花村蘭子ものがたり 〜昭和の風、紫陽花の恋〜

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第2話「おしゃまな三つ編み」

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「おかあさま、わたくし、もう赤ちゃんではありませんのよ」

その朝、蘭子は鏡台の前で三つ編みを指でつまみながら、母・伊都子に宣言した。
まだ四歳になったばかりとは思えないその口調に、伊都子は思わず笑い声を漏らす。

「まあまあ、おしゃまで困っちゃうわ」

「おしゃまって、ほめ言葉よね?」

「そうとも限らないわよ」

「ふぅん……じゃあ、“おしゃれで可愛らしい未来のシネマスター”って言ってくださる?」

「それは長すぎるわねぇ……」

朝の光が差し込む花村家の奥座敷では、今日も変わらず、蘭子の舞台が始まっていた。

三つ編みは、昨日、お照さんの店「モダン亭」で見たハイカラ婦人の髪型の真似だった。
フランス帰りだというその婦人は、グラスを傾けながら煙草を吸い、「人生は短いのよ、女の美しさは刹那」と言い放ったのだ。
蘭子はその一言に深い感銘を受けた。

「刹那……せつなって、ロマンチック!」

その晩、布団の中で何度もその言葉を繰り返してみた。

「せつな……せつな……晋平さま……刹那……」

隣の部屋で聞き耳を立てていた父・清太郎は、「せつなって何だ……魚の種類か?」と首をひねっていた。

蘭子の世界は常にキラキラとしたスポットライトに照らされていた。
鏡の前ではいつも、架空の観客に向かって微笑み、しゃべり、ポーズをとる。

「皆さま、ようこそ“花村蘭子劇場”へ。本日は、こちらの三つ編みが主演でございますの」

「まさに、プリマ・ブレイド……!」

言葉の意味も曖昧なまま使いながらも、蘭子の語り口には一種の迫力があった。
商店街の人々は「また始まった」と苦笑しながらも、密かに彼女の登場を楽しみにしていたのだった。

そんなある日、「花村屋」の表に、ひときわ大きなポスターが貼り出された。

そこには、蘭子が白いドレスを着て、たすきがけにされたショールを羽織り、花束を抱えて微笑んでいる姿が描かれていた。

「花村屋 春の大呉服市」

その文字の下に小さく書かれていたのは、「看板娘 蘭子(4歳)」の名前だった。

通りがかった人々が足を止める。

「この子……また大きくなったんじゃないかしら?」

「いやあ、相変わらず絵になるねえ。大人になったらどんな美人になることか」

「でもあの子、魚屋の晋平くんのこと好きなんでしょう?」

「えっ、そうなの?」

噂は、花びらのように舞いながら、街の隅々へと広がっていった。

蘭子は魚屋の晋平に会うため、毎朝「おつかいに行く」と言い張った。

「蘭子、おつかいなんてまだ無理よ。小銭、落とすでしょ?」

「おつりはもらわない主義ですの。芸術に計算は不要よ」

「何を言ってるの……」

伊都子が嘆くそばで、蘭子はすでに外套を羽織り、帽子をかぶっていた。
首には絹のスカーフ、足元はピカピカに磨かれた革靴。
まるでちょっとした映画の子役のようだ。

「わたくし、今日は“恋するマーケット・レディ”の役を演じますの。ええ、そうよ。イワシを買いに行くのだって、立派な舞台なのよ」

そして、颯爽と出て行く後ろ姿に、近所のおばあさんがつぶやく。

「花村のお嬢さん、ほんとに将来女優になるかもねぇ……」

魚屋にたどり着くと、蘭子はショーケースの前で立ち止まり、まるでフランス映画のヒロインのように憂いを帯びた顔を作った。

「今日は……イワシの気分かしら。脂の乗り具合は?」

「え、あ……うん。いいよ」

店の中では晋平が包丁を握って魚をさばいていた。
真剣な顔で、無駄な動きがない。

「……素敵」

蘭子は小声でつぶやき、スカーフの端をそっと指に巻きつけた。

「晋平さま……今日も無口でいらっしゃるのね。でもその沈黙、わたくしには聞こえますわ。心の声が、胸に響いてきますもの」

「……え?」

「ううん、なんでもないの。イワシを三匹くださいませ。わたくし、夕餉の献立を考えてみようかと存じましてよ」

「へ、へぇ……」

蘭子の口調に困惑しながらも、晋平は丁寧に魚を新聞紙に包み、「はい」と差し出した。
その手はごつごつしていて、けれど温かかった。

「また、来るわ。きっと……明日も」

魚屋の暖簾をくぐって出て行く蘭子の背中を、晋平はただ、ぽかんと見送っていた。

その日の午後、蘭子は自宅の縁側に腰をかけ、イワシを焼く母の背中を眺めていた。

「おかあさま、恋って……おなかがすくのね」

「は?」

「いえ……なんでもありませんわ。お魚のにおいで、ちょっとだけ切なくなったの」

「……あんた、ほんとに四歳かい?」

「刹那って、こういうことなのかしら……」

焼き魚の匂いに包まれながら、蘭子はひとつため息をついた。

「晋平さまは、わたくしの王子様。でも、王子様って案外、無口で魚臭いのね」

縁側には、春の風がふんわりと吹き抜けた。
花びらが一枚、蘭子のスカートにひらりと落ちる。

「でも……悪くないわ。ええ、きっと……これも恋の始まりってやつですのよ」

蘭子はスカートの上の花びらを指でそっとなぞると、それを口元に当てて小さく笑った。

まだ四歳の女の子が、恋に胸を焦がすなんて、誰が信じるだろう。

けれど、それが蘭子なのだ。

夢見る瞳とおしゃまな口調で、今日も彼女は人生という名の舞台に立ち続ける。

そして――舞台の幕は、まだまだ上がったばかりだった。
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