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第3話「はじめてのポスター撮影」
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日曜日の朝は、いつもより街が静かだ。
菊見通りの商店街にも、人影はまばらで、まだ開け放たれていない店の格子戸が陽の光を反射して、うす金色にきらきらと光っている。
そんな中、花村家の玄関の引き戸がカラリと開くと、まるで「スポットライト、ここに!」とばかりに、蘭子がつま先立ちで現れた。
帽子はいつものサンハットではなく、今日は羽根飾りのついた麦わら帽。
スカートは新しく仕立てた紺のギャザースカート、靴は白のレースアップで、祖母のお古を磨き上げたもの。
手には、見よう見まねで自作した「お買い物メモ」を握っていた。
漢字はまだ書けないから、ほとんどが絵とひらがな、そして意味不明の記号でできている。
だが、蘭子にはそれが立派な台本だった。
「さあ、本日も開演ですわ。魚屋の王子に愛を伝える、勇敢なる令嬢の冒険……!」
誰に言うでもなくそう宣言すると、蘭子はいつものように“女優歩き”で通りを進んだ。
江本鮮魚店は、通りの角を曲がったところにある。
青い布地に白く染め抜かれた「鮮魚」の暖簾が、風にふわりと舞っていた。
「……あら、今日もいい日になりそう」
そうつぶやきながら店の前に立つと、ちょうど店の奥から魚の頭が飛んできて、バケツの中にポチャリと落ちた。
「ほい、晋平、次はカツオいくぞ!」
「はーい!」
威勢のいい声が奥から返ってくる。それは店主――晋平の父・江本重吉の声だ。そして魚の頭を受け取っているのが、まだ六歳の晋平だった。
そう。晋平はまだ“子供”なのだ。
魚を担いでいるわけでもなければ、無口で寡黙な漢というほどでもない。
ただ、商店街の中では少し大人びた雰囲気があるため、蘭子の中で“王子様”として脚色されていたに過ぎない。
「いらっしゃい、蘭子ちゃん。今日も一人でえらいねぇ」
店先にいたのは、晋平の母・和江だった。
エプロン姿で魚の値札を並べながら、にこにこと笑っている。
「おはようございます、奥さま。本日は、“愛の鯛”はございますか?」
「……あ、あいの、たい?」
和江が目をぱちくりさせている隙に、蘭子は店内に歩を進めた。
今日こそは晋平とふたりで話すのだと、心に決めていたのだ。
「あっ……蘭子……ちゃん?」
ちょうどカツオの血をぬぐっていた晋平が、蘭子に気づいて小さな声で挨拶をする。
その手には、まだ包丁は握られていない。
蘭子の想像の中で“ごつごつして温かい”はずの手は、実際には子供らしく、細くて、指もほっそりとしていた。
なのに、なぜか蘭子はそれを“間違いだ”と直視できず、胸の内にそっとしまい込んだ。
(ちがう……これはリハーサルよ。本番のときにはきっと、あの手が私をしっかり包み込むの)
「今日は……イワシが……よく売れてる」
晋平がそう言いながら、魚をトレイに並べている。
声は小さいが、言葉には真面目さが滲んでいた。
「そう……イワシ……そうね、それが運命というものかしら」
「え、運命?」
「ううん、なんでもないわ」
蘭子は顔を赤らめて、慌ててカツオの方に視線を移した。
目の前には、目玉がぎょろりとした魚の顔がずらり。
だが、怖くはなかった。
(晋平さまのいる世界だから、魚の目さえもきらきらして見えるのよ)
「……鯛、いるよ。小さいけど、安くしてもらった」
晋平が奥から引っ張り出してきたのは、小ぶりの鯛だった。目が透明で、鱗も輝いている。
「まあ……なんて可憐なお姿。わたくし、これをいただきます」
「うん……」
鯛を新聞紙にくるみながら、晋平の手が蘭子の指先に少し触れた。
蘭子の脳内で、雷が落ちた。
(きた……手が……ごつごつじゃない!?)
