花村蘭子ものがたり 〜昭和の風、紫陽花の恋〜

naomikoryo

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番外編:鰺も恋も、目が命

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魚屋・江本鮮魚店の裏口で、晋平は渋い顔をしていた。
白い割烹着の胸元をむずがゆそうにかき、店の前に並ぶアジと鯖の箱を目で追いながら、ぽつりとつぶやく。

「……なあ、おっかあ。見合いって、本気なんか?」

「当たり前でしょ。もう四十じゃないの、あんた。うちの台所事情も、あんたが老後に魚さばいてる姿ばっかりじゃ、ちょいとばかし不安なのよ」

和江の声は冗談めいていたが、目元は本気だ。
実のところ、町内の誰もが待っていた。「江本の晋平が、ようやく身を固めるかもしれんぞ」と。

しかし――。

「写真も無しに、お見合いに行くなんて、変じゃないか?」

「先方も“うるさい情報無しでお願いします”って言ってきたのよ。大丈夫、きちんとした方よ。ほら、会ってみて合わなきゃ断ればいいだけ。ね?」

「……もう、嫁なんぞいらんけどな」

「店の将来はどうするのよ!」

「養子でももらって継がせるか?」

「そんな訳にはいきません! 今回は逃げさせません!」


その日、晋平は無言でゴム長を履き、上着を羽織った。
気が重い。それでも、行かねばならぬ。

町の料亭「喜代川」の離れに通された晋平は、心ここにあらずで畳に座っていた。
新調された足袋が妙にくすぐったい。

ふすまの向こうで、仲人の声がした。

「……それでは、お引き合わせいたします」

ふすまが、すーっと開いた。

そこに立っていたのは――
優雅に、けれどどこか飄々とした笑みを浮かべた、和装の女。

光沢のある藤色の着物に、落ち着いた紺の帯。
目元はしなやかに引かれ、笑うと、かつてのポスターが脳裏によぎる。

「はじめまして。花村蘭子と申します。そちらはどちら様でしょうか?」

その瞬間、晋平の心の中で、何かが爆ぜた。

(……おいおいおい)

蘭子。
あの蘭子。
商店街のポスター娘から、銀幕の華となり、今や「テレビにも舞台にも引っ張りだこ」と言われる国民的女優。

晋平は、しばし言葉を失った。

「……ど、どちら様って、言ったかい?」

「花村蘭子と申します。“初めてのお見合いに緊張している”という役を、本日いただいておりますの」

にっこりと笑う蘭子の言葉に、晋平は咄嗟に「冗談だろ」と言いかけたが、どうやら本気らしい。

仲人も女将も、「ごゆっくり」と空気を読んで退席してしまった。

二人きりになった部屋には、妙な沈黙が流れた。

「……おまえ、本気か?」

「ええ。“役作り”の一環でして。いずれこういう場面の芝居もするかと思いまして、実地体験を」

「……ずいぶん手の込んだ実地訓練だな」

「さよう。では、お見合いらしい質問などしてみましょうか?」

そう言って蘭子は、扇子を閉じて膝の上に置き、すました顔で尋ねた。

「これまでに、お付き合いされた方は……いらっしゃいますか?」

晋平は内心、ものすごく困った。

(いや、これは“蘭子”じゃない。“知らん女”として扱えってことだよな……)

「そりゃあ、この年まで生きてりゃ、まあ何人かは」

その瞬間だった。

蘭子の目が――ついっと吊り上がった。

「……まあ! いけませんわ、軽率な方は!」

「え? あ……え?」

「そういうのは、わたくしちょっと……」

「ち、違う! 今のは冗談だ!」

「冗談とは! 人の気持ちを揺さぶっておいて……!」

「本当に冗談なんだって! だって俺は、ずっと一人の人しか……」

蘭子の動きが、ぴたりと止まる。

晋平は、深く息を吸って、はっきりと言った。

「……冗談だ。ずっと、ずっと一人の人だけを、愛してきた。応援してきた」

沈黙。

やがて、蘭子は、ゆっくりと顔をほころばせた。

「……わたくしも、実は。華やかな世界にいても、心の底では“商店街の魚屋さんの前”ぐらいがちょうど良いのではと思いまして。本日、まいりました」

気づけば二人は、見合いの場なのに笑い合っていた。

畳の上、扇子と湯呑の間で、過去の想いがさざ波のように寄せては返す。

「で、嫁入りはいつだ?」

「もう、すぐにでも。わたくし、鰺の目利きはまだですけれど、鯛の顔ならよく覚えておりますわ」

「……おっかあが、ひっくり返るな」

「わたくしの花嫁姿を見て倒れるなら、今のうちに畳替えしておいてくださいませね」

数日後、商店街は“未曾有の騒ぎ”に包まれた。

江本鮮魚店の前には、カメラ、記者、ファン、映画関係者、舞台役者、大道芸人まで押し寄せ、文字通り「人の波」。

白無垢姿の蘭子が、笑顔で花村家から歩いてくると、商店街の子供たちが花道を作った。

「本日は、私、花村蘭子改め、江本蘭子の芸能界引退および婚礼式にお集まり頂き誠にありがとうございます!」

「これからは、商店街の一員として、魚の目利きから始めます! どうぞごひいきに!」

拍手、歓声、泣き笑い。
あの静かな町が、まるで映画の一場面のように、華やかに、温かく、未来へと動き出した。


蘭子は、その後、女優業を一線から退いた。
けれど、その後も「魚屋の女将がTVでお魚の選び方を教える」といった特集で話題になり、店はさらに繁盛。

晋平はと言えば、かつてのように黙って魚をさばきつつ、時折、子どもたちに目をやり、目尻を下げる。

ふたりの間には、三人の子が生まれた。
長男は市場を継ぎ、次男は料理人に。
末の娘は――どうやら母親譲りで、早くも「商店街のポスター」に登場しはじめている。

ある春の日。

「蘭子」

「はい?」

「幸せか?」

「……そりゃもう」

蘭子は、そっと笑った。

「なにせ、鰺も恋も、目が命ですもの」

そして今日も、江本鮮魚店には、静かで賑やかな日常が流れている。
昭和の恋が、商店街に根を張り、ゆっくりと、美しく咲き続けているのだった。
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