、毎朝「いらっしゃいませ~」と大きな声で店頭に立つ。
まだ字も読めないのに、「本日は絹ちりめんの半額市でございますの」と看板の前で言い切ってしまう。
そのうえ、近所の肉屋や八百屋のポスターにも登場するようになると、「蘭子ちゃん、ちょっとこっち向いて~!」とあちこちで声が飛んだ。
特に人気だったのが、魚屋「江本鮮魚店」のポスターだ。
蘭子が鯛を抱いて微笑む図が商店街中に貼られ、「蘭子と鯛でめでたい市!」という、駄洒落きわまりないキャッチフレーズが踊った。
蘭子自身も、魚屋の息子・晋平の存在が気になっていた。
晋平は年が二つ上で、がっしりとした体つきの寡黙な少年だった。
蘭子が魚屋に入って「今日のイワシ、いい匂いがするわ」と言えば、晋平はただ「……うん」とだけ答えた。
だがある日、蘭子がつまずいて店先の箱に倒れ込み、イワシをひっくり返したときのことだった。
「きゃっ……!」
泣きそうな蘭子の手を取って、晋平はそっと立たせた。
そして、何も言わずに手に持っていたタオルで蘭子の膝の泥を拭ったのだ。
その瞬間、蘭子は確信した。
――この男、きっと私の王子様になる。
三歳の少女が胸に刻んだ「未来の王子様」は、魚臭い手をしていたけれど、蘭子にとってそれはまるで映画のワンシーンだった。
五歳の春、商店街の喫茶店「モダン亭」が開店した。
ここはハイカラな雰囲気で、ガラス窓越しに見る内装もすべて洋風。
蘭子はすぐにその外観に恋をした。
「ここ、わたくしのお城にいたしましょう」
そう宣言した蘭子は、帽子を整えて母の手を引き、開店初日のモダン亭に乗り込んだ。
店の奥にいたマダム・お照さんは、蘭子の小さな姿を見るなり、口元に笑みを浮かべた。
「まあまあ、なんて目のきれいな子。貴婦人のおもちゃみたいじゃない」
「わたくし、いつかスクリーンの中に入るの。映画の中で、あなたのように珈琲を飲むのが夢よ」
「ふふ、そう……それなら、ポスターガールにしてあげましょうか?」
こうして、蘭子の“ポスター伝説”はますます広がっていく。
夜になると、蘭子は天井を見上げながら、ひとりぶつぶつと夢を語る。
「晋平さま、あなたがわたくしの手を取ってくれたあの日、わたくし、花の姫になると決めました。だから、どんなに魚臭くても、あなたのこと……」
ここで、突然部屋の隅でゴトリと音がして、蘭子は叫んだ。
「きゃっ、ネズミ!? ……あ、違った、猫か。うふふ、演技しちゃった。さっきの顔、鏡で見ておこうかしら」
少女はすでに、スクリーンの女優になった気分だった。
夢と現実の区別などつかなくても、いい。
大切なのは、自分の中にある“物語”を信じること。
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