そう、蘭子は初めて気づいてしまった。
晋平の手は、大人の男のような手ではなかった。
むしろ、まだやわらかく、少年らしい手だったのだ。
その一瞬、彼女の中でひとつのイメージが崩れ落ちた。
けれど、だからといって、恋が終わるわけではなかった。
(……違う。そうじゃないの。これは、成長の過程……序章……少年王子が、真の騎士へと変わっていく物語)
自分に言い聞かせながら、蘭子は再び笑顔を取り戻した。
「ありがとう、晋平さま。あなたの手は、春の風のようですわ」
「えっ……?」
「あ、いえ、なんでもございませんの」
家に戻る道すがら、蘭子はスカーフの端を指で撫でながら、空を見上げた。
桜の花がちらほらと咲き始め、花びらがひとつ、帽子のつばに乗った。
「きっと、大人になるって、こういうことなのね……」
子供の手が、少年の手であること。
夢と現実の狭間にある、わずかなズレ。
それを知ることは、まるで春風のように、心をくすぐってきた。
夜、縁側に座っていた蘭子は、父・清太郎に鯛の味をどうだったかと尋ねられた。
「うん、美味かったよ。けっこう脂がのってたな。あれ、晋平くんが選んだのか?」
「ええ、そう。晋平さまは、きっと魚の声が聞こえるの」
「魚の……声?」
「ええ。“わたくしを蘭子に届けて”って、そう言ってたのよ」
「……そうか」
清太郎はくすくすと笑いながらも、どこかうれしそうだった。
夜更け、布団の中で、蘭子はじっと両手を見つめていた。
(いつかこの手が……彼の手と重なるときが来る。そのとき、私はもう“子供”じゃなくなってるかしら)
自分の手もまた、柔らかくて、細い。
けれど、今日のように一瞬でも触れ合えば、その一秒が永遠の記憶になる。
「晋平さま……あなたの成長を、わたくしは……待ちますのよ」
そっと布団にくるまりながら、蘭子は夢の中で、もう一度手を伸ばした。
そこに触れたのは――まだ少年の、温かい手だった。
菊見通りの商店街にも、人影はまばらで、まだ開け放たれていない店の格子戸が陽の光を反射して、うす金色にきらきらと光っている。
そんな中、花村家の玄関の引き戸がカラリと開くと、まるで「スポットライト、ここに!」とばかりに、蘭子がつま先立ちで現れた。
帽子はいつものサンハットではなく、今日は羽根飾りのついた麦わら帽。
スカートは新しく仕立てた紺のギャザースカート、靴は白のレースアップで、祖母のお古を磨き上げたもの。
手には、見よう見まねで自作した「お買い物メモ」を握っていた。
漢字はまだ書けないから、ほとんどが絵とひらがな、そして意味不明の記号でできている。
だが、蘭子にはそれが立派な台本だった。
「さあ、本日も開演ですわ。魚屋の王子に愛を伝える、勇敢なる令嬢の冒険……!」
誰に言うでもなくそう宣言すると、蘭子はいつものように“女優歩き”で通りを進んだ。
江本鮮魚店は、通りの角を曲がったところにある。
青い布地に白く染め抜かれた「鮮魚」の暖簾が、風にふわりと舞っていた。
「……あら、今日もいい日になりそう」
そうつぶやきながら店の前に立つと、ちょうど店の奥から魚の頭が飛んできて、バケツの中にポチャリと落ちた。
「ほい、晋平、次はカツオいくぞ!」
「はーい!」
威勢のいい声が奥から返ってくる。それは店主――晋平の父・江本重吉の声だ。そして魚の頭を受け取っているのが、まだ六歳の晋平だった。
そう。晋平はまだ“子供”なのだ。
魚を担いでいるわけでもなければ、無口で寡黙な漢というほどでもない。
ただ、商店街の中では少し大人びた雰囲気があるため、蘭子の中で“王子様”として脚色されていたに過ぎない。
「いらっしゃい、蘭子ちゃん。今日も一人でえらいねぇ」
店先にいたのは、晋平の母・和江だった。
エプロン姿で魚の値札を並べながら、にこにこと笑っている。
「おはようございます、奥さま。本日は、“愛の鯛”はございますか?」
「……あ、あいの、たい?」
和江が目をぱちくりさせている隙に、蘭子は店内に歩を進めた。
今日こそは晋平とふたりで話すのだと、心に決めていたのだ。
「あっ……蘭子……ちゃん?」
ちょうどカツオの血をぬぐっていた晋平が、蘭子に気づいて小さな声で挨拶をする。
その手には、まだ包丁は握られていない。
蘭子の想像の中で“ごつごつして温かい”はずの手は、実際には子供らしく、細くて、指もほっそりとしていた。
なのに、なぜか蘭子はそれを“間違いだ”と直視できず、胸の内にそっとしまい込んだ。
(ちがう……これはリハーサルよ。本番のときにはきっと、あの手が私をしっかり包み込むの)
「今日は……イワシが……よく売れてる」
晋平がそう言いながら、魚をトレイに並べている。
声は小さいが、言葉には真面目さが滲んでいた。
「そう……イワシ……そうね、それが運命というものかしら」
「え、運命?」
「ううん、なんでもないわ」
蘭子は顔を赤らめて、慌ててカツオの方に視線を移した。
目の前には、目玉がぎょろりとした魚の顔がずらり。
だが、怖くはなかった。
(晋平さまのいる世界だから、魚の目さえもきらきらして見えるのよ)
「……鯛、いるよ。小さいけど、安くしてもらった」
晋平が奥から引っ張り出してきたのは、小ぶりの鯛だった。目が透明で、鱗も輝いている。
「まあ……なんて可憐なお姿。わたくし、これをいただきます」
「うん……」
鯛を新聞紙にくるみながら、晋平の手が蘭子の指先に少し触れた。
蘭子の脳内で、雷が落ちた。
(きた……手が……ごつごつじゃない!?)
そう、蘭子は初めて気づいてしまった。
晋平の手は、大人の男のような手ではなかった。
むしろ、まだやわらかく、少年らしい手だったのだ。
その一瞬、彼女の中でひとつのイメージが崩れ落ちた。
けれど、だからといって、恋が終わるわけではなかった。
(……違う。そうじゃないの。これは、成長の過程……序章……少年王子が、真の騎士へと変わっていく物語)
自分に言い聞かせながら、蘭子は再び笑顔を取り戻した。
「ありがとう、晋平さま。あなたの手は、春の風のようですわ」
「えっ……?」
「あ、いえ、なんでもございませんの」
家に戻る道すがら、蘭子はスカーフの端を指で撫でながら、空を見上げた。
桜の花がちらほらと咲き始め、花びらがひとつ、帽子のつばに乗った。
「きっと、大人になるって、こういうことなのね……」
子供の手が、少年の手であること。
夢と現実の狭間にある、わずかなズレ。
それを知ることは、まるで春風のように、心をくすぐってきた。
夜、縁側に座っていた蘭子は、父・清太郎に鯛の味をどうだったかと尋ねられた。
「うん、美味かったよ。けっこう脂がのってたな。あれ、晋平くんが選んだのか?」
「ええ、そう。晋平さまは、きっと魚の声が聞こえるの」
「魚の……声?」
「ええ。“わたくしを蘭子に届けて”って、そう言ってたのよ」
「……そうか」
清太郎はくすくすと笑いながらも、どこかうれしそうだった。
夜更け、布団の中で、蘭子はじっと両手を見つめていた。
(いつかこの手が……彼の手と重なるときが来る。そのとき、私はもう“子供”じゃなくなってるかしら)
自分の手もまた、柔らかくて、細い。
けれど、今日のように一瞬でも触れ合えば、その一秒が永遠の記憶になる。
「晋平さま……あなたの成長を、わたくしは……待ちますのよ」
そっと布団にくるまりながら、蘭子は夢の中で、もう一度手を伸ばした。
そこに触れたのは――まだ少年の、温かい手だった。
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